いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(188)「みことばの力」

2014年05月04日 | 聖書からのメッセージ

 マタイによる福音書8章5節から13節までを朗読。

 8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」とあります。
 ご存じのように、百卒長とは名前ではなく、当時ユダヤを支配していたローマの軍隊の組織の名前です。言うならば百人の部下を持った隊長という意味でしょう。百卒長が10人集まって、その上に立つ人が恐らく千卒長だろうと思います。ですから人の名前ではなくて、百卒長という身分、職分を表す言葉です。

 この百卒長がイエス様の所に来て、お願いしたのです。「僕が中風(ちゅうぶ)でひどく苦しんで」と。「中風」という言葉は最近あまり使わなくなって、むしろ脳出血とか脳梗塞(こうそく)とか、そのような言い方に変わりました。「中風」というのは、まひを起こす病気の総称、俗称的な言葉で、日本でも、あの人は中風だそうだ、というようなことを昔いいましたが、今はあまり使わない言葉です。

 その僕の体が半身まひしていたのでしょうか、「家に寝ています」と訴えました。何とかイエス様に癒していただきたいと思ったのです。イエス様のことを百卒長は聞いていました。また、この百卒長は大変部下を思いやる人だなと思います。百人もいる部下の一人がそのような病気になった。ひとつ頼みに行ってあげようと、イエス様の所に来たのです。そのときイエス様は、7節に「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。実にイエス様は寛容な方ですね。あのスロ・フェニキヤの女の人が「娘から悪霊を追い出してください」とお願いした。そのときイエス様は「わたしはイスラエルの民のために来たのであって、異邦人のためではない」と、つれなく断った記事があります。イエス様ってどちらが本性かなと思いますが、百卒長はユダヤ人ではありません。外国の部隊ですから、イタリヤ人といいますか、ローマの兵卒だったでしょう。だから、本来イエス様はユダヤ人ですから、そのような異邦人と交際することは許されないどころか、律法の上では汚れた業ですから、あまり好まれません。ですから、スカルの井戸のところでもそうです。サマリヤの女に出会いました。その当時、サマリヤ人はユダヤ人よりも劣った者だという考え方がありました。

ですから、このときも百卒長が、言うならば異邦人がイエス様の所へ来たのですから、イエス様は当然断るべきなのかもしれません。ところが何と「わたしが行ってなおしてあげよう」と、そこまで言われて、百卒長は大喜びしたかというと、そうではなかった。8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません』」。これは何のことを言っているのかなと思いますが、それは今申し上げましたように、ユダヤ人と異邦人とは、殊に異邦人、ユダヤ人でない人の家に入るのはご法度だったからです。神様の前に汚れた罪を犯すことになると、パリサイ人やサドカイ人などは熱心に主張した時代です。そのようなことも百卒長はよく知っていました。だから「滅相もない、ユダヤ人でいらっしゃるイエス様が私のうちなんかに来てもらえるわけがない」と思うのは当然です。そんなことをするとイエス様が不利な立場に立つといいますか、社会的に制裁を受けるに違いないことも知っていました。だから、百卒長はイエス様の立場を考えている。来てもらって癒していただけるならば、それは大喜びだと思います。でも、百卒長は自分の社会的な身分の違いとか、あるいは風俗習慣の違いの中でイエス様に来ていただける身分ではないと、そのようなことを言ったのです。同じ記事がほかの福音書に記されていますが、その所では、当時の有力者がわざわざイエス様に口添えしているのです。「この人は非常に熱心な人で神様のことを大切にして、寄付もよくしているからひとつイエス様、何とかしてやってください」と言ったことも記されていますが、いずれにしても、百卒長はユダヤ教ではありませんでしたが、イエス様が信じている神様、イエス様が信頼する神様はきっと真(まこと)の神様であることを、彼は薄々信じていたに違いない。そうでなければ、イエス様の所にわざわざ訪ねて、求めてくることはしないだろうと思います。

ですから、ここで「屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と。「とんでもない、イエス様、あなたはユダヤ人であり、私は異邦人である。こんな私の所に来てもらうなんて、私には到底そんなことはできません」という断り方をしたのです。ただそのとき、8節の後半に「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言ったのです。「お言葉を下さい」、イエス様の言葉、彼はイエス様が神様の子であると信じていたかどうか分かりませんが、いずれにしても権威ある者、力ある方、神様の言葉は真実な言葉だと、彼は体験的に知っていた。その証詞がその次にあります。自分は百人の部下を持つ隊長、しかもその兵卒に「行け」あるいは「こい」と命令をする。「これをせよ」、「行け」、そのような命令をする。自分が発する言葉に部下は必ず従う。なぜ従うかと言うと、自分も上に立つ者、力ある者、権威ある者だから、その言葉には必ず結果が伴う。その権威ある者に従っていきさえすれば、その言葉が具体化していく、ひとつの力を現してくれるに違いない。ここで「行け」と言えば人が行って、「あれをしてくれ」、「これをしてくれ」と言うと、その言われた部下は忠実にそのとおりにする。言うならば、言葉が具体的な結果となる。

言葉はそのように力があるものです。私が若いころ、皆さんもご存じのはずですが、学生運動が華やかで、盛んだった時代があります。その当時「ゲバ棒」という、懐かしい言葉ですけれども、角材を振り回して機動隊とぶつかったりしましたが、権力ある者に対する反抗というスローガンを掲げていました。私もその時代を生きていて、その中にいたことがありました。その中で若い人の議論は何であったかと言うと、権力者、権威ある者は、弱者、下にいる者を苦しめる。その苦しめるとは具体的に何をするのか、どういう意味で苦しめるか。言葉をもって苦しめるというのです。「ゲバ棒を持って、暴力はいけないじゃないか」と周囲から非難されました。暴力を振るうなんてとんでもないと。ところが暴力が許される場面がありうるという考えがあったのです。羽仁(はに)五郎というその当時の論客がいまして、彼の本などを私も熱心に読んだ時代がありますが、彼が言うには、権力者、あるいは力ある者が弱い者をいじめてくるとき、弱者が権力者に向かって反抗する手段として暴力を使うのは正当化されるという論理なのです。なぜならば、権力を持った者はどんなことでも自分の思いどおりにできる。それに対して弱者、弱い者はそれに対抗できない。言われるまま、されるがままにならざるを得ない。そのように圧迫された者が権力者に向かっていくには言葉の力では足らない。いや、むしろ権力者は言葉の暴力を振るうと言ったのです。だから弱者は言葉ではない別の暴力、言うならば「ゲバ棒」を振ることは許されて当然、それは正当なんだという考え方がありました。それはどういうことかといいますと、言葉は暴力である、力であるという。

皆さんも普段体験することです。そばにいる静かな人に向かって「馬鹿」だとか「間抜け」だとか、あるいは何か相手を非難、中傷する言葉を一言発してご覧なさい。一気にボカッと殴られ、痛い思いをする。「殴ったほうがいかん」と言いますが、子供のけんかを見ていると、きっかけになる言葉が必ずある。兄弟げんかを見ていますと、お兄ちゃんが弟をギャーッと殴ったりけ飛ばしたりする。「やめなさい!お兄ちゃん駄目!」と言う。「言われたのなら、手を使っちゃ駄目!」と言うでしょう。それは間違いなのです。言うということは、これは大きな暴力、力なのです。手でポカンとやる以上の力が言葉にはある。だから、言葉だけだからいいじゃないかと、適当に人を非難したり、馬鹿にしたりする。ところが、その言葉には力があるのです。だから相手からけ飛ばされたり殴られたり、引っかかれたりしますが、そのときに「私は言っただけで、何でこんなにされなければいけない。こんな仕返しをされて」と言いますが、実はその聞いた言葉が、その人の中にエネルギーを投げ込むのです。だから、言葉は、ある意味では怖い。とんでもない事態を引き起こします。だからヤコブ書には、言葉を制する者はあなたの生涯、人生をちゃんとやれる人だと。大きな船は小さなかじで船を動かすではないか。私達はたったちっぽけな舌のゆえに大きな火事を起こすと書いてある。だから言葉はいい加減では使えない。言われるほうも、言うほうも余程気をつけて言わなければならない。権威ある者の言葉とはそういう力がある。

だから、9節でイエス様に百卒長が「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」と語ったのです。「せよ」「行け」というその言葉に必ず従って具体的な業、行動が伴ってくる。神様の言葉もそうだと百卒長は言うのです。彼の信仰告白です。神様は天地万物の創造者、すべてのものの上に立つ権威あるお方です。その方が発する言葉はすべてに必ずその結果が出てくる。だから「お言葉を下さい」なのです。イエス様の発する言葉、神様の言葉をいただくならば、その言葉は必ずいのちとなっていきます。またその結果が出てくると、百卒長は信じたのです。ここで、今日教えられたいのは、いくら聞いた言葉でも、その人の心の中でその具体的ないのちにつながっていくためには、それを信じなければならない。

軍隊のように上官がおり、兵卒たちがいて、上下関係という枠組みの中でいやでも応でも従わなければいけない中に置かれるならば、幸いだと思うのです。良い上官ならば、その言葉に従う兵卒たちは幸いです。神様は、確かに目には見えませんが、私たちにとって権威ある御方であり、私たちはその神の子供、しもべです。ただ、軍隊のように具体的な組織の中に強制的に入れられたわけではありません。ここがいちばん違う点です。私たちが自発の意思をもって、神様の言葉を権威ある言葉と信じて受け入れることが大切です。軍隊だと、それは一つの枠組み、組織の中にカチッと組み込まれていますから、もしそれに違反したら即処罰を受ける具体的な秩序があります。私たちと神様も実は見えないそのような大きな秩序の中にいるのですが、違反した場合に即処罰を受けるような軍隊的な組織の中ではない。それだけに、私たちの自由意志といいますか、私たちの信仰が求められる点なのです。だから聖書の言葉を神様のお言葉、権威あるお言葉と本当に信じて、それに従う。この百卒長のように、私は権威の下にあって、私のうえにも権威ある人々がいる。千卒長、あるいは将軍でしょうか、上なる者がいて、その言葉に私も従っている。また私の部下たちも私に従ってくれる。そのようなきちっとした秩序、権威の下にすべてのものが順序だって立っている。

同様に、私たちも実はそのような中にいるのです。神様がすべてのものに君臨してくださって、私たち一人一人を神様が生かし、導き、育て、持ち運んでくださっている。私たちにとっていちばん権威あるものは、「山の神」でも「雷親父」でもない。神様ですよ。神様がもっとも権威ある御方。ところが、普段私たちはその神様を忘れて、自分こそ権威ある者のごとく、唯我独尊、おれがすべてだと思っている。そこに罪がある。だから、神様のお言葉を聞きながら、それを聞き流していく。これは大きな損失といいますか、神様の恵みを取りそこなう結果になるのです。私たち一人一人が聖書のお言葉をどのような言葉として自分のものとして受けていくか。神様が私に語ってくださったお言葉ですと信じて、それに従うということを徹底する。自分自身が心に定めていかなければこれは成り得ないのです。これは神様が私に与えてくださった、権威ある御方が私に求めていらっしゃることだからそれに従っていきますと、御言葉をきちっと自分自身が、一人一人が信じるということが大切なのです。

といいますのは、先だって私は家内の父のためにホスピスのある「栄光病院」という所へ行ったのです。ここはキリスト教の信仰に基づく病院なのです。私は待合室で待っておりました。そうしましたら壁に大きな文字が書いてある。「このいと小さき者にしたるは、わたし(イエス・キリスト)にしたことである」と書かれていました。これはマタイによる福音書にある言葉です。私はそれをしばらく眺めて、はたと思ったのです。なるほどこの病院としては、このスローガンを掲げてはいるけれども、ではここに勤めているみんながこのような思いでいるのだろうか? 病院として、組織としてスローガンといいますか、これに従うのだというならば、そこにいるお医者さんはどうなのだろうか?例えば、私どもが診察室に入るとします。そうすると「このいと小さき者、病んでいる人が来たな。これはイエス様ご自身だ」と、そう思って診察してくれるのでしたら、1分診察とはならないでしょう。言葉も変わるに違いない。余程ここは立派な所かなと思う。会計係の人もそういう心で、このお言葉に従って、目の前にお金を払いに来た、このいと小さき者、今から支払いをしているけれども少しまけてやろうかと、イエス様のためにするのなら……となるかと、そうはならないでしょう。私はそのとき、これは本当に素晴らしい言葉だし、その言葉をどのように具体化していくかということになると、この病院そのものがこの言葉どおりにはいかないと思いました。ここの病院はキリスト教主義でこういうスローガン、このような理念でやっていますからといっても、その理念とそこに働いている人が、その聖書の言葉をどのように理解し、自分の行動、生活に結び付けているか、これがなければいくら理事長か何か知りませんけれども、トップの人が「これはいい言葉だからこれにしよう」と言ったって、周囲の人々にはそれが伝わらないと思う。だから、その組織に所属しているから、そのような生き方ができているのとは違います。

そこで私は信仰とはいかに一人一人個人の問題であるかを再確認しました。私はいろいろな福祉の場面だとか、医療現場だとかを体験し、養護老人ホーム、介護施設なんかを見て回りましたが、素晴らしいスローガンはあるのです。ある介護施設に行きましたら、正面に「人間の尊厳」と大きく書いた額が掲げられています。ここは入所者を余程大切にしてくれるのかなと思って見ていましたら、介護の人が粗相したお年寄りを激しい言葉でしかっているのです。「人間の尊厳」のあの言葉と、それはどうつながるのかなと……。私はその人を非難しているのではなくて、実はこの言葉はスローガンであって、私たちの幻想なのです。この施設はこういうスローガンを掲げているから、みんながそうなのだと思うのは誤解なのです。期待するほうがいけないのです。そうではなくて、そこに働いている一人一人がどういう思いを持っているかが問題なのであって、そこを見なければいけません。ですから、皆さんがこれから介護施設を見学するときは、スローガンがいいか、施設が充実しているとか、そのようなところを見ては駄目ですよ。そこに働いている一人一人がどういう働きをしているだろうか、どのような考えに従ってやっているのだろうか、そのような点を見てこないと失敗します。そういう中で時々「これは」と思う施設に出会います。ここはいい施設だ。と言いますのは、みんながみんなではないかもしれませんが、そこに一人二人の、本当に自分の与えられた使命に献身的にやってくださる方がいらっしゃるのです。私はそのような方を見ますと、「この施設はいいな」と思う。なぜいいかと言うと、そのような一人の人がいることがその施設の価値なのです。

それと同じように、私たちの信仰が問われるのです。この教会はここにいらっしゃるあなたがどういう信仰を持っているかによって評価されるのです。この教会は亡くなった榎本利三郎先生が信仰深かったから、その傘の中にちょっと入れてもらおうと、そこに所属しているから私もそれになった気になる。これは間違いです。一人一人が聖書の言葉を神様の権威あるお言葉として、自分に今語られたこととして、それをしっかりと握って、聞くだけではなく、その言葉に従うのです。

ヤコブの手紙2章14節から23節までを朗読。

今お読みました所に「行いがなければ」とあります。これは古くて新しい信仰の問題です。ローマ人への手紙を読みますと「人が義とされるのは行いによるのではなく、ただ信仰によるのである」と書いてあります。それをしっかり握って、ルターは宗教改革を起こしました。ルターに言わせると、このヤコブの手紙は「藁(わら)の書」である、あまり値打ちがないといわれたのですが、それは誤解です。決してルターは「行い」を否定したわけではありません。いや、それどころかむしろ御言葉に従って生きたのです。

昔、この教会に若い青年がたくさんいました。召された高木兄、東俊郎兄もそうですが、みな若い結婚前、20代のころ牧師館に来て喧々囂々と、信仰について父と議論をするのです。夜の1時も2時も、私は障子ひとつ隔てた横で寝ていましたから、寝られなかったですが、それでも聞いていた。“門前の小僧習わぬ経を読む”というように、私も見聞きしていました。その当時、特に高木兄がいちばん悩んでいたのは「自分はローマ人への手紙はいいけれども、どうしてヤコブの手紙があるのだろう。そこでは『行い』が強調され、言うならば他力か自力かどちらなのか」と言うのです。「行い」で信仰が全うされるのだったらそれは自力ではないか、自分の努力と自分の力ではないか。ところが、信仰によってただ一方的な神様の恵みによる生き方は、これは他力といいますか、神様の力にすがるからこれが正当ではないかと……、まぁ、本当にとてつもない議論をしていたのです。そのころのことを思い出しますが、私はその後々ズーッとそのことをいろいろと考えていたのです。結局行き着くところは、信仰も行いもこれは同じものなのです。どういうことかと言いますと、信じたらそのように私たちの生活も変わり、行動も変わり、言葉つきも変わるではないですか。皆さんが宝くじに当たったよと聞いたら、途端にニコッと笑うに違いない。うれしくなるに違いない。そして誰にも彼にも優しくなるでしょう。それは結果、行動ですよ。聞いて信じたらそのように結果が出てくるではないですか。疑っていたらそのように行動にはつながりません。

皆さんが友達と「来週、紅葉を見に行きましょう。京都に行きましょう。一泊二日の旅行をしましょう」と誘われて、「よし、行こう」と決めたら、その日に予定していた病院の予約はキャンセルするでしょう。それは行動です、行いですよ。またすべてのスケジュールを旅行の出発に間に合うように調整します。それは言葉を信じた結果、行いが伴うことです。「私は来週の火曜日から京都に旅行に行くのよ」と言いながら、別の友達に同じ日にほかの事を約束しますか?あるいは火曜日になるまで荷物も用意しない。その日の朝になっても出掛けようとしない、「いや、私は今日行くことを信じています」。列車ははるかに行ってしまって、それでも「私は信じています。きっと京都に行きます」と、夜になってもまだ我が家にいたというと、それは信じたとはならない。信じるということは、その言葉に自分が従うことです。

だから、ここでヤコブが言っているのは、まさにそのことです。信じたならばそのとおりに動きが伴うではないか。だから20節に「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか」と、誠にそうですよ。行いを伴わない、聞いたお言葉を……、ヘブル人への手紙にあるように、聞いた言葉が信仰によって結び付けられていく。言い換えますと、自分の具体的な生活や物の考え方、価値観、あるいは判断、語ること、すべての中に、体の中にズーッとしみこんで、思わず知らず御言葉の求めているところに従って歩んで行く、それが行いなのです。だから、まさに信仰は具体的な結果を伴うし、それが私たちの行いとなっていく。21節に「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか」。本当にそうですね。「アブラハムは神を信じた」と書いてある。信じたその神様が「イサクをわたしのために燔祭としてささげなさい」と言われたのです。アブラハムは「私に神様は『祝福して多くの国民の父とする』と約束した以上、大丈夫、神様はイサクを必ず私に返してくださるに違いない」。だから「分かりました。はい、そうしましょう」と言うだけで、実際にモリヤの山に行かなかったら、彼は信仰を全うすることはできなかったのです。彼はヘブル人への手紙にあるように、「たとえこのイサクを神様が取られても、死んでも死んだイサクを生き返らせて、私に与えてくださると信じた」と語られています。それ程の信仰があるからこそ、彼は翌朝早く起きて自分の愛するイサクを連れて、しかも三日ばかりの道のりを行って、モリヤの山にまで登って祭壇を築いて具体的に言われたことを全部する。これは行為、行いです。なぜそんなことをしたのか? 信仰のゆえですよ。どのような形であれ、たとえこの子が死んだとしても、神様は必ず祝福の基とすると約束した約束はたがわないと、アブラハムは信じているから、それができるのです。それをしたが故に、彼は義と認められた。もしアブラハムが「私は神様を信じています。どっち道生かしてくださるのだから、そんなややこしいことをしなくても、行かないでこの家にいてもいいじゃないか。モリヤの山だろうと、ここだろうと同じだ」と言うのでしたら、それは信仰ではない。「いや、そんなことはない。私は信じている。神様を信じているから大丈夫です」と言うだけだったら信仰はむなしいと。私たちもそうです。いいお話を聞いて「ああ、よかった、よかった」と言って玄関を出るなり忘れてしまったら、これはむなしいですよ。そうではなくて、百卒長のように「お言葉を下さい」。私に神様が今語ってくださった権威あるお言葉と信じて、それに従う。そうすると、そのように神様は結果を現してくださる。

ですから、もう一度初めのマタイによる福音書の8章8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。聖書には素晴らしい約束がたくさんあります。私どもはその約束の言葉を信じて、今主が「こうせよ」とおっしゃる。だからといってみんながみんな、同じようにすることではないですよ。先ほど申し上げたように、「このいと小さき者にしたるはわたし(イエス・キリスト)にしたことである」とのお言葉を、恐らくそこの組織にあるトップの人が「このお言葉を信じて私はそのようにしよう」と信じたに違いない。その人にとってはその言葉が権威あるお言葉なのです。そこに勤めている従業員の人たち全てがそのお言葉を聞いて、「これは、ほかの人はどうであれ、私に今神様がこうせよと求めていらっしゃることだ」と本当に信じて、目の前に立っている患者なり、相手の人にそういう深い思い、信仰を持ってお言葉に従って接していく。具体的な行動を起こしていく。そのときその御言葉は確かに大きな力となり、その人の心の内に新しいいのちを与えてくださる。

私たちは今素晴らしい宝の蔵を心にいただいているのですから、日ごとに「お言葉をください。お言葉をください、そうすれが僕はなおります。その御言葉に従います」と、一人一人が神様の前に決断して、与えられるお言葉を自分のものとして従うことが大切です。他人(ひと)はどうでもいいですよ。どうでもいいというのは冷たい言い方かもしれませんけれども、大切なのは私なのです。あなたがどのように聖書のお言葉を信じて、神様を信頼していくか、これがあなたの人生を変えるのです。私たちをいのちへ導きいれる道筋になるのです。

どうぞ、この百卒長のようにイエス様の前にへりくだって「ただお言葉をください。そうすれば僕はなおります」と、謙遜(けんそん)になって主のお言葉を信じて、恥ずかしくても苦しくても何があっても、主がこう語ってくださるから従いますと、行いの伴う信仰を私どもは味わうことができます。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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