いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(468)「天を目指して生きる」

2015年02月12日 | 聖書からのメッセージ
「ピリピ人への手紙」3章7節から16節までを朗読。

 13節以下、「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。

 どんなことをするにも、目的、目標がなければ、何をしているのかという意味や、値打がなくなってしまいます。外出するにしても、買い物に行くにしても、何のためにどこに行くか?ちゃんと分かっていないと、それこそ外に出てはみたけれども、「え!私はいったいどこへ行くのでしょう? 」と訳が分からない。認知症の方はそういうことがありますが、私たちの日常生活ではそういうことにならないよう、いつも「今度はこうしよう」「ああしよう」と、一つの目的があります。健康のための散歩をする場合でも無目的に歩いているわけではなく、あそこまで行って、今度はここへ行って、次はこう回って、今日は大体このくらいのコースで歩いてこようと、心積もりがあります。私たちはいつもそのように目標、目的を考えて、それに向かって準備をしたり、いろいろな手はずを整えたりするわけです。

ところで、私たちの人生はどうなのでしょう。私たちはこうやって地上に生きています。生まれてから何十年と長い年月を生きていますが、あまりそういう長い人生は考えない。とにかく目の前の今日一日をどう生きるかに一生懸命になる。朝起きて、「今日はあれをして、これをして……」と、そういう一日、一日の目標といいますか、計画を立てて、それに向かって午前中はこうして、午後はああして、夜にはこうして、と決めて行く。毎日の生活についてはきちんと自分なりの目標を持っているわけです。ところが、人生、自分が生きているのは、何のために生きているのか? 自分はこうやって生きているけれども、毎日食べたり飲んだり遊んだり、いろいろな仕事をしたりしているけれども、そういうものが連続していき、その先、いちばん奥の最終の目的、自分は何に向かって生きているのか? 人生の目標、それをあまり自覚していないといいますか、考えようとしない。「考えたって分からないよ」と言う人もいます。しかし、考えないでいいのかというと、やはりそれは知っておかないと毎日の生活そのものが何のための労苦であるか、苦しみであるか、また我慢しなければいけないのか。生きることは楽なことではありません。
時に、年を重ねて来ると、「私はいつまで生きているのかしら」、「もうそろそろお迎えが来てくれなければ……」と不安になります。しかし、何のために生きているのか、そこが分からないから、私どもは力がない。先が短いことが分かり始めると余計に、「さぁ、これからどうしようか」と、殊に年を取って来るとそういう時期に入ります。若いときはそういうことにあまり頓着(とんちゃく)しないで、どんどん次々といろいろなことがあって先へ進んで行きます。しかし、だんだんと現役を退いてすることもなくなって、「今日は何をしようか」という生活になって来る。殊に今の日本の社会は年金制度も十分とは言えないけれども、それぞれ年金でかろうじて命をつなげるようになってきた。そうすると、いよいよ「何のために生きている? ただ食っちゃ寝、食っちゃ寝、いつまでこれが続くのかしら」と。といって「何か病気がありますよ。ガンの疑いがありますよ」なんて言われると、途端に「これは大変なことになった。死ぬかもしれない。死んじゃいかん」と、一生懸命に生きようとしますが、生きるとき、何を目的にして生きるか? です。多くの人々はそういうことはあまり考えない。「いや、そんなこと、どっち道、行き当たりばったり、成り行き任せだから仕方がない」と思います。だから、「今日さえ良ければ」、「今日一日を」と思います。イエス様もそうおっしゃっています。「あすのことを思いわずらうな」(マタイ 6:34)、だから、「先生、そんな先のことは分からんのだから、そんな人生の目標なんて、そんなものはあっても無くてもどっちでもいい、今日さえ良ければいい。イエス様もそうおっしゃっている。いいじゃないですか」と言われる。確かにそれはそのとおりであって、私たちは先のことをいくら思い煩(わずら)っても仕方がない。ところが、先のことを思うとは、そういう意味の何を食べ、何を着、何を飲もうとか、生活のことで先のことを思うのではなくて、いうならば、私たちが何のために生きているのか? それは長生きのための目標ではありません。たとえ人生が短くても、あるいは明日死ぬことがあろうとも、今日一日を何のために生きているのか?しっかりと心の中で定まっていないと、「することがないから生きていても仕方がない」「私は寝たきりになって人の世話を受けなければならないから、これは仕方がない。早く死にたい」という発想になってしまいます。そうではなくて、生きること、この地上に命を与えられていることが、何のためであるか、これをしっかりとしておくこと。

 いま読みました記事はパウロの告白でありますが、パウロはどのように生きて来たか。そのことが証しされている箇所であります。3章1節以下、前半の部分もそうですが、彼はかつてはユダヤ人、イスラエル人の中でも生粋のユダヤ人として誇り高い人生を生きていたのです。宗教的にもまた学識においても、見識においても非常に優れた人物であったようです。彼は、イエス様を信じる者たちを捕えてろう屋に入れて、クリスチャンを迫害することによって自分の宗教的な熱心さを証明することに情熱を傾けていたのです。ところが、彼がイエス様に出会う。そのことによって人生が変わってしまった。7節に「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった」と。それまで彼は誇るべきもの、自慢すべきものがたくさんありました。この世の誰よりも自分は優秀である、優れた人間だ、と自負していた。ところが、イエス様に出会ったとき、それらのものが何の価値も値打もないものに気がついたのです。さらに進んで8節に「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」と。かつて自分が誇りとしていた家柄、学識、あるいは民族であれ、何であれ、そういう自分が誇りとしていたもの、「これこそ」と思っていたそういう全てのものが「損である」。いわゆる、持っていたら返ってマイナスであるというのです。「早く捨てたい」もの、そういうものになってしまった。8節後半以下に「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。それまで誇っていたものを全て失った。それを捨ててしまった。「ふん土のように」、ちりあくたのごとく。生活ごみを出すときのようなものであります。日々の家庭ごみを出すとき、持って行ってポンと置いたら、後ろは振り向かないでしょう。出しておいて、何度も振り向いて、「あのリンゴの皮はどうしようか」とか思う人はいません。そんなものは二度と見たくもない。それと同じようにそれまでの生活の一切を「ふん土のように」思う。どうしてかというと、自分にもっと大切なものができたのです。私たちは二つの物を一緒に持つということはできません。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」とイエス様はおっしゃいました(マタイ 6:24)。同じ物を二つ持っていたら「予備に一つは置いておきましょう」となります。電気製品のような物が二つある。一つは必要な人にあげればいいのだけれども、欲が深いから「二つ使おう」と思う。しかし、使う人間は一人ですから二つもいらない。そのうち「やはりこれは予備に取っておこう」、何かの時に使おうと、どちらかに偏(かたよ)る。これは当然です。

パウロはこの世の自慢すべき、誇りとすべきものをしっかり握っていました。イエス様を知りませんでしたから、そういう生き方をしていた。ところが、イエス様に出会って、今度はもっと大切なこの方を得たい、と願ったわけです。8節の後半に「それは、わたしがキリストを得るためである」と。「キリストを得る」ことです。その一つのことを追い求める。それが自分にとっての最大の宝、大切なものとなってきたというのです。9節に「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」。「キリストのうちに自分を見いだす」、言い換えると、キリストと全く同じ性質に造り替えられたい、ということです。キリストを得ること、私がキリストを内に持つこと、それは取りも直さず、私がキリストに似る者とされることです。パウロの気持ちから言うならば、似るどころではない、キリストそのものになりたいというのです。そのくらいにイエス様を大切なものと思った。皆さん、私たちはどうでしょうか?「どんなものを捨てても、このイエス様だけを大切にしていきたい」。そこまで私たちがなること、これが実は私たちの生きる目的なのです。10節以下に「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」。ここに繰り返して「苦難にあずかる」「死のさまとひとしくなる」「死人のうちからの復活」と語っています。彼はイエス様と同じように死んでよみがえる。イエス様がこの地上に来てくださって、十字架に命を捨ててくださった。そればかりでなくて、その主はご自分を捨てたことによって、イエス様がご自分を十字架に釘づけて、命をそこに捨ててくださった故に、父なる神様が今度はよみがえらせて新しいいのちに生きる者としてくださる。まさに、そのイエス様に自分も全く一つになるため、死んでよみがえることを徹底したいと。それがこの10節の言葉です。「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり」、だから、イエス様のお受けになった苦難をもわたしは喜んで負う。と同時にイエス様が十字架に死んだようにわたしも死ぬ。そうするならば、また今度はイエス様がよみがえられたようにわたしも新しいいのちに生きることができる。これがパウロの切に願ったことだったのです。ですから、「ガラテヤ人への手紙」に語ったように、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」と(2:19~)。私たちも今この恵みの中に引き入れられているのであります。私たちも自分に死なないと、死ぬというのは、「死ぬって、どうやって死のうか」、練炭で死ぬのかしらと、そういう意味の死ではない。私たちが自我といいますか、自分の思いを徹底して捨て去ってしまうこと。じゃ、それを捨てるって、どうするか。これは自分の力ではできないのです、私どもは。自分でできるようだったら簡単なことです。洋服を脱ぐようにパッと「私は捨てました」と言えますが、なかなかそれができない。だから、私たちは苦しいのです。常に私たちがキリストと共に生きるということを求めて行く。

「ガラテヤ人への手紙」5章16、17節を朗読。

16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。神の御霊、霊によって歩くこと。「そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。この「肉の欲」というのが、自我であります。人の「自分」「俺」という「己(おのれ)」です。それが「肉の欲」です。それを取り除いて、それに死んだ者となる。キリストと共に死ぬとは、自分の自我を取り除いて、消し去ってもらうことです。これは自分ではできません。自分の力ではできません。いくら難行苦行、修業をしてみたって、そんなもので人が変わることはできない。それを私たちは重々知っています。じゃ、どうするか?と。一つ道がある。それは「御霊によって歩きなさい」、これです。神の御霊を信じて、神様の霊が今も私たちの内に宿ってくださって、神様の御声に私たちが従うことを努める。それを求めて行くのです。初めからそれができるとは限りませんし、実際できません。御霊の導きにどんな時にでも従おうと心掛けて、常に御霊の導きに思いを向けること。そうやって一生懸命に主の御霊に、主に従おうと努めて行きますならば、気がつかないうちに私たちは自分に死んだ者と造り変えられるのです。大切なのはここです。一朝一夕に「アッ」と一瞬にして自分は死んだ者、「もう私は死にました」と言えれば幸いですが、現実そうなりにくい。中にはそういう人もいるかも知れませんが、私たちの自我は、肉にあって生きているかぎり、どうしてもそれとの戦いが常にあります。だからといって、それに負けて放棄するわけにはいきません。そうすれば永遠の滅びであります。しかし、幸いなことにいま私たちに神様は御霊を、聖霊を注いでくださる。これは神の力です。だから、日々の生活の一つ一つのことに祈りつつ、祈りつつ「私は主の御霊に従います」「御心に従います」と、小さなことでも大きなことでも、そのことを求めて行きますとき、そのとおりにできないことはたくさんあるかもしれませんが、神様は力を与えて御霊に従って行く、自分の肉を離れて死んだ者となって、キリストと共に生きることができるのです。これが私たちの日々の生活で大切なことです。だから、どんなことも祈りながら、祈りつつ主の御声に、主の御旨に、神様が求めておられることが何であるかを知って、一回一回そこで自分を捨てて、「そうだ。神様が喜びなさるならばそうしよう」「イエス様がいま私と共にいて、このことを導かれるからこうさせていただこう」と、常に主と共に生きている時間を、この回数をできるだけ多くしていく。そうすると、気がつかないうちにいつも主と共におることができるのです。自分の肉の状態を見て「私はまだ清められていない」「まだ死んでない。まだここに生きている私がいる」と言って、モグラたたきのように出てくる自我をいくらたたいても尽きません。くたびれます。そしてすぐ諦(あきら)めて、「もう仕方がない。聖書は難しいことを要求するわ、もうやめた」と言われる方がいらっしゃる。そうではなくて、「今日も主よ、あなたにお従いしてまいります。御心はどこにあるのでしょうか。何でしょうか?」と求める。どんな時にも祈るのです。そうすると、主の霊と共に生きることができます。この主の霊が私たちの内に働いてくださっているとき、私たちは肉の力から解放される。いうならば、己に死ぬことができるのです。そうでないかぎり人は死ぬことはできない。

だからパウロが、「ピリピ人への手紙3章12節」で、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」と語ったのです。ここに「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく」と言っています。「それを得た」というのは、キリストとぴったり一致する、一つになりきったとはまだ言えない、と言っているのです。「キリストの死のさまとひとしくなり、キリストの復活にあずかる者なりたい」。いうならば「自我に死んで、キリストと共に生きる者となりたいと願った。しかし、私は既にそれを得たというわけではない」と言っているのです。「ただ捕えようとして追い求めているのである」と。キリストと一つになりたいと、常にそのことに心掛けている。イエス様の霊に全く占領される者となりたい。これがパウロの切なる願いです。私たちの日々の生活の目的もまさにここにあるのです。朝起きて夜寝るまでいろいろな出来事の中に私たちは置かれます。その度ごとに祈って、このことを通してキリストと一つになりたい。このことの中にキリストの思いが実現してほしい。常に主を覚えて行く。キリスト、イエス様と共に生きている、主の臨在と共に生きる者となる。これはパウロがここで求めている事です。しかも「ただ捕えようとして追い求めている」。「そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」。私がそうやって追い求めるのは、イエス様のほうがもう既に私をしっかりとつかんで離さないからだというのです。神様のほうがなすべきことは全部完成したのです。救いは完成している。ただ私たちがそれを自分のものとして取り込んで行くかどうか、ここが私たちに掛っているのです。そのために私たちはなおこの地上に命を与えられている。だから、この地上に置かれている日々の生活、することがあるとかないとか、そんなことには関わらない目的があるのです。それは「今日もキリストと一つになりたい」。そのためなのです、そのために生きているのです。ですから、食べるにしろ飲むにしろ着るにしろ、生活の隅から隅にわたって、一つずつ祈りつつ「主の御心はいかに?」「主の御旨はどこでしょうか?」「イエス様、いまあなたは私を見ておってくださる。いま私と共におられる」と、主の臨在、今ここにおられることを実感するようになる。これが生きる目的であり、日々の生活です。

そして、13節に「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない」、ここでももう一度繰り返しています。既に得たとか、完全な者になっているのではないと言って、更に「捕えたとは思っていない」とも言っています。「ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」、常に後のこと、過ぎ去ったことは全部忘れて前に向かう。ところがいつもその後ろに引っ掛かるのです。「あのときあんなにしたけれども駄目だった」「こんなにお祈りしたけれど駄目だった」「だからやめておこう」「だから、しないでおこう」。つい後ろのことに引っ張られる。殊に年を取って来ると、昔のことがいろいろと思いだされて、「こんな私だからやっぱり駄目だ」と、自分の過去を振り返ってみたりしますが、そうじゃないのです。ここでパウロが言うのは、「後ろのものを忘れ」と、昨日までのこと、これは一切終わった。そしてまた新しく今日から主と共に歩む。キリストと共に生きる。つい私どもは「そうやってしたのだが、三日坊主で続かなかった。もうやっても仕方がない」、過去のほうに私たちは思いを向ける。そうではなくて、過去はそうだったかも知れない。今日ここからもう一度思いを新しくしてキリストと共に生きる者となろう。キリストの内に自分を見出すように、まさに「イエス様こそが私の姿だ」と言えるように変わって行く。造り変えられて行く。そのための地上の命です。
ですから、その後にありますように「前のものに向かってからだを伸ばしつつ」と。14節に「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。この「目標を目ざして走り」ということと「賞与を得よう」ということ、これは同じことであります。「目標を目ざして走る」すなわち「神の賞与を得る」ことに他なりません。だから、パウロは目標である神の賞与を得させていただきたい。やがて神様からの賞与、誉れ、ご褒美を何としても頂きたい。神様から「宜(よ)いかな、善なるかつ忠なる僕よ」(マタイ25:21文語訳)と言われるように生きる。その賞与を目指して生きる。私たちの人生の目標はここです。やがて私たちがこの地上の生涯を終わったとき、神様の前に立つ時が来る。そのときに神様から喜ばれる者となりたい。そのための今日があるのです。主に喜ばれる者となるための明日がある。そうなると、その目標に向かって私たちは、今どう生きるべきかがはっきりしてきます。その目標がないと、「今日どうしよう、適当にあれでもしておこうか」という話になります。しかし、私たちはどんなときにでも、病気の時でも健康な時でも、たとえ年を取っていろいろな機能が動かなくなって失われてしまったとしても、目標は変わらない。その置かれた所でいかに神様の賞与を得る生き方はどうすればいいのか? どうあるべきなのか? そのために御霊の御声に従う。「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。御霊によって生きる者となる。これが私たちの求められている目標を目指す生き方です。

13節に「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」と。「前のものに向かって」、それはどこか? 主の喜び給うところに、今日も主にお従いして行くことができるように、肉なる者、己というものが死んで、御霊によって従って行くとき、それがどれほど増えて行くか、積み蓄えられていくか。どうぞ、皆さん、これは大変楽しみであります。貯金するのも楽しいでしょうが、主に従うことによって蓄えて行く、天に宝を積むということはそういうことです。やがて私どもが天に帰ったとき、天国銀行の通帳が開かれて、「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者」となります(Ⅰペテロ 1:4)。それぞれの口座がありますから、どのくらいたまっているか分かりませんが、「マイナスよ」と言われたら、大変です。この地上にあるかぎり、いろいろな問題や事柄の中に置かれます。その中でこそキリストに結びつくこと。そして、私たちを上に召してくださる御方、やがて神様が与えてくださるご褒美を頂く、神様から喜んでいただく、神様のお誉めを頂く道はどこにあるかを考え、それを求めて行く。明日もそう。これが私たちの人生の目標です。そうやって生きたのがパウロです。やがてその最期を読んでおきたいと思います。

 「テモテへの第二の手紙」4章6節から8節までを朗読。

 これはパウロが自分の死を目前にして愛する弟子テモテに書き送った手紙であります。このとき彼は既に自分が間もなく命を絶たれる、肉体的な命が終わることを知っていました。ですから6節に「わたしが世を去るべき時はきた」と語っています。どうですか、私どもは「余命後3ヶ月です」と言われたら、「そうですか、感謝です。もう私の去るべき時が来ましたか」と言えるようになりたいと思います。「え!3ヶ月もうちょっと長くなりませんか」と、「1日でも……」と、そうじゃないのです。今という時、今日ここで召されようとも、「義の冠がわたしを待っているばかり」と言えるように、天に召してくださる神の賞与を得ること、そのことを目標として、今日与えられた一つ一つの業の中で御霊の導きに従う。御心に徹底して自分を捨てて従って行くのです。それを積み重ねて行くとき、人生の生活の全てがキリストのものとなって行く。このときパウロが7節に「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」と。彼は主に喜ばれることが何であるかを追い求めて、まさに「捕えようとして」、「後のものを忘れ、前のものに向かって」走り続けて来た。まさにその終りが目前に来た。「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。

 長距離ランナーといいますか、マラソンをする人たちを見ておりますと、最後、長い距離を走って来て疲れているのでしょうが、最後の競技場に入って一周回ると、恐らくゴールラインが見えているだと思います。自分の前には誰もいない。「私はトップだ」と思う。そのときの気持ちは、経験がありませんが、思うに、恐らくうれしくてたまらないでしょう。ゴールラインが目の前に「これで優勝」と、長田さんはそういうご経験がお有りですから良くお分かりと思います。ただ、人生のゴールでそれを経験した人はいませんから、私たちは皆同じです。ゴールラインを目前にして、「いや、義の冠が私を待っている。私は勝利者だ!」と、確信を持って言えるために今日があるのです。「もうすることがない」「わたしにはなんの楽しみもない」と「伝道の書」にありますように(12:1、)年を取ってあちらこちら壊れてしまって、「なんの楽しみもない。生きていて意味がない」と言うようにならない前に、「造り主を覚えよ」と。神様が私たちを造り、この地上においてくださった目的は私たち一人一人がキリストに似る者となる。神の御子と等しい者と変えられて行く。そのための1日、1日です。どうぞ、パウロと同じように私たちも「走るべき行程を走りつくして」「信仰を守りとおして」「キリストのうちに自分を見いだす者となる」。

 「ピリピ人への手紙」3章14節に「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。「神の賞与」、神様からの誉れを、人ではない、誰彼じゃないのです。それは神様が喜んでくださる、そのことを望み見て、そのためには何をしたらいいのか? どのようにあるべきなのか? そのために私たちの命が与えられ、生きる道のりが残されているのでありますから、どうぞ「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」しっかりと目標を目指して行こうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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