大川小学校津波訴訟は、現状の不備と災害対策のこれからを投げかける。
まず、失敗しない人間はいない、人は切迫時に失敗しやすいことを理解しておかねばならない。
だが、取り返しのつかない失敗は避けねばならない。
だからこそ、検証し、学習し、備えるのだ。
切迫した状況では、人は必ず、一瞬でもうろたえたり、緊張してまごついたりする。
それでも次に行動できるかは、平時に学び、備えているかどうかで決まる。
現状では、地震や火災の訓練は多いが、津波の訓練は地域が限られ、経験がない人も多いはず。
だが、津波がどんなもので、どんな行動が命を救うか、すべての人々が学習すべきである。
また、どの学校も、地域と共に避難場所の整備を行う必要があるだろう。
失われた多くの命、大切な人々の思いを無にせぬよう、我々は努めねばならない。
だが、法制度の解釈がどうあれ、学校が家庭や地域のすべてを肩代わりするのは無理である。
学校と地域が共に取り組まねば、決して安全は確保できない。
災害時の学校における安全確保は、地域と共に取り組むことで効果が高まる。
大川小学校とは逆に、岩手の釜石東中学校と鵜住居(うのすまい)小学校では避難に成功している。
これは、日頃の指導が活かされた結果であった。
防災を教育課程で明確化すること、市町村行事との連動を推進することが必要だと思う。
大川小学校津波訴訟は、当初、争点が津波の予見性に絞られた。
これには違和感があったので、控訴となったのは仕方がないと思った。
その後、仙台高裁では組織的過失の有無が争点となった。
これは前進だと思ったが、市は控訴を決定した。
防災の見直しと対策改善に前進すべきで、争いの激化は望まない。
重要なのは、あの日何があって、なぜ命を守れなかったか、どうしたら守れたろうか。
互いに思いを拾い上げることなく進めば、たどり着けない・・・