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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

陸前高田2:2012年6月12日の記録

2017-12-14 14:19:05 | 東北被災地の歩み:岩手

かつて、広田湾に沿って人々が集まっていた町。

あの日から1年と3ヶ月を過ぎて、なおも片付けは続いている。

町の断片は積み重なり、かつての穏やかな町の風景は消えた。


それでも、生き残った人々は、今日を明日を生きるために、日々精進している。

点々と、使えそうな場所を探し出し、仮設の商店が出来た。

海辺から少し離れるように道を進むと、所々に店がある。


唐桑から陸前高田に入ると、気仙川に架かる気仙大橋を渡って、そのまま東に伸びる通りがある。

この道沿いに、道の駅や海と貝のミュージアムがあった。

震災前に寄ったことがある思い出の場所。

(2012‐6‐12:道の駅)


もう一つ、唐桑方面から気仙大橋を渡って、左手(西側)に曲がる通りがある。

こちらを進むと、県立高田病院がある。

近くに駅があったはずだが、建物が消えて、何がどこだったか分らなくなる。


県立高田病院近くから、陸前高田市の中心部だった所を見る。

町の断片が積みあがる向こうに、市役所が見えた。


その右手にとんがり屋根のふれあいセンターが見え、

さらに右へ目を移すごとに、中央公民館と体育館などの施設が、

そして青い屋根の高田高校が見える。



市役所と高田高校の間辺りにある、中央公民館の一画。
一番手前に見える白い建物は、高田ポンプ場。

これは、駅の南側が田んぼで、その脇を古川沼へと流れる「川原川」の傍にある。

雨水を汲み上げて排水する施設だが、被災して停止した。


その左に、塔の形の時計が見え、奥に白い大きな屋根が見えるのが、併設している中央公民館と体育館だ。

隣接して、図書館や博物館があり、一番奥の左側に見えるのが消防署。

ここは、一区画に施設がまとまっていた。


この残っている建物も、壊れて解体を待っている状態だ。
ここで犠牲になった方もいる。

中央公民館と体育館は避難所だったが、津波に襲われた。


宮城の津波被災地に、度々足を運んでいるが、1年3ヶ月を過ぎた陸前高田を目にした時、やはり口元がこわばり、切なくなった。



残された者には、失った命の尊さが身に染みる。
けれども忘れないで。生きる人の命も等しく尊いことを。



苦しくもあり、楽しさもある日々。
思いを引き継ぎ、無念に去った人を安堵させるように踏ん張る人々がいる。

今を生きる人を、励まそうと踏ん張る人もいる。


これからを生きる命の、その輝きも尊い。


東北と皇居のゆかりに映える木々

2017-12-10 17:21:51 | ゆるゆる歩き:町や通り

ご厚意で公開された皇居乾通りをゆるゆる歩く。

(2017‐12‐6:宮内庁庁舎脇)

 

(2017‐12‐6:坂下門)

 

もう冬だというのに、まだ秋の景色広がる東京。

皇居の木々も、日に照らされて、赤や黄色の葉を輝かせる。


(2017‐12‐6:局門脇)


 

 

皇居では時々、除草や清掃をする勤労奉仕が行われるが、その始まりは東北人によるものだった。

 

 

昭和20年5月の空襲で、東京駅は外観が残ったものの、屋根と内部は焼失。

この時、皇居も被災し、一部(当時のお住まい)を焼失している。


終戦から間もなく、昭和20年12月に、市民から申し出があって片づけが始まった。

その市民が、宮城県栗原郡の有志であった。


(参考:宮内庁『皇居勤労奉仕のご案内』/河北新報2017年2月18日『両陛下の思いに感謝し勤労奉仕』)


(2017‐12‐6:道灌濠)


フユザクラやツバキも美しく彩る皇居乾通り。



普段は通れぬ道を歩き、初めての景色を見る。


(2017‐12‐6:西桔橋にしはねばし

 

穏やかな場所である。

きっと、様々な方々の、思いやりの空気が流れているからだろう。


 

(2017‐12‐6:乾門近く)


(2012‐12‐6:乾門)

 


仙台味噌屋敷

2017-12-08 13:24:12 | ゆるゆる歩き:旧跡

頃は神無月にさかのぼる。

江戸詰めを命じられた藩士のごとく、屋移りをして間もなくのこと。

品川大井の仙台藩下屋敷を訪ねる。

(2017‐10‐31:旧仙台坂)



そこに残ったのは樅ノ木ではなく、タブノキであった。

屋敷沿いの通りゆえ、仙台坂や暗闇坂と呼ばれた坂は、なかなかの急坂である。

坂が緩やかになったあたりで、大きなタブノキが、往来する人々を今もなお見守っている。


(2017‐10‐31:仙台坂のタブノキ)


坂の上の池上通りと交わる辻に、木造りで瓦屋根の大きな平家が見える。

これぞ、味噌屋敷の謂れの名残なり。

藩士の暮らしを支えた味噌蔵が今に続く。


(2017‐10‐31:味噌醸造所)



仙台藩の下屋敷には、藩士のための味噌蔵が作られた。

屋敷内で味噌づくりをし、藩士の食としたが、後に余りを江戸市中に売り出したという。

仙台味噌は江戸っ子の評判となり、屋敷は味噌屋敷と呼ばれたそう。


 

(参考:東北大学附属図書館『江戸の食文化 仙台藩の名産品 仙台味噌』/品川区『品川の大名屋敷』/仙台市教育委員会『仙台旧城下町に所在する 民俗文化財調査報告書⑥ 2010年3月 仙台味噌』)



今も関東でジョウセン仙台味噌が出回っている。

さらに、「八木合名会社仙台味噌醸造所」は、まさに下屋敷の味噌づくりを引き継いだ店だ。

そこには「五風十雨」という味噌がある。




量り売りで、好きな分だけ杓文字で取り分けてもらう。

なんと芳しいことか。

熟成した濃い色、香り豊か、塩気が力強いが切れが良く、コクも甘みもある。

 


江戸詰めも、郷の味にて和む暮らしで候。


陸前高田:2012年6月12日の記録

2017-12-03 22:13:25 | 東北被災地の歩み:岩手

気仙沼の唐桑から、広田湾に沿って北へ向かい、岩手の陸前高田に入った。

坂道の下に、海が見えてくる。

岩手県南の内陸部では、海水浴といえば、まず思い浮かぶのが陸前高田だった。


かつては、穏やかな青い海と白い砂浜の向こうに、色濃く連なる緑の帯が見えていたはずだが、その高田松原は消えている。 

 

 ただ一つだけ、あの日の辛さを一身に引き受け、海も町も見守るように、松がそっと立っていた。

 


町の片付けは続いていて、まだ、解体を待つ建物が多く残っている。

津波に砕けた町の断片を、重機で分別しながら積んでいて、まだまだ片付けに時間がかかりそうだ。


海から、なだらかに陸が続く所に、町があった。勢いづいた海は、一たび乗り上げてしまうと、強く重く流れ込み、町を壊してしまった。

海水浴場の近くに、「海と貝のミュージアム」もあったが、

美しかった洋館風の建物は、窓の硝子は割れ、中も壊れて入り口の看板門も無くなっている。


数年前に入ったことがある、思い出の博物館だった。

この「海と貝のミュージアム」は、それは見事な博物館だった。


陸前高田の海洋生物学者であった、鳥羽源蔵先生(1872~1946)と千葉蘭児先生(1909~1993)が採集した、貴重な貝や資料がたくさんあったのだ。

磯の風が窓から入り、静かで穏やかな空気の流れる部屋で、寛ぎながら学べる所だった。


収蔵されていた貴重な標本などは、どうなったか心配していたが、浸水して塩や泥で大変なことになっているものの、幸いにも大半が流出をまのがれたという。


早急に、全国の博物館や大学施設の協力によって、貴重な標本や資料が復元・保存されることとなった。

ありがたい。


復元は、気の遠くなるような繊細な作業である。

作業に当たられた人々の情熱によって、先人の研究成果が守られたのであった。


青のり焼酎と松川浦のヒトエグサ:2012年9月の記録

2017-12-02 18:47:48 | 東北被災地の歩み:福島

7月(2012年)に相馬へと出かけたとき、土産に桃ともう一つ、焼酎を買った。

この焼酎には、松川浦で採れる「ヒトエグサ」、通称「青海苔」が原料に入っている。

その名も、「青のり焼酎」だ。

震災前に、地元の「サンエイ海苔」さんが、人気酒造と提携して作り出したもので、当時は「世界初の青海苔を使った焼酎」と謳われ話題になった。


震災後の「道の駅そうま」で、青のり焼酎を見かけ、ぜひ飲んでみたいと思って買ったのである。


まずは、そのままを口に含んだ。 

瓶の蓋を空けた時は、焼酎の酒気の香りが強いのだが、飲み込んだ後に香りが変わり、びっくりする。

強いので、直ぐに喉の奥へと転がして流すが、飲み込んで鼻孔から抜ける香りが、見事に海苔の香りなのだ。芳ばしくて旨い。


そのままでも飲めるし、旨いのだが、強い酒なので割った方が飲み易い。

水で割ると、酒器のうちから海苔の香りになる。


今夏(2012年)は、かなりの猛暑だったので、清涼感のある方がいいと、炭酸水で割って飲んだが、これがまた旨い。

相馬の「太っちょ焼きそば」と共に飲むのもいいだろう。

 

 

松川浦は、震災で流された海苔も多いが、残っていた海苔を守って栽培しているという。

ただし、残念なことに、原発事故と風評もあって、松川浦での海苔生産が自粛されているそうだ。



松川浦は、周辺が片付き始め、とても穏やかで美しい、かつての姿を取り戻しつつある。

ヒトエグサの生産も再開をしたいと、地元の人々は望んでいるだろう。

松川浦産ヒトエグサの加工品は、とても良い品だ。

その品々が、絶えずに再び生産されることを、心から願っている。