今、女川湾の周辺は、被災した建物の解体が進んで更地が増え、山となっていた町の破片も消えている。
そして、新たな町を思わせる国道計画の高さ表示や、盛土などが所々にあった。
(↓解体済みの場所に盛土・旧七十七銀行・マリンパル跡地辺り)
(↓左端に国道計画高さ表示)
(↓女川湾周辺)
かつては、湾に沿ってたくさんの建物が立ち並んでいた。
女川町観光協会が作った小冊子には、かつての町の写真も載っていて、どれほど多くを失ったかが分る。
震災当時のことを見聞きし、現地を巡って歩くと、いろいろな事を再認識する。
どこへ逃げるべきか、迷っているうちに津波に飲まれてしまう。
避難場所の選定も、避難路の整備も、日頃から良く考えて用意しておかねばならない。
津波は、その時の条件や、地形によっても微妙に違う形で現れる。
一律の構造物で防げるものではなく、地域に応じた対策が必要になるのだ。
また、構造物だけではなく、人々の適切な避難意識や行動と合わさって、大切な命が守られることを忘れてはいけない。
少しずつ動きを見せる女川。
女川湾には漁船があり、製氷施設も出来た。
(↓女川湾と漁船)
(↓製氷施設)
でも、あの日から一変した暮らしはいつまで続くだろう。
困惑することも多いだろうに、そこには、出来ることから懸命に一つずつやっていく人々がいる。
現地の人々は、今日も仮の暮らしで辛抱している。
新たな町を作るべく、再び生業も住まいも取り戻すよう願って。
やがて花が咲くように、空き地に公園や店や工場が戻るだろう。
高台に家が作られ、人々が行き交うだろう。
だって、私らは生きているのだから。
きっとまた、町は作られ、ふるさとが生まれるはずだ。