平成26年 1月18日 土曜日
「まっとうな道...2014」
子供を授かり、親になろうとするときに思うことは、とにかく五体満足で生れてきて欲しいという、切なる思いでしょう。
そして生まれて来てくれた我が子とともに、親になっていく、
我が子に人として生きていく“術”や“道”を躾ながら、
親自身も、そのような“道”を心に染み込ませていく。
『あいさつをする。
うそをついてはならない。
自分がされて嫌なことを、人にしてはならない。』
そしてそれに背くことをしたならば、徹底して叱る。
それをした理由という“訳”があるかもしれない。
「だって...、でも....、だけど...、」
しかし、それは言い訳にしか過ぎない。
例えば、学校に遅刻すれば、先生は叱る...、
遅刻した生徒にしてみればまっとうな理由があるかもしれない。
生徒が先生に言うべき言葉は、まず「すいませんでした。」の一言だろう。
いかなる理由であれ、遅刻したことの謝罪の言葉が先だと思う。
そしてその訳を話す、「だって...、でも....、だけど...」ではない、言い訳ではない事実を話すこと。
私は我が子に親として叱ってきた…我が子の腕を取り、引きずりながら、泣きわめくのもかまわず玄関の外に放り出したこともある。
胸ぐらをつかんで、蹴り飛ばしたこともある。
他人様の子供にそんなことをするわけがない…我が子だから、教え育てる責任は親にある。
何故そこまでするのか?
それが、私という親だから…
一方では、誉めるときは一緒になって喜んで、全身で笑い合った。
そんな我が子に、親はいつしか期待していく。
我が子の才能が人より優れ、花開いていくのを見るにつれ、期待していく。
子供にとって、親の期待に応えていることは最初は嬉しいと思うのだろう。
しかし、やがて子供は、その期待が重くなっていくこともある。
そして潰れていくことがある。
我が子は、いつか自分の夢を持ち始める。
親にしてみたら、荒唐無稽な夢物語にしか思えないものかもしれない。
しかし、やがて子供は、その夢に向かいながら挫折を繰り返し、生きていこうとする。
親は、その才能を活かして欲しいと願いながら...我が子の生きざまを見守るしかない。
そして、「生きていてさえくれればいい」と思っていて...親はその過ちに気付く。
夢を見つけようとして、もがいている我が子に気付かなかった悔みは消えない。
だから、親としてそんな過ちを繰り返したくはない。
だから、「生きてくれさえいればいい」...だけではなく、「まっとうな道を生きて欲しい」と願う。
母親は、我が子はいつまでも自分の分身だから、我が子が安心して暮らして欲しいと切に願います。
父親は、我が子の安寧を願いつつ、しっかりと自立して欲しいと願います。
ただ母親であれ、父親であれ我が子の幸せを自分の命にかえても願うのです。
そんな気持ちに溢れている“今”なのです。
「まっとうな道...2014」
子供を授かり、親になろうとするときに思うことは、とにかく五体満足で生れてきて欲しいという、切なる思いでしょう。
そして生まれて来てくれた我が子とともに、親になっていく、
我が子に人として生きていく“術”や“道”を躾ながら、
親自身も、そのような“道”を心に染み込ませていく。
『あいさつをする。
うそをついてはならない。
自分がされて嫌なことを、人にしてはならない。』
そしてそれに背くことをしたならば、徹底して叱る。
それをした理由という“訳”があるかもしれない。
「だって...、でも....、だけど...、」
しかし、それは言い訳にしか過ぎない。
例えば、学校に遅刻すれば、先生は叱る...、
遅刻した生徒にしてみればまっとうな理由があるかもしれない。
生徒が先生に言うべき言葉は、まず「すいませんでした。」の一言だろう。
いかなる理由であれ、遅刻したことの謝罪の言葉が先だと思う。
そしてその訳を話す、「だって...、でも....、だけど...」ではない、言い訳ではない事実を話すこと。
私は我が子に親として叱ってきた…我が子の腕を取り、引きずりながら、泣きわめくのもかまわず玄関の外に放り出したこともある。
胸ぐらをつかんで、蹴り飛ばしたこともある。
他人様の子供にそんなことをするわけがない…我が子だから、教え育てる責任は親にある。
何故そこまでするのか?
それが、私という親だから…
一方では、誉めるときは一緒になって喜んで、全身で笑い合った。
そんな我が子に、親はいつしか期待していく。
我が子の才能が人より優れ、花開いていくのを見るにつれ、期待していく。
子供にとって、親の期待に応えていることは最初は嬉しいと思うのだろう。
しかし、やがて子供は、その期待が重くなっていくこともある。
そして潰れていくことがある。
我が子は、いつか自分の夢を持ち始める。
親にしてみたら、荒唐無稽な夢物語にしか思えないものかもしれない。
しかし、やがて子供は、その夢に向かいながら挫折を繰り返し、生きていこうとする。
親は、その才能を活かして欲しいと願いながら...我が子の生きざまを見守るしかない。
そして、「生きていてさえくれればいい」と思っていて...親はその過ちに気付く。
夢を見つけようとして、もがいている我が子に気付かなかった悔みは消えない。
だから、親としてそんな過ちを繰り返したくはない。
だから、「生きてくれさえいればいい」...だけではなく、「まっとうな道を生きて欲しい」と願う。
母親は、我が子はいつまでも自分の分身だから、我が子が安心して暮らして欲しいと切に願います。
父親は、我が子の安寧を願いつつ、しっかりと自立して欲しいと願います。
ただ母親であれ、父親であれ我が子の幸せを自分の命にかえても願うのです。
そんな気持ちに溢れている“今”なのです。