昭和49年10月1日の運賃料金の改定で、
運賃 山手線1区間 30円
新幹線 東京⇔新大阪
運賃 2810円
ひかり・こだま 2200円 (ネット知恵袋より)
昭和48年3月結婚 岡山から、千葉へ引っ越し。
詩吟というより、吟詩部への思いが経ち切れず、岡山に舞い戻っては、土曜日の吟詩部のボックス(部室)へ足を運んでいました。
そのころのパートの給料は、2万余り。
夫は出張が多かったため、夫不在の週末は、喜び勇んで、新幹線の人となった。
明日、行きたいなぁと思うと、財布を覗き込んで、1万円札が1枚あったら、ヨシッと。
岡山にいる年の離れた姉が、娘のようにかわいがってくれて、深夜になって帰郷しても手をたたいて喜んでくれて、千葉に戻るときは、名残を惜しんで、またおいでなと、お小遣いを握らせてくれた。
新幹線料金で、財布は空になっても、姉のそのお小遣いで、次の給料までつないでいくことができた。そんな好条件に恵まれていたことが、赤ちゃんを授かるまでは、続いていました。
そのころの部活の指導者(岡大吟詩部OB)は、私たちを徹底的にしごいてくださったお二人から、代替わりをしていたため、面唐ネ奴と思われていたのだろうと今になって思うのだけれど。
そんなことお構いなしに、「私たちはこうおそわった!」を振り回していた。
本当に、可愛い私だったこと。
短大を卒業して、孫弟子から直弟子になっておひざ元で5年、遠く離れてから1年余り、後輩たちにかかわってきたことを佐藤鷺照先生は、ちゃんと見ていてくださり、よく頑張ったねと褒めてくださいました。
それで、関東というそのころは、関吟の教室のないところに住み、しかも子供ができたとなると、詩吟など出来るはずもない状況になったのに、
師範代の受験をご褒美としてお許しくださいました。
(
写真は、創立80周年記念誌より)
教えるどころか、二度と詩吟をすることもないという状況だったのに。
いわば、卒業証書です。
本当のありがたさと、先生の愛情を、今頃になって、涙しながら、かみしめています。
佐藤鷺照先生の溢れる愛のおかげで、その数年後、野田 芦孝先生が東京に転勤でいらっしゃって教室開設を計画されたときも、早速連絡をくださって、詩吟を再開する方へと導いてくださいました。