風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

今日は何の日?

2017年03月22日 | 徒然に日々のことを


 今日は、私の誕生日。

 娘から、お花が届きました。

 ありがとう!








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夢松風3月2回目

2017年03月22日 | 詩吟
3月に二段の昇段試験、8月には、四段の昇段試験を受ける方が二名居ます。

今日は、3月26日に試験を控えた会員さんの絶句二題を聞かせていただきました。
とても良い声で、安定してきました。
考えすぎのところもありますが、大丈夫です。

あがっても、大丈夫。ひと声聞けば、大体のことはわかるから、たとえ声が嗄れたとしても、先生がたは、実力のほどは聞き分けられますからね。

体調、温度管理に細かい注意を払って、特に季節の変わり目には、暖かくなっても、寒くなっても良いように、万全の準備を怠りのない方です。
それだけ、お体が敏感で影響の受けやすいかたなので、当日は、3月らしい日でありますように。


今日の出席者のもう一人は、リストを読み上げて、「これは、全部覚えました」とおっしゃる。
脳トレに、記憶力強化をしているのだそうです。

心身の健康のために、漢詩を吟詠を覚えるということは、とても良いことだと思います。


今日は、珍しく会員さんから、『もう何年になりますかねぇ。』との言葉が出ました。
誕生日のキーワードから、そんな思いになったのでしょうか。
前向き前進行け行けに、小休止の時が来たようです。

夢松風は、23年11月29日の「お試し詩吟の会」から、始まって、翌24年4月に東京支部に入れていただきました。
正会員になって、丸5年の月日が流れました。

周りのみなさんのご理解を頂いて、ゆっくりのんびりと、進んできました。
6年目もこのまま、豊かに、のんびり、穏やかな会として、成長することでしょう。


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そして、復帰

2017年03月20日 | 詩吟
私が休止状態に入ったのは、東京連絡所と呼ばれていた会が、東京支部として認められた前年からです。
介護サービスを受けてはいましたが、私一人では、立ち行かなくなりました。母の介護に専念することにいたしました。そして、見送り。


直後に夫の海外派遣、そして、1年後には随伴家族として、初めての海外渡航へ。
いったん帰国するも、半年の後に、またさらに2年間。(このブログの最初へとつながります。)



東京支部10周年の実行委員会が、準備を進めているころ、完全帰国しました。

帰国直前に、すっかり忘れていた詩吟を、馬に乗って浅瀬を渡っているとき突然思いだしました。「鞭声粛々夜川を渡る~~」

それがきっかけで、一緒に乗馬をしていた方たちと、詩吟をはじめることとなり、夜のウランバートル教室が始まりました。
たった、二~三か月ほどのことでしたが、お仕事が終わって、我が家に来ていただいて、夕飯を囲んでからのお楽しみです。

随伴家族として、何かの役に立てた上に、詩吟を思いださせてもらった、大事なひと時をすごしました。




持参していた縮刷本は、歌を詠うことの好きなモンゴル人と草原へ出かけた時の歌本の代わりに持っていっていたものです。
まさか、私以外の人のために、使うことになるとは思っても見ませんでした。

それでも、帰国後は、東京支部へ復帰するなどとは、まだ、思ってなくて、、、


「帰ったなら、戻っておいで顔だけでも見せて」と声をかけてくださったのが、野田先生。
メールとは、ありがたいものです。書面を頂いていたら、却って、重すぎたかもしれません。
それでも、しぶしぶの体で、顔を見せるだけのつもりでした。


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それから母のこと

2017年03月20日 | 徒然に日々のことを
母が80才の頃、体調のすぐれなかった次姉の代わりに孫の出産の手伝いに何の苦もなく、誰も露ほどの心配すること無くお手伝いに行きました。
生まれたばかりのひ孫を抱いて、正座からすっくと立ちあがったというすごい記録があります。

60代で膝が痛くて、正座もままならない私から見ると超人的な身体能力だと、拍手喝さいです。

それから、間もなく、元気なうちに、孫との生活を楽しんでもらいたいと、私たちとの同居を納得してもらい、関西から関東へとやってきてくれました。

大きな環境変化にもびくともせず、孫娘二人の世話をして、楽しく暮らしていましたが、娘たちが成長するにつれて、家にいる時間も短くなり、だんだんと手がかからなくなり暇になってきました。

それに連れて、寂しくなったり、自分の居場所を見つけられなくなったりして、もうすでになくなってしまっていた生家を懐かしがるようになりました。

責任感の人一倍強い母にとって、家の中ですることがだんだんと減ってくるのは、耐えられなかったようです。

「のんびりと、お留守番してくれるだけで良いのよ」という言葉は、いなくて良いという意味を持って母の心を蝕んでしまったのだと、今になるとわかります。

孫のしつけにも厳しく、母親の如く接していました。
「おばあちゃんは、孫がいるだけで、笑っているだけで幸せのはずだ、間違っても、正したりするもんじゃない」という私の言葉も、受け入れられませんでした。

娘たちを厳しくしつけ、甘やかさないことで、自立の方向へと導いたことは母の誇りであったのですが、その自立によって、母は寂しさを感じることになったと言えます。

さらに、私と母との41才の年の差は、母の「老い」も理解できないままでした。
そのころは、まだ、「ぼけ」と言う表現しかなく、そういう状態になったら、もう転げ落ちるしかないとの認識でしたから、あきらめてしまった私の思いが母のうつうつとした日々の思いに拍車をかけたかもしれません。

情報もないまま、やっと手にしたパソコンも、検索技術が伴わなくて、頼りは、デイケアセンターで年に1回ほど開かれる講習会くらいで、それもまだ手探り状態。
有吉佐和子の「恍惚の人」くらいが、参考になる書物だったなぁ。

もう少し知識があれば、もう少し母のことを理解してあげられたのにとの、後悔があります。

「趣味や友人との付き合いを一切絶って、母に向き合っていたのは、せめてもの救いかもしれない」という思いと、「せめて、趣味の世界を絶たないで、楽しい時間を過ごしていれば、母はもう少し、楽な気持ちでいられたかもしれない」

その二つの相反する思いの間を、亡くなって15年になるのだけれど、行ったり来たり。


何をどのようにやりおおせても、物事が終わった後は、必ず、別の方法があったかもしれないと、悩んでしまうのは、周りの人たちを見ていても同じです。


一つの慰めは、母の介護周辺のもろもろは、私が『自分』で決断したということです。

「もし、たら、れば」が、少なくで済むってことぐらいかなぁ。




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あのころ2 野田 芦孝先生

2017年03月19日 | 詩吟
思いがけず東京に来て、あるはずがないと思っていた詩吟が始まった。
順調に、お稽古が進み、私が欠席の時は、野田先生が一人という事態もなくなり、徐々に会員が増え、暫定東京組の受け入れも真っ盛りの時を迎えました。

毎回、素晴らしい吟詠を聞かせていただき、思いっきり声を出し、時には、マンツーマンでご教授頂けるほど、指導者級の方たちばかりが集まっている時もあり、いいときを過ごしました。

そのころ(昭和が終わろうとするころ)、母が同居することとなり、娘たちもお留守番ができるようになりました。
私自身もこのまま詩吟を続けていけるのかなぁと思いかけていました。

娘の成長に伴って、手助けが要らなくなるに反比例して母の様子がおかしくなりました。
お稽古に出鰍ッるつもりで支度をしていても、一日が終わってみたら、出かけられずにいたという事態が、どんどん増えていき、とうとう、気が付いたら、丸一年近くお稽古に行けなかったという風になりました。

母の介護のために、運転免許を取り、そのころ、瑞江教室に出向いていましたが、いざという時には、母を伴ってお稽古をさせていただくこともあるかと、車で通う練習をしたりしていました。

それでもなんとか、詩吟を続け、1997年の江東区のコンクールに出場。初めての優勝をそして、準優勝は、須田芦剛先生が獲得して、芦孝会ここにありと名乗りを上げ、都大会出場となったのですが。

物事二つ並行して行うことはとても苦手である上に、夫は、出張が多く、親族は皆関西にいて、とても手助けにはならない状況でした。さらに、母が車椅子状態になり、詩吟を続けることを断念しました。

ストレスから、体調を崩し、入院騒ぎもあり、その後は、食べることしか楽しみがなく、ムーンフェイスの如く太っていた時期もありました。 

だからこそ、詩吟をつづけて、気持ちを紛らわせることが必要だったんじゃないかと言われてもねぇ。
その時は、とても、詩吟を続ける気力はありませんでした。

主婦とは、欠かせない存在で、家族に何らかの不安を抱えると、ほんの少しでも不在を容認する気持ちが家族にも自分自身にさえもなくなるよねぇ。

こんな時、男性は、違う選択をするのだろうねぇ。

たとえ、趣味を続ける選択をしたとしても、趣味をしているときは、家庭を思い、家庭にいる時は、趣味の時間を思い、中途半端に時を過ごしてしまうことは、自明のこと。


野田先生の配慮で、会員登録だけは、残して、年会費を収めるだけの会員状態を続けていました。
そのころは、まだ、芦孝会年会費はまだ徴収していなかったように記憶しています。

毎年2月になると、年会費をお支払いすることで、会員だったことを思いだすのでした。


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図書館に寄付したら

2017年03月18日 | こたろう
数か月前、中央図書館で、「詩吟」で検索をかけてもらったことがありました。

ヒットしません。

CDの品ぞろえが、あまりに少なかったので、窓口に願い出たのです。

あるのは、吟詠歌謡のCDが10枚ほどでした。
ですから、吟詠のワードで、やっとヒットするのです。

わが関吟のすばらしいCDをここに並べてもらわなくちゃと思ったことでした。

それにしても、古典券\の「詩吟」の検索ワードで、何もありませんなんて、ありえない。

その後、はじめの一歩の会費がたまったので、何に役立てようかと考えた時、関吟の音源を図書館に寄付しようと、決めました。

生徒さんたちに、CDのコピーを差し上げるのも、限りがあるし、図書館に置いてあれば、自由にかりてもらえるしと、思ったのです。


さて、あれから、数か月後、関吟から吟詠のCD一から五と、構成吟のDVDを2枚携えて、意気揚々と中央図書館へ。
ここは、去年まで、はじめの一歩の会場だったし、今は、論語の月に一回の教室が催されているところです。

我が家の近くの図書館は、扱ってなくて、CDやDVDの貸し出しをしているのは中央図書館だけです。

あれこれと問い合わせの後、担当の方を呼び出していただいて、目出度くCDは、寄付を受けていただいて、閲覧できる手配をしてくださることになりました。
でも、貸出可能になるのは、3か月後!

まぁ、いいや。

数か月前も、今日も、あれこれと質問されたのは、私が使ったお古のCDではなく、新品ということを遠回しに聞いていただけだったのかなぁ。
「歌詞カードなどがありますか?」なんて質問はね。
「書棚に出せるかどうかは、調べてからです。」
「調べたうえで、閲覧可能になるかどうかのお知らせは、個人にはしていません。」
私「閲覧していただけないなら、返却してほしいのですが。」
図書館員「そういうことはお受けできません。」「それがだめなら、寄付をしないほうがよいのでは?」「お持ち帰りください。(といったかどうかは、わからないが、私には、そうきこえました)」


いずれにせよ、担当の者が来ますので、しばしお待ちを。。。。。。


せっかく新品を持ってきたのに、はじめの一歩の生徒さんの了承も得たのに、もってかえってたまるか。と、少し腹を立てながら、待っていると、楚々とした小柄な女性がお待たせしましたと出てきました。

そのころには、気持ちも落ち着いて、当初の目的を果たすには、腹を立てないで、寄付をお受けくださいという態度を貫かねばと、決めたところだったので、よかったなぁ。


話の流れで、傷物ではない、すべての内容物がそろっているものだということをまず説明して、私の流派で出しているCDで、会は、公益法人であり、これは、私の個人の寄付であることをお伝えしました。

じっくり話を聞いてくださって、初めて、「ありがとうございます」と言っていただきました。
権限もなく担当でもない窓口の職員さんは、気安くありがとうと言って、受け取れないんだなぁ。
事前のガードが、必要な、事態だったのだと、気が付きました。


そして、その担当の女性に、「詩吟」で、ヒットしないのは、なぜかとおたずねしたら、その本なり、音源なりに、「詩吟」のワードが入ってないと、検索に引っかからないのだそうです。
「吟詠による和漢名詩選」のCDは、私にとって、詩吟のCDでしかありえないのですが、詩吟のフレーズがないので、シギンで検索した場合、ヒットしにくいのです。
図書館の検索システムの限界なんだね。
すると、ヤフーやグーグルの検索システムは、すごいんだなぁ。


例えば、データの中に、関吟の名前が入ったとしても、「関西吟詩○○」だからねぇ。

「私,詩吟をやってます」との言葉を聞いて、詩吟を知らない人が、「あれ、シギンってなんだ?と思って、図書館の検索システムに行って、調べても、出てこないということが起きるのです。

すべての図書館が、そうだというわけではないけれど、たまたま、私が今日行った図書館は、何しろ「詩吟」では、資料があまりない。

うーーーーん。うちの区だけかぁ。

ぜひ、最寄りの、図書館で、検索をしてみてほしい。「詩吟」で、検索したら、本から音源から、うじゃうじゃとあるよと、言ってほしいなぁ。


ちなみに、今日お会いした担当の方は、まず」CDはお受けくださいました。
そして、「詩吟」では、ヒットが少ないこともわかっていただきました。
ただ、二枚のDVDは、著作権の関係で、製作者が、図書館で閲覧してもよいですと許可した書面を提示しなければ、図書館で、受けるわけにはいかないのだそうです。

めでたく、関吟のCD5枚は、受け取っていただきました。
さぁ、どれだけの方が、興味をもって聞いてくださるのでしょうねぇ。


あれ、待てよ、彼女は、詩吟のCDをよく探してみますなんて言っていたけど、私が寄付しなくても、図書館へ関吟のCDをリクエストしたらよかったのかなぁ。。。

ほかのことだったら、なんでも、リクエストするのに、詩吟に関しては、力もないくせに自力解決をしようとする私の、勇み足だったの?

まぁ、いいやで、済まされないよねぇ。

皆様へ、音源を置いてあるお近くの図書館へ、詩吟のCDを置くようにリクエストしましょうね!




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はじめの一歩

2017年03月17日 | 詩吟
須藤先生のご都合で、今日の素読の会がお休みでした。
せっかく空いた時間ですから、ご自由にお使いくださいと、先生からの提案でした。

通常の開始時間から30分遅らせてのんびりとはじめました。


一年間の復習と独吟、そして、先輩がたの模範吟詠と一言というプログラムです。

生徒のみなさんは、復習の時、遠慮無く質問を出してくださるようになり、下手でも声が出なくてもいいのよという言葉を実感されながら、独吟をしてくださいました。

それは、何時も後方で支えてくださっている先輩であり指導者でもある方の叱咤激励の言葉あってのことでした。

支えられながら、月に1回1時間の練習でも、この上達ぶりは、諸先輩の吟詠の前のひとことご挨拶の中に、異口同音に生徒のみなさんを褒めていただきました。

恵まれた環境で、穏やかに練習が進むのは、とても豊かな気持ちになれます。

芦孝会の教室の練習は、細かいことに及んで、小うるさく感じられるようになってきたのかもしれませんが、ここでは、そんなことはなく、気持ちのままに、穏やかに練習が進みます。


たいていのことでは、お休みなさらない須藤先生も、ご家族のこととなると、例外でした。
そして、ただお休みにしないで、その時間を詩吟の「初めの一歩」に譲ってくださいました。その配慮のおかげで、1時間の時間内では、できないこともプログラムの盛り込むことができました。
年度末ということもあり、一年の復習をみっちりいたしました。
そして、、たっぷり諸先生の吟詠を聞いて、年度末の締めくくりとして、贅沢な時間を過ごせました。

須藤先生ありがとうございました。

先月生徒さんたちにお配りした、CDもしっかり聞いてくださったようで、同じ吟題を女性の吟者と男性の吟者で吟詠している者にも、かなり趣が異なっていることも、聞き分けて、楽しんでくださっている方も居らっしゃいました。

聞く耳も育っていて、頼もしい限り。

それなのに、私はいつも変わらない上達しないと嘆くのです。

あなたの立ち位置は、何時もここ。
でも、他人から、別の場所から眺めると、確かに階段をあがっているんですよ。
わたしの「ここ」は、本人から見るといつもゼロメートル。
「ここ」はここでしかない。

その、他人を眺める自分の位置は、確実に上がっているという認識は、どこで、実感させてあげられるのかなぁ。

来年度も、ご参加くださるようで、楽しみです。

そして、4月から取り組む吟題も「偶成」とのリクエストがありました。

これは、はじめの一歩の一番最初に取り上げた吟題です。
今日まで残っていらっしゃる方は、途中から入ったので、「偶成は」知らないのです。

リクエストのお答えして、四月からは、「偶成」にいたします。
皆さん、楽しみましょう。



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詩吟って?

2017年03月14日 | 詩吟
ずーっと前の、谷中まつりの時と、先日の朝倉彫塑館でのことです。
通訳さんといっしょに、観光している外国のツーリストさんに、詩吟のことを伝える機会がありました。

まず「漢詩」という言葉を入口にお話が始まると、通訳さんは、「中国の云々」から入っていっただろうということが予想されました。

日本に来たのに、中国のものは、ノーサンキューという雰囲気が伝わってきました。

詩吟は、日本の古典券\なのに。

説明の順番を考えて、お伝えしなければと感じました。

「広く『詩』を詠います。」という言葉選びが良いのだろうか。
そして、「え?」「それって?」と、疑問を投げかけてくれる様な、導入が良いのではないかしら。

詩吟は漢詩と思っていた私が、出す言葉とは思えないと言われそうだけれど、「詩吟」を正しく国際理解していただくには、順番などどうでもよいのですよね。

たった一言で、拒否感を覚えられるよりは、ずっと良いと思います。

「和歌や俳句」をまず、第一の単語として使ったほうが、外国の方にも、和歌や俳句が認知されてきている昨今では、日本で作られた「詩」を詠いますという方がずっと、詩吟を説明したことになるのではないかなぁ。

一般的な通訳さんって、どう通訳してくれるのだろう。
きっと、知らない人のほうが多いはずだから、興味をもってくれる方向から、アプローチをしたら良いね。

何か良いアイディアがあるでしょうか。


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あのころ1 佐藤鷺照先生

2017年03月13日 | 詩吟
昭和49年10月1日の運賃料金の改定で、
運賃 山手線1区間 30円 
新幹線 東京⇔新大阪
運賃 2810円
ひかり・こだま 2200円  (ネット知恵袋より)


昭和48年3月結婚 岡山から、千葉へ引っ越し。
詩吟というより、吟詩部への思いが経ち切れず、岡山に舞い戻っては、土曜日の吟詩部のボックス(部室)へ足を運んでいました。

そのころのパートの給料は、2万余り。

夫は出張が多かったため、夫不在の週末は、喜び勇んで、新幹線の人となった。
明日、行きたいなぁと思うと、財布を覗き込んで、1万円札が1枚あったら、ヨシッと。

岡山にいる年の離れた姉が、娘のようにかわいがってくれて、深夜になって帰郷しても手をたたいて喜んでくれて、千葉に戻るときは、名残を惜しんで、またおいでなと、お小遣いを握らせてくれた。

新幹線料金で、財布は空になっても、姉のそのお小遣いで、次の給料までつないでいくことができた。そんな好条件に恵まれていたことが、赤ちゃんを授かるまでは、続いていました。

そのころの部活の指導者(岡大吟詩部OB)は、私たちを徹底的にしごいてくださったお二人から、代替わりをしていたため、面唐ネ奴と思われていたのだろうと今になって思うのだけれど。

そんなことお構いなしに、「私たちはこうおそわった!」を振り回していた。

本当に、可愛い私だったこと。



短大を卒業して、孫弟子から直弟子になっておひざ元で5年、遠く離れてから1年余り、後輩たちにかかわってきたことを佐藤鷺照先生は、ちゃんと見ていてくださり、よく頑張ったねと褒めてくださいました。

それで、関東というそのころは、関吟の教室のないところに住み、しかも子供ができたとなると、詩吟など出来るはずもない状況になったのに、
師範代の受験をご褒美としてお許しくださいました。
写真は、創立80周年記念誌より

教えるどころか、二度と詩吟をすることもないという状況だったのに。
いわば、卒業証書です。

本当のありがたさと、先生の愛情を、今頃になって、涙しながら、かみしめています。

佐藤鷺照先生の溢れる愛のおかげで、その数年後、野田 芦孝先生が東京に転勤でいらっしゃって教室開設を計画されたときも、早速連絡をくださって、詩吟を再開する方へと導いてくださいました。






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譜№50

2017年03月12日 | 詩吟
譜№50 下音変わり二段上げ揺り

始めてこの吟法を聞いたときは、音感の鋭い人を除いては、「あれ?長い」と思い、その最初の印象から、覚えにくいとインプットされてしまいがちです。

そんな第一印象から、50番を受け止めてしまうと、「苦手箱」に入れてしまいますねぇ。

長いのは、分解してみましょう。

「二段上げ揺り」は、50番を習う頃には、何度かでてきているはず。
二段上げ揺りは譜№14番で、覚える時、二段上げの後に六 五と揺りが付いていると覚えたはずです。

前半の下音の部分は、下音すなわち「一」の音から「乙」「水」と下がってきて、「三」の音に上がります。
これはまさに、「平揺り下げ」「譜№9≠R」であります。
「9≠Q」ではないのは、「水」の音を深く沈ませるか、浮上させるかの違いによります。

それで、50番は<9≠R> + <14>ということになります。

分解すると三つのパート(14番は11番+揺り)に分かれていて、それぞれを、思い浮かべながら上手につなげていくと譜№50が生まれてくるというわけ。




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