思いがけず東京に来て、あるはずがないと思っていた詩吟が始まった。
順調に、お稽古が進み、私が欠席の時は、野田先生が一人という事態もなくなり、徐々に会員が増え、暫定東京組の受け入れも真っ盛りの時を迎えました。
毎回、素晴らしい吟詠を聞かせていただき、思いっきり声を出し、時には、マンツーマンでご教授頂けるほど、指導者級の方たちばかりが集まっている時もあり、いいときを過ごしました。
そのころ(昭和が終わろうとするころ)、母が同居することとなり、娘たちもお留守番ができるようになりました。
私自身もこのまま詩吟を続けていけるのかなぁと思いかけていました。
娘の成長に伴って、手助けが要らなくなるに反比例して母の様子がおかしくなりました。
お稽古に出鰍ッるつもりで支度をしていても、一日が終わってみたら、出かけられずにいたという事態が、どんどん増えていき、とうとう、気が付いたら、丸一年近くお稽古に行けなかったという風になりました。
母の介護のために、運転免許を取り、そのころ、瑞江教室に出向いていましたが、いざという時には、母を伴ってお稽古をさせていただくこともあるかと、車で通う練習をしたりしていました。
それでもなんとか、詩吟を続け、1997年の江東区のコンクールに出場。初めての優勝をそして、準優勝は、須田芦剛先生が獲得して、芦孝会ここにありと名乗りを上げ、都大会出場となったのですが。
物事二つ並行して行うことはとても苦手である上に、夫は、出張が多く、親族は皆関西にいて、とても手助けにはならない状況でした。さらに、母が車椅子状態になり、詩吟を続けることを断念しました。
ストレスから、体調を崩し、入院騒ぎもあり、その後は、食べることしか楽しみがなく、ムーンフェイスの如く太っていた時期もありました。
だからこそ、詩吟をつづけて、気持ちを紛らわせることが必要だったんじゃないかと言われてもねぇ。
その時は、とても、詩吟を続ける気力はありませんでした。
主婦とは、欠かせない存在で、家族に何らかの不安を抱えると、ほんの少しでも不在を容認する気持ちが家族にも自分自身にさえもなくなるよねぇ。
こんな時、男性は、違う選択をするのだろうねぇ。
たとえ、趣味を続ける選択をしたとしても、趣味をしているときは、家庭を思い、家庭にいる時は、趣味の時間を思い、中途半端に時を過ごしてしまうことは、自明のこと。
野田先生の配慮で、会員登録だけは、残して、年会費を収めるだけの会員状態を続けていました。
そのころは、まだ、芦孝会年会費はまだ徴収していなかったように記憶しています。
毎年2月になると、年会費をお支払いすることで、会員だったことを思いだすのでした。
順調に、お稽古が進み、私が欠席の時は、野田先生が一人という事態もなくなり、徐々に会員が増え、暫定東京組の受け入れも真っ盛りの時を迎えました。
毎回、素晴らしい吟詠を聞かせていただき、思いっきり声を出し、時には、マンツーマンでご教授頂けるほど、指導者級の方たちばかりが集まっている時もあり、いいときを過ごしました。
そのころ(昭和が終わろうとするころ)、母が同居することとなり、娘たちもお留守番ができるようになりました。
私自身もこのまま詩吟を続けていけるのかなぁと思いかけていました。
娘の成長に伴って、手助けが要らなくなるに反比例して母の様子がおかしくなりました。
お稽古に出鰍ッるつもりで支度をしていても、一日が終わってみたら、出かけられずにいたという事態が、どんどん増えていき、とうとう、気が付いたら、丸一年近くお稽古に行けなかったという風になりました。
母の介護のために、運転免許を取り、そのころ、瑞江教室に出向いていましたが、いざという時には、母を伴ってお稽古をさせていただくこともあるかと、車で通う練習をしたりしていました。
それでもなんとか、詩吟を続け、1997年の江東区のコンクールに出場。初めての優勝をそして、準優勝は、須田芦剛先生が獲得して、芦孝会ここにありと名乗りを上げ、都大会出場となったのですが。
物事二つ並行して行うことはとても苦手である上に、夫は、出張が多く、親族は皆関西にいて、とても手助けにはならない状況でした。さらに、母が車椅子状態になり、詩吟を続けることを断念しました。
ストレスから、体調を崩し、入院騒ぎもあり、その後は、食べることしか楽しみがなく、ムーンフェイスの如く太っていた時期もありました。
だからこそ、詩吟をつづけて、気持ちを紛らわせることが必要だったんじゃないかと言われてもねぇ。
その時は、とても、詩吟を続ける気力はありませんでした。
主婦とは、欠かせない存在で、家族に何らかの不安を抱えると、ほんの少しでも不在を容認する気持ちが家族にも自分自身にさえもなくなるよねぇ。
こんな時、男性は、違う選択をするのだろうねぇ。
たとえ、趣味を続ける選択をしたとしても、趣味をしているときは、家庭を思い、家庭にいる時は、趣味の時間を思い、中途半端に時を過ごしてしまうことは、自明のこと。
野田先生の配慮で、会員登録だけは、残して、年会費を収めるだけの会員状態を続けていました。
そのころは、まだ、芦孝会年会費はまだ徴収していなかったように記憶しています。
毎年2月になると、年会費をお支払いすることで、会員だったことを思いだすのでした。