私が休止状態に入ったのは、東京連絡所と呼ばれていた会が、東京支部として認められた前年からです。
介護サービスを受けてはいましたが、私一人では、立ち行かなくなりました。母の介護に専念することにいたしました。そして、見送り。
直後に夫の海外派遣、そして、1年後には随伴家族として、初めての海外渡航へ。
いったん帰国するも、半年の後に、またさらに2年間。(このブログの最初へとつながります。)
東京支部10周年の実行委員会が、準備を進めているころ、完全帰国しました。
帰国直前に、すっかり忘れていた詩吟を、馬に乗って浅瀬を渡っているとき突然思いだしました。「鞭声粛々夜川を渡る~~」
それがきっかけで、一緒に乗馬をしていた方たちと、詩吟をはじめることとなり、夜のウランバートル教室が始まりました。
たった、二~三か月ほどのことでしたが、お仕事が終わって、我が家に来ていただいて、夕飯を囲んでからのお楽しみです。
随伴家族として、何かの役に立てた上に、詩吟を思いださせてもらった、大事なひと時をすごしました。
持参していた縮刷本は、歌を詠うことの好きなモンゴル人と草原へ出かけた時の歌本の代わりに持っていっていたものです。
まさか、私以外の人のために、使うことになるとは思っても見ませんでした。
それでも、帰国後は、東京支部へ復帰するなどとは、まだ、思ってなくて、、、
「帰ったなら、戻っておいで顔だけでも見せて」と声をかけてくださったのが、野田先生。
メールとは、ありがたいものです。書面を頂いていたら、却って、重すぎたかもしれません。
それでも、しぶしぶの体で、顔を見せるだけのつもりでした。
介護サービスを受けてはいましたが、私一人では、立ち行かなくなりました。母の介護に専念することにいたしました。そして、見送り。
直後に夫の海外派遣、そして、1年後には随伴家族として、初めての海外渡航へ。
いったん帰国するも、半年の後に、またさらに2年間。(このブログの最初へとつながります。)
東京支部10周年の実行委員会が、準備を進めているころ、完全帰国しました。
帰国直前に、すっかり忘れていた詩吟を、馬に乗って浅瀬を渡っているとき突然思いだしました。「鞭声粛々夜川を渡る~~」
それがきっかけで、一緒に乗馬をしていた方たちと、詩吟をはじめることとなり、夜のウランバートル教室が始まりました。
たった、二~三か月ほどのことでしたが、お仕事が終わって、我が家に来ていただいて、夕飯を囲んでからのお楽しみです。
随伴家族として、何かの役に立てた上に、詩吟を思いださせてもらった、大事なひと時をすごしました。
持参していた縮刷本は、歌を詠うことの好きなモンゴル人と草原へ出かけた時の歌本の代わりに持っていっていたものです。
まさか、私以外の人のために、使うことになるとは思っても見ませんでした。
それでも、帰国後は、東京支部へ復帰するなどとは、まだ、思ってなくて、、、
「帰ったなら、戻っておいで顔だけでも見せて」と声をかけてくださったのが、野田先生。
メールとは、ありがたいものです。書面を頂いていたら、却って、重すぎたかもしれません。
それでも、しぶしぶの体で、顔を見せるだけのつもりでした。