風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

そして、復帰

2017年03月20日 | 詩吟
私が休止状態に入ったのは、東京連絡所と呼ばれていた会が、東京支部として認められた前年からです。
介護サービスを受けてはいましたが、私一人では、立ち行かなくなりました。母の介護に専念することにいたしました。そして、見送り。


直後に夫の海外派遣、そして、1年後には随伴家族として、初めての海外渡航へ。
いったん帰国するも、半年の後に、またさらに2年間。(このブログの最初へとつながります。)



東京支部10周年の実行委員会が、準備を進めているころ、完全帰国しました。

帰国直前に、すっかり忘れていた詩吟を、馬に乗って浅瀬を渡っているとき突然思いだしました。「鞭声粛々夜川を渡る~~」

それがきっかけで、一緒に乗馬をしていた方たちと、詩吟をはじめることとなり、夜のウランバートル教室が始まりました。
たった、二~三か月ほどのことでしたが、お仕事が終わって、我が家に来ていただいて、夕飯を囲んでからのお楽しみです。

随伴家族として、何かの役に立てた上に、詩吟を思いださせてもらった、大事なひと時をすごしました。




持参していた縮刷本は、歌を詠うことの好きなモンゴル人と草原へ出かけた時の歌本の代わりに持っていっていたものです。
まさか、私以外の人のために、使うことになるとは思っても見ませんでした。

それでも、帰国後は、東京支部へ復帰するなどとは、まだ、思ってなくて、、、


「帰ったなら、戻っておいで顔だけでも見せて」と声をかけてくださったのが、野田先生。
メールとは、ありがたいものです。書面を頂いていたら、却って、重すぎたかもしれません。
それでも、しぶしぶの体で、顔を見せるだけのつもりでした。


コメント

それから母のこと

2017年03月20日 | 徒然に日々のことを
母が80才の頃、体調のすぐれなかった次姉の代わりに孫の出産の手伝いに何の苦もなく、誰も露ほどの心配すること無くお手伝いに行きました。
生まれたばかりのひ孫を抱いて、正座からすっくと立ちあがったというすごい記録があります。

60代で膝が痛くて、正座もままならない私から見ると超人的な身体能力だと、拍手喝さいです。

それから、間もなく、元気なうちに、孫との生活を楽しんでもらいたいと、私たちとの同居を納得してもらい、関西から関東へとやってきてくれました。

大きな環境変化にもびくともせず、孫娘二人の世話をして、楽しく暮らしていましたが、娘たちが成長するにつれて、家にいる時間も短くなり、だんだんと手がかからなくなり暇になってきました。

それに連れて、寂しくなったり、自分の居場所を見つけられなくなったりして、もうすでになくなってしまっていた生家を懐かしがるようになりました。

責任感の人一倍強い母にとって、家の中ですることがだんだんと減ってくるのは、耐えられなかったようです。

「のんびりと、お留守番してくれるだけで良いのよ」という言葉は、いなくて良いという意味を持って母の心を蝕んでしまったのだと、今になるとわかります。

孫のしつけにも厳しく、母親の如く接していました。
「おばあちゃんは、孫がいるだけで、笑っているだけで幸せのはずだ、間違っても、正したりするもんじゃない」という私の言葉も、受け入れられませんでした。

娘たちを厳しくしつけ、甘やかさないことで、自立の方向へと導いたことは母の誇りであったのですが、その自立によって、母は寂しさを感じることになったと言えます。

さらに、私と母との41才の年の差は、母の「老い」も理解できないままでした。
そのころは、まだ、「ぼけ」と言う表現しかなく、そういう状態になったら、もう転げ落ちるしかないとの認識でしたから、あきらめてしまった私の思いが母のうつうつとした日々の思いに拍車をかけたかもしれません。

情報もないまま、やっと手にしたパソコンも、検索技術が伴わなくて、頼りは、デイケアセンターで年に1回ほど開かれる講習会くらいで、それもまだ手探り状態。
有吉佐和子の「恍惚の人」くらいが、参考になる書物だったなぁ。

もう少し知識があれば、もう少し母のことを理解してあげられたのにとの、後悔があります。

「趣味や友人との付き合いを一切絶って、母に向き合っていたのは、せめてもの救いかもしれない」という思いと、「せめて、趣味の世界を絶たないで、楽しい時間を過ごしていれば、母はもう少し、楽な気持ちでいられたかもしれない」

その二つの相反する思いの間を、亡くなって15年になるのだけれど、行ったり来たり。


何をどのようにやりおおせても、物事が終わった後は、必ず、別の方法があったかもしれないと、悩んでしまうのは、周りの人たちを見ていても同じです。


一つの慰めは、母の介護周辺のもろもろは、私が『自分』で決断したということです。

「もし、たら、れば」が、少なくで済むってことぐらいかなぁ。




コメント