風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

新越谷須藤先生の会

2016年04月25日 | 論語と
天籟』  有るがままに調和している様子、荘子の理想とした境地。
    
そして、「天籟を聞く」とは、自他の区別を忘れ、無心になり切り、自然のリズムと一つになること。
漢文学窓『里仁』教科書(208頁)を手に、須藤先生が、読み解く「荘子」論。


荘子は、人間が「知」と言うものに拘束されて、自然から遠ざかっていると言う。
作為を捨てて無心になりきると、限りない調和の世界に入ることができるのだという。

作為を捨てることがどれだけ難しいことか。
自然にふるまっているつもりでも、自分の心を覗くと、恥ずかしいことに、作為まみれの自分に気づく。

傍若無人でも、自分のあるがままに行動することのほうが、「良し」なのだろうか。


天籟の前に、人籟と言うのがあって、これは、楽器の音とも、人が奏でる声とも言います。

地籟は、地上のうろが風を受けて鳴る響きです。

大地が息をすると、風が起こり、地上のあらゆるうろは一斉に音を発する。


ということなら、人も、うろを内に抱えていて、そのうろに風を吹き込むことによって、音を奏でていることになる。

有るがままに調和して奏でられる音すなわち声は、どれほど、人の心を喜ばせるのだろう。

まてよ、大地と違って、人のうろには、なかなか自然に風は吹きこめないねぇ。
人間にとっての風は、何のことだろう。

いずれにしても、人間に吹き込んだ風が、体のうろをめぐって、声帯を通るとき、風の音としてではなく、歌としてでてくると、もうそれは、作為になるのかなぁ。

此の処、立て続けに、民族音楽や民族の声を耳にしてきたけれど、あれは、人籟だったのだなぁ。
特にシャングリラでの、人の声は、あるがままの発露が周りのものと調和して、心を揺さぶるものであったのだけれど、それは天籟と言っても良いのだろうか。違うのかなぁ。


「知」によってコントロールされて、一見平和に見える身の周りは、本当は、悲劇の一幕なのかも。


一見、知的にコントロールされているように見える世界でも、実は、情によって、回っている世界もある。

自然のリズムとは、無心であることで、調和し、体にしみこむ。

「無心であること」と論じることすらもうそれは、無心からほど遠いものになってしまう。



須藤先生の語る言葉を、今の私は、このように思いをめぐらして、すべて、詩吟のことにおき替えて考える。

すると、苦しかったことが、消えたり、心の問題だけでなく、発声のメカニズムについても、答えが出てきたりして、心と体とはぴたりと張り付いているものなのだと、不思議に思う。


有るがままの調和を手にするには、とてつもない時間がかかるなぁ。



 
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花の絵

2016年04月25日 | 
   




  去年上師範になられたS先生が、描いてくださった花の絵


11月ホトトギス        2月梅           4月桜


毎月送る、関吟ニュースの挨拶状への挿入イラストとして、使わせていただいています。
いつもありがとうございます。

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