聲明公演 ~曼荼羅音の饗宴~
会場 紀尾井ホール
主催 公益財団法人 日本テレビ小鳩文化事業団
かねてより興味のあった「聲明」のコンサートのチケットが、ひょんなことから手に入ったので、いてきました。
急用でいけなくなった方のチケットを譲ってもらったので、どなたもお誘いしなかったのですが、私の持っているチラシを見て、興味を持った方がお二人、別にチケットをとって、鑑賞です。
聲明にだけ興味があったので、今回は洋楽とのコラボレーションは、第一部では、ちょっと違和感がありました。
ピアノ、バイオリン、チェロ、フルート、オーボエとのコラボでした。
声とよく合うのは、弦楽器と思っていましたが、今日のコラボでは、オーボエがよく合っていたと思います。
フルートももとは木管楽器ですから、合わないはずはないのですが、オーボエの少しかすれるような音が、よかった。
初めて聲明を聞いて、こんなことを言うのは、失礼かなと思いながら、正直に言うと、最初に聲明の出だしを唱えた方と、洋楽器のアンサンブルとの音程が微妙にずれていたのではないかと思ったのです。
完全に調弦された楽器と、人間の体を楽器とする音には、洋楽を学んだ人と、学ばなかった人との音程の取り方の差があるように思いました。
二部の聲明とのコラボは、別の人が出だしをなさいましたが、洋楽の音程ぴったりに発声をしていたように思います。
それで、違和感を感じなかったのか、それとも、楽曲の作曲の違いなのか、洋楽を学んでいない私には、よくわかりません。
オルティンドーの先生にも、お聞きしたことがあります。
オルティンドーの音程には、楽器で表せない音程があると、洋楽を学んだ人には、外れた音と耳に届くことでしょう。
どれを、正とし、どれを誤とするのか。
ある意味、洋楽器は、計算された音を出し、体の楽器はその人だけの音を出す。
人と比べようとすることが始まったとき、良いおととは、多数決で決まってきたものなのかもしれないなぁ。
その人しか持つことのない音程を、その人しか表現できない情緒を、誰がどのように、判定するのだろう。
二部に入る前に、司会の方の説明で、聲明は、すべての邦楽のもとになるものである。と。
そしてそのころ中国から入ってきた漢詩に節を付けて歌い始めたころでもあるし、今様も流行をしたのだと。
二部のはじめには、今様をオペラ歌手が歌いました。
それはそれで、素晴らしい歌声でした。
聲明の声の伸ばすところは、詩吟と同じで、美しい母音でのばしています。
その、美しい日本語の母音で心地よく声の響きを受け取った後の、洋楽の母音の発音 発声は、私にとっては、どんなに鍛えられたプロの歌手の声でも、頂けないのでした。
そして、着物に似せた白い舞台衣装も、受け入れられなかったなぁ。
ソプラノ歌手の歌の後も、洋楽とのコラボがありました。
こちらは、違和感なく心に沁み渡って、確かにパンフに謳ってある「癒しの空間」でした。
それぞれ完成されたものの、コラボでしたから、それぞれは遜色のないものを目の当たりにしたのですが、生意気な感想だと自分でも驚く思いが湧き上がってきてしまいました。
~パンフより~
聲明とは・・・
経文や真言に旋律抑揚を付けて唱える仏教声楽曲のことで、インドにおける原始仏教教団の成立に伴ってその原型が起こり、法要儀式の大切な要素として、仏教の伝来とともに中国を経て日本に伝えられました。
聲明の音楽理論や旋律様式、デイ学的技法は、平曲、謡曲、民謡、浄瑠璃、長唄など、後世の様々な声楽分野の形成に多大な影響を与え、「日本音楽の源流」と言われ、その歴史と音楽性において優れた宗教(典礼)音楽として、今日高い評価を受けています。
パンフには、詩吟の文字がありませんでしたが、司会の方の説明の中に、詩吟を思わせる言葉があったので、大いに気を良くしたのです。
声明の声は、柔らかく心に響くのですが、決して口先で軽く出しているのではないようで、その伝わる力は、ものすごいものがありました。
そうだ、演者は僧侶なのだ、舞台に上がって見せているからといっても、演者でも歌手でもない。
そうだよねぇ、僧なんだよ。
それぞれに、思いを抱いて、雨の中帰路につきました。
コラボって、難しいなぁ。
オルティンドーの三枝綾子さんと、バイオリンの向島ゆり子さんとのコラボはよかったなぁ。
馬頭琴が一番オルティンドーの声に歴史的にもあうけれど、これはコラボというより、一体のもので、バイオリンとは、一定の距離があって、コラボだった。
会場 紀尾井ホール
主催 公益財団法人 日本テレビ小鳩文化事業団
かねてより興味のあった「聲明」のコンサートのチケットが、ひょんなことから手に入ったので、いてきました。
急用でいけなくなった方のチケットを譲ってもらったので、どなたもお誘いしなかったのですが、私の持っているチラシを見て、興味を持った方がお二人、別にチケットをとって、鑑賞です。
聲明にだけ興味があったので、今回は洋楽とのコラボレーションは、第一部では、ちょっと違和感がありました。
ピアノ、バイオリン、チェロ、フルート、オーボエとのコラボでした。
声とよく合うのは、弦楽器と思っていましたが、今日のコラボでは、オーボエがよく合っていたと思います。
フルートももとは木管楽器ですから、合わないはずはないのですが、オーボエの少しかすれるような音が、よかった。
初めて聲明を聞いて、こんなことを言うのは、失礼かなと思いながら、正直に言うと、最初に聲明の出だしを唱えた方と、洋楽器のアンサンブルとの音程が微妙にずれていたのではないかと思ったのです。
完全に調弦された楽器と、人間の体を楽器とする音には、洋楽を学んだ人と、学ばなかった人との音程の取り方の差があるように思いました。
二部の聲明とのコラボは、別の人が出だしをなさいましたが、洋楽の音程ぴったりに発声をしていたように思います。
それで、違和感を感じなかったのか、それとも、楽曲の作曲の違いなのか、洋楽を学んでいない私には、よくわかりません。
オルティンドーの先生にも、お聞きしたことがあります。
オルティンドーの音程には、楽器で表せない音程があると、洋楽を学んだ人には、外れた音と耳に届くことでしょう。
どれを、正とし、どれを誤とするのか。
ある意味、洋楽器は、計算された音を出し、体の楽器はその人だけの音を出す。
人と比べようとすることが始まったとき、良いおととは、多数決で決まってきたものなのかもしれないなぁ。
その人しか持つことのない音程を、その人しか表現できない情緒を、誰がどのように、判定するのだろう。
二部に入る前に、司会の方の説明で、聲明は、すべての邦楽のもとになるものである。と。
そしてそのころ中国から入ってきた漢詩に節を付けて歌い始めたころでもあるし、今様も流行をしたのだと。
二部のはじめには、今様をオペラ歌手が歌いました。
それはそれで、素晴らしい歌声でした。
聲明の声の伸ばすところは、詩吟と同じで、美しい母音でのばしています。
その、美しい日本語の母音で心地よく声の響きを受け取った後の、洋楽の母音の発音 発声は、私にとっては、どんなに鍛えられたプロの歌手の声でも、頂けないのでした。
そして、着物に似せた白い舞台衣装も、受け入れられなかったなぁ。
ソプラノ歌手の歌の後も、洋楽とのコラボがありました。
こちらは、違和感なく心に沁み渡って、確かにパンフに謳ってある「癒しの空間」でした。
それぞれ完成されたものの、コラボでしたから、それぞれは遜色のないものを目の当たりにしたのですが、生意気な感想だと自分でも驚く思いが湧き上がってきてしまいました。
~パンフより~
聲明とは・・・
経文や真言に旋律抑揚を付けて唱える仏教声楽曲のことで、インドにおける原始仏教教団の成立に伴ってその原型が起こり、法要儀式の大切な要素として、仏教の伝来とともに中国を経て日本に伝えられました。
聲明の音楽理論や旋律様式、デイ学的技法は、平曲、謡曲、民謡、浄瑠璃、長唄など、後世の様々な声楽分野の形成に多大な影響を与え、「日本音楽の源流」と言われ、その歴史と音楽性において優れた宗教(典礼)音楽として、今日高い評価を受けています。
パンフには、詩吟の文字がありませんでしたが、司会の方の説明の中に、詩吟を思わせる言葉があったので、大いに気を良くしたのです。
声明の声は、柔らかく心に響くのですが、決して口先で軽く出しているのではないようで、その伝わる力は、ものすごいものがありました。
そうだ、演者は僧侶なのだ、舞台に上がって見せているからといっても、演者でも歌手でもない。
そうだよねぇ、僧なんだよ。
それぞれに、思いを抱いて、雨の中帰路につきました。
コラボって、難しいなぁ。
オルティンドーの三枝綾子さんと、バイオリンの向島ゆり子さんとのコラボはよかったなぁ。
馬頭琴が一番オルティンドーの声に歴史的にもあうけれど、これはコラボというより、一体のもので、バイオリンとは、一定の距離があって、コラボだった。