明日は、北千住にて、「第4回グローバル全国吟詠コンクール大会」の関東地区予選です。
壇上を想像するだけで、あがってしまって、低音の発声に著しい問題を生じてしまいます。
以前は、あがるなんてことは無かったのに、年を重ねて欲と連れ添うようになったのだろう。
今日は、整体の山田先生に気を一杯入れてもらったおかげか、帰宅してからの練習は、日ごろの実力どおりの吟が出来たように思う。
一つ大きな発見をしたことがある。
関吟の作法では、禅僧の間に吟題、作者を言うのは、作者が先で、吟題が後と決まっている。
今回のグローバルでは、吟題、作者の順に言うことになっている。
たったそれだけのことなのに、大きな齟齬感があって、それが、このコンクールへの抵抗感の一つと勘違いしていました。
単なる習慣の違いだけれど、それが、大きな障害となっていたことが直前になってわかったのでした。
気がついてよかった。これに気がつかなければ、一言も発声しないまま、吟題が出てこなくて、失格になるかも知れないところでした。
今、詩吟よりも、まず、吟題を正しく発声して、作者を間違いなく言うことを繰り返しています。
作者から言うのであれば、何も考えることなく始められるのに、吟題の第一番の「九月・・・」がまず出にくくて、それに繋がる作者「上杉・・」がまた、口ごもりそう。
たったこれだけのことで、詩吟を吟じるところにまで到達しないのかと思うと、残念で、悔しいのでした。
さて、足首を暖め、深息法で、心身のバランスをとり、難行に取り組む準備をいたしましょう。
先生をするようになって、生徒さんには、自信を授けているつもりだけれど、私には、自信を授けてくれる人がいないよなぁ。
聞いてもらって、忌憚ない意見を貰いたくても、「結構でした」との言葉が返ってくるのは、取り止めが無く、ゆるぎない自信には繋がらない。
いっそのこと、野田先生を飛び越えて、大阪へ訓練を受けに行こうかと思ったりするが、そんなことできるはずも無いし。
頼りは、CDや関吟のHPだ。
それは一方的に聞くだけで、何の反応も返ってこない。何か言ってよね。
英会話学習のインターネット詩吟版のようなものは、できないものだろうか。
壇上を想像するだけで、あがってしまって、低音の発声に著しい問題を生じてしまいます。
以前は、あがるなんてことは無かったのに、年を重ねて欲と連れ添うようになったのだろう。
今日は、整体の山田先生に気を一杯入れてもらったおかげか、帰宅してからの練習は、日ごろの実力どおりの吟が出来たように思う。
一つ大きな発見をしたことがある。
関吟の作法では、禅僧の間に吟題、作者を言うのは、作者が先で、吟題が後と決まっている。
今回のグローバルでは、吟題、作者の順に言うことになっている。
たったそれだけのことなのに、大きな齟齬感があって、それが、このコンクールへの抵抗感の一つと勘違いしていました。
単なる習慣の違いだけれど、それが、大きな障害となっていたことが直前になってわかったのでした。
気がついてよかった。これに気がつかなければ、一言も発声しないまま、吟題が出てこなくて、失格になるかも知れないところでした。
今、詩吟よりも、まず、吟題を正しく発声して、作者を間違いなく言うことを繰り返しています。
作者から言うのであれば、何も考えることなく始められるのに、吟題の第一番の「九月・・・」がまず出にくくて、それに繋がる作者「上杉・・」がまた、口ごもりそう。
たったこれだけのことで、詩吟を吟じるところにまで到達しないのかと思うと、残念で、悔しいのでした。
さて、足首を暖め、深息法で、心身のバランスをとり、難行に取り組む準備をいたしましょう。
先生をするようになって、生徒さんには、自信を授けているつもりだけれど、私には、自信を授けてくれる人がいないよなぁ。
聞いてもらって、忌憚ない意見を貰いたくても、「結構でした」との言葉が返ってくるのは、取り止めが無く、ゆるぎない自信には繋がらない。
いっそのこと、野田先生を飛び越えて、大阪へ訓練を受けに行こうかと思ったりするが、そんなことできるはずも無いし。
頼りは、CDや関吟のHPだ。
それは一方的に聞くだけで、何の反応も返ってこない。何か言ってよね。
英会話学習のインターネット詩吟版のようなものは、できないものだろうか。