Re:SALOON & VBA

「決め・分け論54」方向性の模索

当ブログのアクセス解析では、勿論、日々に寄って増減があるけれども
(勿論、毎日、監視している訳ではなく、記事投稿後、誰か見てくれたりしないかと思って「アクセス解析」を見たりする。)

当ブログを開設して、今日で7250日だそうだが
(トータル閲覧数892043PV トータル訪問数355553UU)
凡その訪問者数は、日々50~150UU 閲覧数PVは、その1.2~2倍くらいだろうか

カテゴリでは、VBA、HTA系が定常的にあって、
目玉のRe:SALOON の過去の西部劇ドラマの掲示板採録がたまにHITし、
閲覧数PVが急上昇する。
他、詩(塚原将)系も、投稿が詩単位なので、1訪問者で、複数倍の閲覧数PVが上がったりする。

VBAは、世の中に数多あるので、「テキスト分割」とか、表題の付け方で
検索されて、訪問される・・・迷い込みみたいな感じで
HTAは、世の中に希少のようで、プログラミング言語系では、当ブログでは出色のようだ。
他、最近(も、というかプログラミング言語系は、当ブログのメインの一つ)、
特に力入れている
Node.js(Nuxt.js Next.js)系は、世の中に数多なのでほぼ、アクセスがない。

当ブログには、固定読者(リピーター)はいない。
なので、一見さんばかりなのだが、
このカテゴリ「決め分け論」「OUTSIDER論」に関しては、まるでアクセスがない。
元々、サーチエンジンに引っ掛かるキーワードではない。
例外として、「赤黒ゲーム」で、何回か閲覧者があったようだが、
あの文章なので、がっかりして帰られたかと推測する。申し訳ない。

かといって、そもそも、
「決めたい」と「分かりたい」が、方向性が逆という発想からの記事類なので
そういう需要そのものがない。
「決定論」というと、そもそもが決まっていることが、現象化しているのか
偶然、自由意志はありえるのかの論になってしまうし、
「決定分析論」となってくると、「決定」にいたるプロセスの分析になる。

「分かる」を「知る」に変えて検索してみた。

「知ること」と「決めること」はわけて考えよう
https://note.com/shinu/n/n371b6fc86a58
データ分析とインテリジェンス 2023年3月10日 07:55
no+e というSNSの投稿がHITした。
一部、引用させてもらうと
「つまり「決めること」は最後は信念や気持ちの問題となる。とすると、「知ること」とは真逆でどこまでも自分が中心である。」
「「決めること」が優先され「知ること」がおざなりされているのが現状であろう。「知ること」が土台となり、その上に「決めること」というビルが建つはずだが、建物だけ見て土台を考えることがあまりないようだ。」
とあった。
だが、方向性が逆とまでは追求せず、
「要するにこれは意思決定と分析のプロセスに他ならない。」
とある。まあ、それが、正論なのだが、
最近、僕は、「決めること」と「分かること」の弁証法的止揚を考えているので、
少し、物足りない気はする。

論点がズレた。
元の話の流れは、検索してもらえるタイトル、表題、用語であった。

「決め分け論」で検索しても、
赤黒ゲーム・・・「決め・分け論」㊵
がようやく何巡目かにヒットするぐらいで・・・
「ゲーム」の方で引っかかって出てきたことに、自分自身でも驚いてしまう。
(「赤黒ゲーム」で引いても、沢山あり過ぎて、当ブログは出てこないけれども・・・)
そもそも、「決め分け論」というワードで検索する輩は、僕しかいないのは、言うまでもない。

ここで、課題なのは、
引っ掛かり易いような、詐欺的ワードを表題にすべきだろうか、
100人、読んでくれたら、一人ぐらいは、賛同者(僕も、同じようなことを考えていたというような人)が現れるのかも知れないが、今のところ、50以上の記事(投稿)でも、多分、数人が間違えて、
PV数カウントされたぐらいではないだろうか・・・
「分かりたい」人達に、認知は、されたい・・・が、・・・、難しいところだ。

と、愚痴のような、願望を書いたが・・・

この投稿は、久し振りなので、最近、思っていること、
漠然としたものを書くことで、何か、方向性とかの形になって来ないかと期待してのこと・・・
(誰にもヒントを貰えないので、書くことで、可視化、対象化して、具現化できないかと)

で、まず、一つ目
OUTSIDERのこと
これは、「ライ麦畑でつかまえて」のTHE CATCHER から来ている。
そもそも、自分は、外側に居るのかも、居たのかも・・・から、OUTSIDER
を思いついた。
じゃあ、INSEDE = ライ麦畑 は何なのかというと
大概の解釈では、守るべき純粋な子供達、自身の純粋な心根、心情、そして、存在の本質
そして、落ちて(堕ちて)しまった世の中を牛耳る、「インチキ」な者たち
まあ、本筋はそうなのだろうけど、
OUTSIDERからしたら、純粋な子供達も「インチキ」達も、どちらも、
INSIDERに見える。
「ライ麦」は、集合的価値観のようなもので、ある意味「常識」
子供達の純粋さは、大人に成るにつれて、囲いの方がズレて、「インチキ」方面に
集合的価値観が、変わってしまった。
その変化に対応できない、純粋な子供達を救たいと、THE CATCHERになりたいという。

純粋無垢な子供達も、実は、残酷だったりする。
「ライ麦畑」の中にいることで、無垢な悪魔となって、
OUTSIDEにいる余所者をイジメたりする。イジメ問題の、根深いところは、
「インチキ」という知恵のつかない、配慮、忖度の出来ない、純粋さであったりする。
強者INSIDERには、何でもないこと、ちょっとしたおふざけ、冗談だったりする。

まあ、OUTSIDEにいるものとしては、僻目でしかないのかも知れないが・・・

と、「ライ麦畑でつかまえて」の愛読者からは、お叱り、批難を受けそうなことを書いていたりするけど・・・、お赦しを・・・

で、「分かりたい」派でいることが、僕のOUTSIDERであることとリンクしているので、
「決め分け論」の展開として、【OUTSIDER】を追加して来た訳であるという説明なのだが・・・

で、二つ目は何かというと
「歴史」についての思いの変化

斯く言う「僕」は、(ブログでの一人称の違和感は拭えないが・・・未だに)
「歴史」はどちらかというと苦手教科だった
それは、「歴史」を政治等、権力闘争の「支配史」「権勢史」と捉えていたからなのだが
つまり、INSIDE争い
文化、文明のOUTSIDEも含めた、「文化史」、「文明史」と捉えたら
結構、面白いなぁ~という目が出てきた・・・という、ところで

どっちが正しいかの、邪馬台国論争のような観点ではなくて、
縄文文明から、弥生文明への推移という目でみると
古代人は、何を考えて、生きて来たのか・・・
夫婦、親子の関係・・・
果たして、世の中をどのような世界観で、認識していたのかと・・・
そういう文明史として観た時に、結構、面白いな・・・と
今まで、避けてきたものを、観方を変えることで
見直せる気がして来たのだ。

生きることに、余裕がない為に(飢餓や疫病、怪我との隣り合わせ)
反って一万年以上平和な、微妙な進歩が続いた縄文時代が、
農耕で余裕が生まれた為に、反って、独占、選別、格差が生まれた弥生時代にとって変わられる

ここに、「分かりたい」が、「決めたい」に置き換えられる
皮肉を見てしまう。
「決めること」の出来ない平等での「分かりたい」が、
「決めないと」生き残れない、格差社会にとってかわられるという・・・

歴史にも、「分かりたい」と「決めたい」の分断を見てしまうという
そういう興味が出てきている。

ということで、多分をダラダラと書いて
今後の方向性を探りたかったのだけど・・・失敗かも・・・

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