Re:SALOON & VBA

宗教上の・・・「決め・分け論」㉘

「決めたい」と、「分かりたい」に方向性を分割して考えるという
このシリーズで、避けては通れないと思っていたもの、
それは、今回のテーマ「宗教」です。

「分かりたい」派の僕は、この「宗教」というもの
が、何んなのか というやはり「分かりたい」というスタンスで
興味をずっと持っていました。
あの仏教の、何言っているか分からないお経の意味、効果も
「解き明かして」みたいことの一つでした。

葬式仏教としての、関りが、もっぱらの僕の宗教なのでしたが、
宗教に「嵌る」人たちは、
「決めたい」から宗教に嵌るのか
「分かりたい」から宗教に嵌るのか
それも、僕の「分かりたい」ことの一つでした。

宗教の「決まっている」教義は、「決めたい」なのかなとも思いますが、
唯識説や曼荼羅を擁する仏教の世界観に至っては、それは「分かりたい」でもあるでしょうと
思います。
で、してみると
宗教を「決めたい」と「分かりたい」に分化して考えようという方向性は
そもそもが無理な話なのではと思い至ります。

僕が、宗教に
もっと広い意味で、スピリチュアルに近づいたと思えるのは、
ニューエイジ思想からです。
ニューエイジは、僕の上の世代ですが、
若かりし頃、「聖なる予言」あたりが端緒でした。
Wikipediaの「ニューエイジ」を開いてみると、
懐かしい、知っている言葉・用語のオンパレードで、
当時、本の虫でしたから、芋づる式に嵌っていました。

本に嵌っていても、スタンスとしては、宗教は、対象物として
距離を置いているので、宗教の最大の特徴である「信じたい」からは
依然、距離を保っている感じではありました。

そうです、宗教は、「決めたい」と「分かりたい」という「・・・したい」でいうならば
「信じたい」の範疇だと思うのです。
そもそも、「信じたい」は「分かりたい」とは、対照的ですらあります。
「分かる」ためには、「疑う」という過程がどうしても必要です。
・・・と言っているけれども、本当にそうなのかな・・・という
既成概念を鵜呑みにしないで一旦、疑って、再吟味してみる
その働きで、どんどん、細分化、深化していくことが出来ます。
また、「信じたい」は「決めたい」とも違います。
すでに「決まっている」ので、今回、あなたが「決めよう」とするのは、
神への冒涜ですらあります。「決める」ことが出来るのは、神様だけなのですから

してみると、「決めたり」「分かったり」するのは、誰なのかというと
教祖、創始者が、「決めたり」「分かったり」したことを
ただ、「信じる」のが、信者なのだという構図が、僕の中で出て来ます。

教祖が「決めたい」派の人なのか、「分かりたい」派の人なのかで
その宗教の性質が決まる気がします。
キリスト教、イスラム教は、一神教で、「決めたい」要素が強いですが、
教祖、キリスト(の後継者)や、ムハンマドが、「決めたい」という指向性を持っていたから
キリスト教、イスラム教が、「決めたい」指向性が強い。
一方、ブッタの苦しみの源泉を知りたい、分かりたいという指向性が
仏教が「分かりたい」指向性の強い宗教となっている気がします。

西洋は、宗教は一神教的「決めたい」なので、その反作用としての科学が出て来る。
東洋は、宗教は多神教的「分かりたい」なので、その反作用として政治が専制主義的(独裁的)傾向をもつのが僕の考え方では非常に面白いなと思います。
ここで、面白いのは、日本です。仏教の上に、更に、汎神論的神道があります。
神道の反作用的に天皇制があったと思うのですが、それも、第二次世界大戦の敗戦で、
科学にとって代わられた。最も、「決めたい」要素から、遠い国ということができるのではないかと思う訳です。
でも、その「決まらない」民主主義で、自民党が長期政権をとっているということも
ますます、実は、面白いと思うのです。

僕の考え方では、「決めたい」と「分かりたい」は、両方必要で、相補的ではありますが、
その、現れ方は、いろいろあると思うのです。
「分かりたい」100%では、誰も責任が取れない、「決まられない」社会で、一歩も進みません。
かと言って、「決めたい」100%で、誰かの「決めたい」に任せてしまうと、
プーチン、習近平、金正恩になってしまう。「決まる」のはいいですが、
その人の決める方に嵌らない人にとっては、否定される苦しみしかない訳で。

すみません、宗教から、逸脱しましたね。

宗教、スピリチュアルから、距離をとっているというのが
僕のスタンスと書きました。
これはどういうことかというと、
「決めたい」人には、理解してもらえないかも知れないですが、
宗教的、スピリチュアル的観方も、科学的、現実的な観方も、
同時にしているということです。
行動ということでは、科学的、現実的な選択で生きているのですが、
宗教的、スピリチュアル的な判断も、決して、捨てている訳ではないという生き方をしている
と言ったらいいでしょうか?
「決めない」と気が済まない人には、不誠実に見えるかも知れませんが、
例えでみれば、バイリンガルです。
日本語ではこう表現する、同じことを英語で言うとこう言うというのが
あると思います。
勿論、通常はどちらかの言語で会話するとして、
口にしなくても、もう一方の言語でも考えているもいい訳で、
そういう感じです。
あるいは、量子力学の重なり合わせの概念です。
観察するまでは、どちらでもありうる、
が、観察して瞬間、どちらかに「決まって」しまう。
どちらかだけでく、どちらもありうる、そういう生き方が出来ないかなと思う訳です。

ああ、また、宗教から離れてしまいましたね。

ちょっと目先を変えます。
地下鉄のつり広告はよく見ます、長距離通勤、暇なので(座れれば居眠りたいですが・・・)
広告の売り文句を、「決めたい」指向なのか、「分かりたい」指向なのか、
分類するのは、結構面白いです。
で、最近、
その地下鉄の書籍の広告のひとつで、
「コロナ不況下のサバイバル術」いうのが目につきました。
「この一冊が、あなたの恐れや不安を解決する。政府に頼らず、自分の力で、生き延びる方法を選び取れ。」
との売り文句。選び取れと煽ってます。
これ、幸福の科学出版の新刊本です。
若い頃、スピリチュアル本を手あたり次第読んでいた頃、大川隆法氏の本も結構読みました。
幸福の科学主催のリモート講演会に行ったことすらあります。
でも、そのうち、おや?何か違うなと、思い始めたのが、
この「決めたい」「選ぶ」という選別傾向です。
大川氏がブッタの生まれ変わりを広言するようになって、
「もし本当にそうでも、言う必要があるかな」と、疑問に思いました。
仏教の本来「分かりたい」という基盤の上に、「決めたい」を「科学」という全然、
相容れないもので隠ぺいして、出して来たのが、この大川教です。
「決めたい」「選びたい」がどこでも出て来ます。
決めるのは科学ではなく、科学を冠する大川氏のみです。
科学から、自明で決まる、判断は、分かった(理解した)人がすればいいのですが・・・
大川教は、仏教的一神教かなと思います。
でもそれが、信者には、堪えられないのだろうなと思います。
僕には、堪えられないではなく、耐えられないなのですが・・・

宗教は、教祖の「決めたい」「分かりたい」が、
信者に「決めさせたい」「分からせたい」になり、そして、
信者の「信じたい」に吸収されて行くものという構図、
これが、この投稿で言いたかったこと(そのⅠ)かと・・・思います。

コメント一覧

frontflug
会社の同僚で、S学会の人がおり、いきなり自宅に来訪して
何かなと思ったら、勧誘された(布教された)ことがある。
信者になる人と、そうでない僕のような者との違いをそのとき知ることになった。

人生が、テスト問題だとして、
いい点をとってというのは、あると思うが、
僕には、その熱意は少ない。
いい点より、問題を解くことが楽しかったりする。
解けたときがとても嬉しい。
いい点を取りたいという人は、解く喜びよりも、
いい点だった方が嬉しいのかも知れない。
僕は不正解でも、何故間違ったのかが、後で分かった方が嬉しい。
何だか分からないけど、マークシートのどれかを選んで、
当ったから嬉しいというのは、ちょっとも、嬉しくなかったりする。
回答の仕方も、選択問題と記述式と分かれていて、
正解を選ぶというより、理由を書く方が、部分点も貰える方が嬉しかったりする。

そこに、「決めたい」人と「分かりたい」人の人生というテスト問題への
向き合い方がある気がする。

さて、S学会の同僚は、言う。
問題を解く必要はない、先に解いてくれた人がいて、
先頭に、私は○○さんと同じ回答にしますと書く欄がある。
自分で考えると間違ってしまう、正解はすでに、池田大作さんが解いてくれているのだから、
池田さんの答えの通りですと選ばないのは、損だという。
というか、自分の為ではなくて、その方が皆んなが正解に辿り着く一番いい方法なんだと・・・
まあ、池田さんであったり、イエスさんであったり、モハメドさんだったり、大川さんだったり、麻原さんだったりする訳だけど・・・

僕にとっては、一番、美味しい部分を捨てている気がする。
問題を解く、解けたときの、分かった時の、物事がつながった時のあの感動・・・

まあ、それが「決めたい」人は勝ち残り、選抜されたときの喜びであったり、
「信じたい」人が、失敗が自分の責任にならないでホットする安堵感、包まれて認められている安心感なのかも知れない。

「信じたい」人との違いで、もうひとつ感じたのは、
帰納法と演繹法の違いみたいなことを感じたことがある。

何故、光があるかと問うた時、宗教者は、光があるのは、植物が光合成をする為なのだと答えるのだという。
光があるから、光合成をする植物が生まれる(生物進化で生き残る)と、逆の考え方になる。
勿論、光は何故あるかは、僕にとっても、興味深いが、そこに意思を持ち込まない。

結局、答えが先で、それを導き出すところに意思を持ってくるのが、宗教的思考法かもと
今のところ考えている。
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