ラブラドレッセンスの瞳

暗がりの、猫の瞳の煌めき。
地中深く、眠る石の輝き。

一周忌

2010年09月18日 | 父の事全般
ちょっと遅れたけど、父の一周忌でお寺に行ってきましたよ。

天気が微妙だったので、日傘を持っていきまして(雨傘兼用)。
晴れたら晴れたで日傘として使えるし。

地下鉄も名鉄も車両は濡れていて、多分向こうにいる間に降るかなーっていう予報だったんで、心配なのはリリーちゃん。

休憩所の中にいてくれて、写真撮れればいいんだけど・・・。




そんなリリーちゃん、タクシーを降りた所にたまたまいてくれて、「お出迎え」と喜ぶ私
朝のパトロール中だったようです。



写真はまだ編集出来ていないので、お盆の時の続きだけど

私らが「リリーちゃ~ん
と寄ると、コロンコロン転がって、愛想のいい事



その時に写真撮れば良かったなあ

法要の時間は予約してあるので、おかんに「行くよ」って言われたから、とりあえずバイバイして「後でね~」と。

他のお参りの人に構われつつ、休憩所に入っていきました。


法要が始まるなというところで、土砂降りの雨!

帰るまでに止めばいいと思っていたけど、この日一日降ったり止んだりでしたな。
問題は降りっぷりが半端ないってとこでしょうか


法要はほぼ30分でつつがなく終り、椅子に座っていたので足がしびれる事もなかったです(笑)

途中やっばり涙が出て、知らん間にマスカラが剥げ落ちてたようですが
ウォータープルーフなのに・・・と思ってたら、固まった塊が、目頭を何度も押さえてるうちにポロポロ剥げていたらしい。>溶けた訳ではない。

そんなにポロポロ取れてたら、ウォータープルーフの意味ないやん!
そんなにわんわん泣いてないのに

やっぱ、マスカラ苦手やわ~。
つけ睫毛だと、派手になりすぎるかと思ってさー。
お寺だし・・・。


法要が終わったら、お楽しみのリリーちゃんタイムです(笑)

休憩所の中に姿が見えたので、
「リリーちゃ~ん
と言いつつ近付いていったら、ちゃんと来るんですよ!

詳しく書いてると長くなるんで(笑)、また写真を編集してアップする時に


帰りは物凄い雨の降り方で、あと5分待ってたらちょっと弱くなったのに、すんげー降ってる時に出ちゃって

去年も雨だったし、今年も涙雨か・・・と話してましたが、多分おかんが日本一の雨女だからでしょう

最近の雨の降りっぷりだと電車が止まっちゃう事があるんで、それが心配だったけど(知多線は止まってたよ)、何とか大丈夫だったので良かった。



こないだ入った「I.C.Cグルメ」でモーニング食べてきましたよ



終了時間ギリギリに入ったにも関わらず、無理言ってすみませんでした

ドリンク代だけの350円で、これだけ食べられます
私はホットレモンティーで

とても美味しかったですが、これだけだと軽めですな。
ここのモーニングはお上品な感じ。
プレートも可愛い花柄だし

また、駅に近い場所があったらモーニング食べに行きたいです。
2人食べても1人分の料金だしね

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そして父の帰宅

2010年09月16日 | 父の事全般
八事斎場をとても遠くに感じながら、やっと辿り着くと、運転手の方が手続きをしてくれました。

平日の午前中だというのに、結構な混み具合。

休日はもっと凄いんでしょうね。


既に平安会館の担当の人が待っており、火葬するのに順番を結構待つのかと思っていたら、すぐ案内されました。

母方の祖父の時は手続きとかで結構待ち、更に火葬し終わるまでも1時間以上待っていた記憶があります。

全然混んでなくて、他に2~3組しかいなかったのにあの待ちようが納得いかなかったものですが、今回はこんなに人がいるのにすぐっていうのに、逆にビックリしました。


今から炉に入れますよっていう時まで、色々考えて心を整理して落ち着こうと思っていたのに、そんな暇は全くなしです。


祖父の時と違って普通に屋根のある平屋の建物の中で、炉と炉の間隔が随分狭く、狭小住宅のようでした。

祖父の時はちょっと広めのマンションという感じでしたので、市によって随分違うものだと思ったものです。





すぐ隣もその向こうも人がいて、同じように説明を聞いたり炉が開くところだったり。

場所も狭いので手短な説明を聞き、あまり感慨深いという状態でもなく、お別れしてしまいました。


ここで本当に父の姿は失われてしまうのですが、顔を見られないのなら同じ事です。

棺越しに父の姿を想像しても、それだけです。

もうここまで来たら見られないのは同じですから。


そうは思いつつも、本当に体がなくなってしまうというのは、とても苦しいです。


苦しいというか、悲しいというか、色々入り混じった感情が・・・。


その時たまたま後ろの方で突然泣き声が上がり、他の方が別れを受け入れがたい様子だったので、逆に私は泣かずに済みました。


他の方が取り乱していると、逆に冷静になりますね。





それから1時間程待ち、お昼も過ぎたので、食欲はありませんでしたが売店でサンドイッチを購入し、2人で食べました。


待っている間、色々思い出すかなとか考えていましたが、疲れていたせいかあまり思考は回りませんでした。


母も同じだったようで、何もする事がなくボーッと待っているのもしんどかったようです。


他の方々は親戚一同大勢で来ている様子で、葬式だからと悲嘆に暮れている様子も疲れきった様子もなく、ワイワイとお喋りしている姿がよく伺えました。


でも私はその間、1つだけ覚悟しなくてはならない事があり、ショックを受けないように自分の頭の中で何度もシミュレーションを重ねていました。


それは、父の遺骨を見る時です。





私はそれまで葬式で火葬場まで行くというと、母方の祖父の時ぐらいしかなく、眠ったようだった祖父が全く違った形になって炉から出て来た時、物凄くショックを受けたのを覚えています。


祖父の姿がすっかりなくなってしまい、その時1番ハッキリ

「お爺ちゃんがいなくなった!」

と感じ、叫びそうな程ショックでした。

それまではまだ祖父の姿があったから、式の最中は泣いていたものの、従兄弟と喋っている時は結構ケロッとしていたものです。

でも、骨を見た時に誰だかわからない状態になってしまった訳ですから、その時初めて
「いなくなった」
と感じたのです。


祖父でさえあれ程のショックを受けたのです、父ならばどれ程になってしまうでしょう?


どうしてもその時が不安でした。


全く影も形もない状態になってしまうんだと、何度も繰り返し祖父の時の事を思い出していました。





その時が来て、とても怖かったですが行かない訳にもいきません。

恐る恐るですが炉に向かい、覚悟を決めました。

母の方がもっと他の人の遺骨を見ているとはいえ、ショックじゃない訳はないでしょうし、私がしっかりしなくてはいけないと思いました。


他の方の炉も順次開いていったので、結構な熱さです。


その時たまたま見ていた方向の隣の人の炉が開いて、遺骨が出てくるところが見えたのです。


「ああ、あんな風になるんだ」


と思った時、父のいた炉が開いて、隣の人と全く同じような骨が出てきました。



「同じだ。
 隣の人と同じ。
 死んだら皆、同じなんだ」



そう思ったら、ショックではありませんでした。






父の姿は跡形もなく、面影も遺品も何もなく、そこそこの骨と熱気が残っただけでした。


でも考えていたようなショックはありませんでした。


母は私がショックを受けないかと気にしていたようでしたが、遺骨を拾う手も震える事なく、頭蓋骨も自ら砕き、転んだ時に欠けていた前歯が目に付いたので、拾いました。


骨になってしまったら、父を殺したがん細胞もすっかり焼けてなくなってしまったし、左目がないのも関係ありません。


他の人と同じです。


老衰で亡くなった人、

事故による怪我で亡くなった人、

癌ではない病気で亡くなった人、


誰とも同じです。

区別はつきません。


そう思えば、ここにいる人は皆同じ思いをしている、私だけではないんだと感じられ、怖くありませんでした。





やっと、1番怖かった儀式を終え、家に帰れる時がきました。


父が「帰りたい」と言っていた家。


父が40年近く暮らしてきた、私達家族の家。


うちには仏壇もないので、予め用意した簡易の棚みたいなものですが、そこに小さくなった父の欠片を置いて、やっと


「おかえり。
 やっと帰って来れたね」


と言う事が出来ました。


本当はそんな風に帰ってきたかった訳ではなかったと思います。

生きている間に、意識のある間に家に帰りたかったはずです。

それはわかっていたのに、叶えてあげられなかった事を一生後悔しながら生きていくんだなと思いました。





その日から、毎日お線香をあげています。

たまにお寺に行った時に嗅ぐ臭いが、住み慣れた自宅でするというのに、どうしても違和感があります。


それは、一年経った今でもそうです。

こんな臭いがしているのが、おかしいんだと感じます。




一年経ったのに、一年も経ったのに、つい昨日の出来事のように感じます。


まだ私は、いつも通り玄関から父が帰ってくる気がしています。


それを望んでいます。


寝ていると、隣の部屋から父のいびきが聞こえてくる気がします。


でも不思議と、病院にいる気はしません。



家から近い事もあり、病院の近くをよく通る事があります。


仕事帰り、父のいた病室を見上げるのが癖になっていました。



もう父はその病室にいないのに。



でも不思議と、上に上がろうとか、病室の前まで行って確かめようという気には、一度もなりませんでした。



病室にいると思ったところで、いずれ死んでしまうのだから、心が嫌がっているのかもしれません。




父にいて欲しい場所は、この家なんです。


生きている時は例え病室にいても、生きてさえいてくれたらいいと思いました。


でも、違うんです。


病室にいれば、いずれはいなくなってしまうんです。




でも、家にいれば違う。


父は病気にならずに、今まで通り平穏に過ごしているはずだ。


だから、家にいて欲しいのです。




でも、どこにもいません。


病室にもいません。


車にもいません。


家にも帰ってきてくれません。




一年経てば、流石に私も少しは現実を受け入れて、一年前とは違う考えになっていると思っていました。


現実は、殆ど変わっていません。


そもそも一年経った気がしてないし、ついさっき起こった悲しみのような気がしています。



こんなにも、一年で変わらないとは思っていませんでした。


時間が必要だとしても、変わらなさ過ぎる気がしました。


こうやって書いていれば少しは現実を受け入れると共に、悲しみも和らぐかと思いましたが、効果の程はまだわかりません。





ここまでは何とか書こうと頑張りましたが、正直気持ちは落ち込むし、泣きながらしか書けないしで、とても精神的に辛かったです。


でもこれで、来年はその時の気持ちだけを書けばいいので、少しは「やり終えた」気がします。


私にとってとても辛かった9月15日と16日が、去年と今年だけである事を、心から願っています。



こんな面白くもなく、個人的に悲しいだけの話を長々と、読んでくれた方々に感謝します。


人生は悲しいだけではないんだと自分に言い聞かせ、これからは泣いているだけではなく、少しずつでも自分の事をやっていこうと思います。




 
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葬儀場にて

2010年09月16日 | 父の事全般
翌日の葬儀の為の荷物を準備して、葬儀会館に戻ろうとすると私達の担当の葬儀屋さんが来てくれました。

自宅から会館は近かったので、雨だった事もあり歩いて行くつもりでしたが、ご自分の車で送ってくれました。


会館に着くと父は2階のホールに既に移され、お通夜の準備が整っていました。

お通夜といっても他に誰も来ません。

父がそうして欲しいと望んだからです。


生前のマラソン仲間がいなかった訳ではありませんが、仕事が忙しくてマラソンが遠のいていた事もあり、仕事をやめてまた走ろうとした途端に何度も転んで今回のキッカケを作ってしまった事もあり、プライドだけは高い父が、こんな弱った姿を他人に見せたくないのだろうという事もあります。


おでこはすっかり綺麗になって、手術の痕など全然わかりませんが、失った左目は戻りません。


ずっとガーゼを大きく当てていましたが、ある時病院のお風呂でペロッと剥れた事があったそうです。

その時他の患者さんが1人いて、たまたまそれを目撃してしまい、
「うわッ!」
と言って空洞になっている左目を見て凄くビックリしていたと、面白そうに話していた事がありました。


私は色々な意味で怖くて、その無くなった左目を見る事は、最後まで出来ませんでした。


義眼を入れたがっていた父。


もし回復してきて義眼を入れる事があったのなら、見ても構わなかったと思います。

でももう治らないのに痛々しい姿をわざわざ見るなんて、可哀想で恐ろしくて、出来なかったのです。





2人だけだし、無宗教だし、父も葬式なんてどうでもいいと言っていたし、治療費も色々とかかってしまったので、1番シンプルで安い葬式です。

それなのに、30人程は入れる綺麗で立派なホールを使わせてもらい、何だか勿体ないような感じです。

多分少人数用のホールはないんでしょうね。


ホールが広くて綺麗なだけに、余計にガランとした感じが際立ってしまって、凄く寂しげです。


弔問客用の控え室も立派で、普通に調理出来る台所と食器棚もあるし、お風呂もあるし、うちよりいいんじゃない、と母と話して笑っていました。

ただジッとしているのも手持ち無沙汰ですし、私だけですが折角なのでお風呂を使わせてもらいました。


集合住宅の集会所を借りるという場合だと、こうはいきません。

私が小さい頃は大抵集会所でお通夜をしていましたが、大人になって暫くしてからは使われていないと思います。


以前契約していたA社に問題があって、急遽平安会館に切り替えましたが、早期使用料がかかってもA社を解約した金額より安く出来、大変助かりました。

学区内の人はホール使用料無料というのも、大変ありがたかったです。





翌日の準備をしながら会社にも連絡を入れ、その間何度か父の顔も見てお参りしましたが、冷やしているのでどうしても顔色は悪くなり、よく言われる

「眠っているようだ」

という感じでもなかったです。

やはり作り物の人形のように見えます。


父が名古屋に出てきてからお世話になっていたおじさんの遺体や、母方の祖父の遺体を見た事もあるのですが、特に母方の祖父は本当に眠っているように見えました。

特に病気でもなく、苦しまずに眠ったままだったからでしょう。

すい臓がんで亡くなったおじさんの遺体はとても顔色が悪かったのですが、人形のようには見えませんでした。

ちゃんと、おじさんの遺体に見えました。


何故父だけ本人に見えないのか・・・


やはり長年共に暮らした家族であり、その気持ちを受け入れがたいという部分も、含まれているのかもしれません。





本来ならばそのまま起きているか、泊り込むかというところなのですが、2人とも疲れ果てていたのもあり、銀河の事も気になったので、夜は家で寝る事にしました。


眠れるかどうかという心配はあったのですが、興奮しているというよりはもう気落ちしていたので、一応眠る事は出来たと思います。



翌朝、10時に出棺でしたので早めに家を出て、天気が良くて良かったねと母と話しました。

本当は前日の夕焼け写真を撮りたかったんですが、残念な事に雨で・・・

涙雨かもしれません。



葬式は2人だけ、係の人も2人と、寂しく手早く終わりました。


他の葬式と同じ、父のランニングウェアを入れ、いつも着ていた上着を入れ、本当はめがねとランニングシューズも入れたかったのですが、ゴムやプラスチック製品は火葬の際に問題があり、入れられなかったのが残念です。

愛用品なので、あちらに持っていって欲しかったです。


散々花の仕事をしていて、

「花はもういい」

と言っていたのに、最後に沢山の花に囲まれて・・・



私はもうこれで本当に最後だからと、父のおでこに触れて、心の中でさよならを言いました。



冷え切って冷たかったけれど、その時は何故か、人形ではなくて父のような気がしました。






それまではまだ父の顔を見られていた事もあり、本当の別れのような気がしていなかったのかもしれません。


最後に棺桶の蓋を閉める時、

「これでもう故人様のお顔を見る事は出来なくなります」

と言われ、胸が強く締め付けられました。


そこで「嫌です」と言ったところで仕方ないし、でももう父の遺体さえ見られなくなってしまうというのが、言葉に出来ない苦しさと悲しさになって・・・



本当にお別れなのだと。






たった2人なのに大変丁寧にしてもらい、予定通り午前10時、八事の火葬場に向けて出棺しました。


生前、いつも車で買い物に行っていたダイエーの、帰り道と交差する道を通過した時、

「いつもここを通ったね、いつも買い物に連れて行ってくれてありがとう」

と、すぐ横の棺の中の父に心で語りかけました。



いつかの買い物の帰り道、別の平安会館のすぐ横を通る時に出棺する霊柩車を待っていた事があり、父が
「今から八事に行くんだよ」
と教えてくれました。


私は、八事に名古屋市の火葬場がある事も特に知らなかったので、皆八事に行くの?と父に聞いたのです。


父は自分も八事に行って、焼いてもらうんだと言っていました。


自分の行き先を知っていたのですね。





車に揺られていると、色々と父が車で連れて行ってくれた事を思い出し、もう一緒に遊びに行けない事が悲しくなります。



家族3人の最後の行き先が、火葬場なんて。



きっと他の人も、家族を失ったら最後のドライブが火葬場なのかと、悲しくなるのでしょうね。


そんな事を考えているからか、会話の1つも当然なく静まり返った車内にいるからか、とてもとても長く、苦しく感じました。



遠い、遠い場所に感じました。



息が詰まりそうでした。




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別れ 2

2010年09月15日 | 父の事全般
ひとしきり2人で泣いた後、母だけでも父の死に際に間に合ったのか、気になっていたので聞いてみました。


私は間に合わなかったけれど、それは覚悟していたつもりだったけど。

母だけでも間に合っていればいいと思って。


いつものように家の用事を一通り済ませてから病室に来て、いつもの通り意識がなく、呼びかけても反応しない父、苦しそうに時折無呼吸のような状態になる父を側で見ていたそうです。


10:30を過ぎた頃に一度帰ったそうで、

「家に帰って少ししてから病院から呼吸が急に弱くなったって連絡がきてね・・・。
さっきまで何ともなかったでしょ、前の危篤の時の事もあったし、間違いじゃないかと思って半分怪しいと思いながら行ったんだけどね・・・。
着いた時はもう・・・」


「えっ?と思ったよ。
 嘘じゃないかと思った。
 でも、側に行ったら呼吸してないの。
 手を握ったら冷たくなりかけてたの・・・」



母も、いつかはくると思っていたこの時、疲れ果てて待っていたはずのこの時でしたが、やはりショックで、1人父の傍らでわんわん泣いたそうです。





私は、少しでも早く辿り着きたかったけど、その間1人にしてごめんねと、泣きながら謝りました。

こんな事態で1人では、相当辛いでしょう。

母は

「いいの、いいのよ。
 そんなのわかってたし、しょうがないもん」

と許してくれましたが、ずっと父の側にいたのでは、ずっと泣き続けていたのでは?
という事に胸が痛み・・・。


しかし泣いて少しした後看護師さんが来て、父の体を綺麗にしてくれたりするので、病室を離れて待合室にいたそうです。

その間は色々これからの事を考えていたから、泣いてなかったし大丈夫だと。


そんな事を少し話した後、母は死亡診断書を受け取り、そのお金を払うなどの用事の為に、病室を離れました。


さんざんお金を払っているのに、まだお金を取るんですね・・・。





1人病室に残され、何となくいつもと反対の左側から父の側に行きました。

何故だか覚えていませんが、父の肩口のベッドに手をつくと、ビッショリ濡れていました。

その時はそれが何だかわかりませんでしたが、後で母が泣いた跡だと知りました。


私は大声で泣きましたが、ベッドに伏せて泣くという考えが全くなかったので、母は伏せて泣いていたんだと気付きました。


意識した事はなかったのですが、私は斜め上というか空中に向って泣き叫んでいましたね。

ベッドに伏せる方が、一般的かもしれません。





何となくそこは「母の場所」という気がして、いつもの右側に回りこみ、父に最後のお別れを言おうと思いました。


母が側にいると冷静にお別れ出来ない気がしたし、誰かが側で泣くとつられて泣いてしまって言葉が出なくなるので、1人の時がいいと思ったのです。



別段何を言うか用意していた訳ではありませんでした。

でも、今言わないともう機会がないと感じ、顔の上の布を再び取りました。


不謹慎かもしれませんがその時、小学生の頃に誰でもする悪戯を思い出していました。

寝ている家族、友達などの顔に白いハンカチを被せたりしませんでしたか?

私は、母にはした事がないのですが、父には何回かした事があるのを、思い出していました。


父は仕事の都合上夜は早く寝るので、その悪戯をする機会がいつでもあったのです。

子供の頃の誰でも一度はする悪戯なので、今更申し訳ないとか切ないとかは感じませんでしたが、寝ている人が死んだふりをするのと、本当に死んだ人とがこれだけ違うのだという事を、感じていました。





もう動かない父の顔を見て感じるのは、やはり

「これはお父さんじゃない」

でした。


上手く言葉で言い表せない感覚なのですが、物凄く精巧に出来た「人形」のように思えるのです。


おそらく形だけ作った顔色と、硬くなりすぎていない体と、全く動かない状態からそう見えるのだと思います。



本当はお別れを言いたいのに、目の前にあるのは父の抜け殻で、父の残骸で、今まで一緒に過ごしてきた、私の記憶にある「お父さん」ではないのです。



魂がないというのは、命がないというのは、こんなにも違うものなのかと・・・。



ご家族のご遺体を見て、触れた事のある方なら、この気持ちはわかってもらえると思います。






しかし違和感を感じながらも、お別れを言わない訳にはいきません。


今言わなければ後悔するに決まっています。



何と言ったらいいのかわからないまま涙が溢れるばかりで、

どうしてこんな事になってしまったのか、

どうしてあんなに元気だったし死にそうもなかった人が、今こんな抜け殻をここに置いているのか、

どうして生きているうちに、意識のあるうちに言うべき事だったのに、今更になってしまったのか・・・


色々考えながら、ただ泣く事しか出来ませんでした。



意識のあるうちに言えなかったのは、何度も書いている事ですが、死を間近に感じさせたくないという事でした。

父の方から「自分が死んだら・・・」という話をしてくれれば言い出せたかもしれませんが、最後の最後までそういった言葉も態度もありませんでした。


もうやりたい事は特にない、後悔する事もないと言いながら、死ぬ気などなかったのだと思います。


そんな人に死ぬ時の言葉を、投げかける事は出来ません。








ただただ悲しくて何も考えられない私からやっと出た言葉は



「私のお父さんでいてくれて、ありがとう」



でした。




ありきたりで他に何もないですが、もう握る事の出来ない、硬く組まれた父の手の上に手を重ねて、

泣きながらやっと搾り出せた言葉は、

今まで父親らしい事をしてくれた記憶も特にない父に、



最初で最後の感謝の言葉でした。







それからは葬儀社の人と連絡を取り、迎えを待っている間が、何ともいえない時間でした。


あまり泣くばかりでも母が心配するし、1番泣きたいのは母だろうし、1番疲れているのも母だろうし。


ここは、私がしっかりして色々やっていかないと、と思っていました。



少し遅れてお迎えの人が来ると、挨拶をしたりしてにわかにまた父の「死」を感じてしまい、涙が出ます。


この病室を離れる事がまた父との別れの道を1つ進んだようで、胸が苦しくなりました。


他の人がいない隙を見て専用エレベーターに乗せ、一緒に下まで降ります。

主治医の先生と担当だった看護師さんは、別のエレベーターで。

最後のエレベーターで降りている時、最初におでこを手術して、戻ってきた時の事を思い出しました。



あの時は生きていたのに。



そして、これで治って終わると思っていたのに。


時間はオーバーしたものの、無事手術は成功して意識もハッキリしていて。


それだけの事だと思っていたのに、全く今は動かなくなって・・・




この違いは何だろう?


あの手術に何の意味があったんだろう?


こんなに早く終わってしまうなら


左目だって摘出したのに


辛い思いだけをして


痛い思いだけをして


我慢して


我慢強いのが自慢の人だったから


ただ我慢ばっかりして



結局死んで終りなのか




いのちって何だろう?










車に遺体を収め、主治医の先生の他に担当して下さった他の科の先生も勢揃いして、最後のお別れの挨拶をしました。


そしてもう、この病院には戻りません。


自宅にも戻りません。



直接葬儀会館に行き、父の遺体を安置した隣の部屋で、色々と手続きを済ませます。

死亡届は区役所に近かったので、自ら提出してきました。

母は辛そうというか、気が動転している感じでしたが、1人部屋に残しておくのも可哀想です。

大概届けを出す人は気が動転しているので、係の人も慣れたものです。


母は、死亡届を出す=除籍されるという事で、増々父の死を感じてしまって、動悸が激しくなったと言っていました。


それはそうでしょう。

「いなかった事」にされてしまうのですから。




その日はお昼ご飯は食べなかったと思いますが、晩ご飯をどうしたとか、全く記憶にありません。

とにかく私は仕事帰りで適当過ぎる格好と無駄にいらない荷物を持っていましたし、母も何も持たずにそのままという感じで出てきたので、一通り手続きを済ませたら、一度家に戻る事にしました。

銀河も放ったらかしですし。

流石に、そのまま一夜を明かす訳にはいきません。


そもそも2人だけで見送って欲しいと言われていたので、誰にも連絡せず、自分達のいいように動けるのは助かりました。

色々と思考能力も落ちてますし。


こうなる事はわかっていたので、喪服等の準備は出来ていました。

家に戻ると銀河はベッドで寝ていたようですが、私達が帰ってきたら体を起こして様子を見ていました。

きっと父は銀河に挨拶に来たと思います。

それでなくても家に帰りたいと言っていたのですから、すぐ帰ってきていたでしょう。


銀河は気付いたかな?

と思いましたが、いつものようでしたので、ちゃんと告げました。


「銀ちゃん、じぃじ、死んじゃったよ」

と。



「じぃじ来たでしょ?銀ちゃんにお別れ言いに来たよね」

と言いましたが、当然猫です。返事はありません。

でも泣きそうな顔の私を、ジッと見ていました。

様子がおかしいのはわかったのでしょう。



私の勝手な想像ですが、父の魂が体を出た後、母が来るまでは短時間だったのでその辺で待っていて、私が来るまでは家に戻っていたのではないかなと思っています。



多分透け透けで、見えるかどうかの父を、気配だけでも銀河は感じ取ってくれたでしょうか。


銀河は大切な家族ですから、きっと父は最後に抱きしめたかったと思います。




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別れ 1

2010年09月15日 | 父の事全般
その日は、仕事へ行く前に病室に寄る事が出来ませんでした。

危篤状態から暫く日が経ち、「その時」はいつなのか、いつなのかと神経を張り詰めて二週間、母も私もすっかり疲れ果て、朝はたった10分の早起きが出来なくなっていました。


仕事帰りに寄ればいいと、いつも通り仕事に出かけ、いつも通りの午前中。

たまたま社員のGさんがいなかったので、11時過ぎに鳴った外線の電話を取りました。


病院からでした。






私は「遂にきたか」と思いました。

「呼吸が停止しましたので・・・」

と聞いた時、すぐに向いますと言いながら、妙にシャキシャキしていたのを覚えています。


「その時」を待っていたのだから、別段ショックでもない。

いつかはくるのだから、大声で叫ぶ事もない。

何より、母が先に行っているはずなので、一分でも長く一人にしてはいけない!と思い、多少慌てながらも悲しむ事なく、周りの同僚達に事を簡単に伝えながら、帰り支度を急いでいました。


私は周りに他人がいると、余程突然でない限り、他人に気を遣って泣けない、パニクらないという性質を持っています。





暫く出社する事は出来ないのだから、忘れ物はないか、適当に片付けてきたけど本当に大丈夫か、という事も気にしつつ、仕事中にいつかかってもいいように、わざわざ許可を取って机の引き出しに入れておいた、電源の入った携帯電話を見ました。

11:16に病院から電話が入っていました。

たまたまちょっと席を離れていて、音が聞こえなかったようです。

外線電話を取ったのは、そのすぐ直後でした。





地下鉄の中で気になったのは、

「呼吸が停止しました」

と言われた事。

「死亡しました」

とは言われなかったので、もしかして急いで駆けつけたら、また息を吹き返したという確率がほんのちょっとでもあるのではないか?

多分殆どはないと思うけど、全く0%でもないのではないか?

と考えていました。

 
後で考えれば、蘇生処置などお願いしていないので、そんなはずはないのですが。

私が行くまでに間に合えばいい、その後息を引き取ってしまうとしても、一度だけ呼吸が戻って間に合ってくれればいい・・・

と、普段の現実的な考えの私からは考えられない事を願っていたものです。





正確に時刻を見ていないので、私が病室前に辿り着いたのは、お昼少し前でしょうか。

病室からちょっと手前の場所で、母と看護師さんが話をしています。

母は泣き崩れた様子でもなく、慌てふためいた様子でもなかったので、もしかして!という期待が一瞬頭をよぎりました。


しかし駆けつけた私を見て看護師さんとの会話をやめ、私の左腕を掴んだ母が

「落ち着いてね」

と言ったのを聞き、頷きながら

「やっぱりダメだったのか・・・」

と落胆しました。


それと同時に、突然現実味を帯びた気分になり、心臓がドクドクいい始めました。





病室に入った時、それまでしていた父の臭い(加齢臭のような?)と、病院独特の薬などが合わさったような臭いが、しなくなっていたのを覚えています。

これまでの病室と違うのです。

ガランとしていたように感じたのは、父に付けられていた酸素マスクや、痰を取るチューブや入れ物や、色々な器具などが何もかもなくなっていたから。


父は動かなくなり、テレビドラマで見るのと同じように白い布を顔にかけられていました。





色々な様子が違っていたので戸惑いながらも、ショックを受けていると感じながらも、そこはドラマのようにわざとらしく荷物を取り落とす事もなく、しかしムダであるとわかりつつも

「お父さん・・・?」

と声をかけながら、いつも置く部屋の奥に荷物を置いて、いつものベッドの右側に立ちました。


肩を触ってみましたが、まだ完全に硬くなっておらず、しかし生前の暖かさや柔らかさもなく、

「これは、何だろう?」

と、感じた事のない感覚に襲われました。


恐怖にも似たような、気味悪さも混ざったような、でもどれでもないのです。


「これは、お父さんじゃない」


と思いました。






その後すぐ母が入ってきて、

「大丈夫?」

と声をかけたので、怖いけど確認しなくてはいけないんだろうと思い、顔を見てもいいのかと、涙声で聞きました。


何故か勝手に取ってはいけないような気がしたのです。


母が頷いたので布を取ってみると、動かずに固まった父の顔みたいなものがありました。

ずっと意識がなくて瞬きをしていなかったせいでしょう、目蓋が完全に閉じきらず、ほんの1mm~2mm開いていて白目が見えます。

それは今にも目を開けるのではないかという感じに見えるのと同時に、白目の部分に全く生気がなく、人間の細胞ではなく作り物の何かに見えたのです。


口も同じように開けたままで閉じきらなかったようで、口の中に布を押し込んであるのが見えました。


父の口にしたかった物は、そんな物ではないはずなのに。





私が呆然と固まっていると、母は私の右腕にしがみつくようにして泣き始めました。

大粒の涙をぼたぼた落としていた私も、それにつられるように、大声で泣きました。



クロの時と同じです。

私は母にしがみつかなかったけど、小さな私より一回り小さい母が、私を抱きしめるように顔を抱き寄せるので、ハードコンタクトをしている目が母に押し付けられましたが、それでも大声で泣きました。


隣の病室にきっと聞こえているだろう、でも「今」出来る限りの大声で泣かなくてはいけないと、前々から決めていました。

クロの時もそうです。

私に出来る最後の事は、あらん限りの大声で泣き叫ぶ事。

こればかりは、時間が夜中だとか隣近所に迷惑だとか、恥ずかしいとか知られたくないなどと言っていてはいけないと、強く思っていました。



だから、泣きました。

大声で叫びました。



でも、後で思い返すとクロの時の方が大声だったような気がします。


部屋が狭かったからかもしれません。


その時の私は、まるで狼の遠吠えのような吠え声を、何度も何度も出していました。

これが「慟哭」なのだと、後で知りました。



クロの亡骸を抱いて咆哮する私を母は、「隣に聞こえるから」と顔を覆うように抱きしめて泣いていましたが、それの何がいけないのかと思っていました。


「我慢せずに精一杯に泣く」という事が、こんなに大切な瞬間は「今」しかないのに。


クロに対して、「いのち」に対して失礼な気がしたものです。




だから父の時も同じ、周りの事など考えずに大声で泣くのが「今」1番大切な事だと、その信念は崩さずにいました。


これだけは、後悔したくなかったのです。




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悲しい夢

2010年09月12日 | 父の事全般
去年も父の状態が悪くなって帰ってこられなくなってから、そして今年も同じような時期に、悲しい夢を見ます。


父が普通に家にいて、いつも散歩やジョギングに行く前にしていた柔軟体操をしていて。

でももう1人、何故かガスコンロの前にも父が立っていて、後姿なのでよくわからないけど奥の方を掃除しているような動きで。

格好も、仕事に行く前のような雰囲気です。

私はハッとして、
「これは夢だ」
とわかるのですが、わかっていても夢だと思いたくなくて、
「柔軟体操をしている方が本物」
と思うのです。

父は母にどれだけ言われても、掃除も何も手伝う事はなかったので、そんな動きをするはずがありません。


私は開脚して前に体を倒している父の背中を押す手伝いをしました。

父は元々体が堅くて、殆ど曲がりません。

その背中を押すと、顔は見えないけど
「ありがと」
と言ってくれました。

普段は聞けない父の言葉。

もう発せられる事のない言葉。

私は夢だと知りながら、これが夢でなかったらどんなにいいかと、泣きながら
「うん・・・」
と呟きました。





夢の中で泣いてしまうと、現実の自分も泣いていて、目が覚めてしまいます。


去年見たもう一つの悲しい夢は、確かに見たはずなのに、起きたら殆ど覚えていませんでした。


ただ、「見たのに」という事しか、覚えていませんでした。


泣きながら目が覚め、悲しくて悲しくて泣き続けていたからでしょうか。




夢はそもそも私の過去の記憶なので、その夢で何かが変わる訳でもありません。

お告げでもなければ、父が呼んでいる訳でもありません。


父が亡くなって暫くは見ていなかった夢ですが、また去年の辛かった時期を思い出す日が増えたからでしょうか、ポツポツと見るようになりました。


車の事を、心配したような夢でした。





私が仕事を辞め、お金がなくなって、維持費とか色々を気にしたような顔をしていました。

私はまた夢だとわかったので、心配しなくても大丈夫、車はちゃんと乗るからねと、また泣きながら話しました。


父が何か暗号を使ってお金を振り込んでくれていた、というのに母が気付いたという夢でした。





いつもすぐ泣いてしまって、途中で目が覚めてしまいます。

もっと父と話したいと思うのに。

夢の中でしかもう会えないから、自分の記憶の中でもいいから、もっと一緒にいたいと思うのに。



でもこの夢は私の不安の現れです。

進まない教習所の事や、無くなっていくお金の事や、とにかく不安でしかない将来の事。

暑過ぎて動けない体や、しつこく出来続けるヘルペスの事。


何も嬉しい事も楽しい事もありません。


悲しくて悲しくて不安な事ばかり。





去年の暑い最中から、今までのがちょっと聴き飽きてきたので新しい音楽を聴きたいなと思い、島みやえい子さんのアルバム「ひかりなでしこ」をたまたま聴き始めました。

聴いてみると本当は春に出たアルバムなので、全体的に春のイメージの曲が多いのですが、その最初の「Introduction」から次の「ひかりなでしこ」に繋がる部分が丁度夏~夏の終わり頃の「音」がして、ハッとしました。


「ひかりなでしこ」は終わっていく恋の歌なのですが、とても印象に残る独特な悲しいメロディーと、
「あなたとはじめて 手をつなぎ」
という部分の詩だけが頭に残ってしまい、その曲を聴きながら病院へ向かっているという状態を繰り返していた為、この曲を聴くと暑い中を病院に向かう事、病室にいる意識のない、いつも苦しそうな父の姿しか思い浮かびません。


そんな風にインプットする気はなかったのに、この曲にこんなイメージをうっかりつけてしまって、とても残念です。





もう1曲、「終わった時のイメージ」だなと思ってしまった曲があります。

「ひかりなでしこ」と一緒に購入した、「WHEEL OF FORTUNE」(シングル)です。

実写版「ひぐらしのなく頃に」のED「ディオラマ」、映画は見ていないので、イントロを聴いて映画の終りのシーンはこんな感じで、その途中から流れるんだなというイメージでした。


しかし後半の歌詞を聞いて、あまりにも「今の」自分とイメージがピッタリで、ショックを受ける程でした。






          あなたへのリアリティ   時間が消してゆく


          ココロが二度と求めないように   過去を


          呼吸のリアリティ   今はどこにも無い






もう今は、「そのように」しか感じとれません。

この曲も、この時期は怖くて聴く事が出来ません。

でもどちらも頭の中にしっかり残っているので、思い出すのは簡単です。

頭の中で曲を流すのは簡単です。





最近はまた1人でいる時、寝る前などに泣く事が多く、そのせいでしょうか、ここ数日不自然に頭痛がします。






もうすぐ父の命日です。






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  ※歌詞は一部省略しています。

それから・・・

2010年09月07日 | 父の事全般
去年、書いていない事がありました。


日曜日の朝、いつも通り母と2人で病室に行くと、何だかざわざわと大勢の人で騒がしい感じがします。

扉がいくらか開いていたので覗き込まなくても見えたのですが、知らない人が病室に沢山います。

親戚一同が集まっているところ、みたいに感じました。

中には携帯電話で連絡を取ってる人もいて、これからまだ来るのかな、みたいな。


何だろうと思って入らずに入り口でキョトンとしていると、看護師さんが慌てて来て、
「病室を移動しました」
と・・・。

今までいた病室の、ナースステーションを挟んで反対側です。





もう死にそうな危篤状態の患者を2人部屋へ動かすっていうのは、どうだろうと思いましたが、多分前日の夜か今朝突然に、亡くなりそう、または亡くなられた方がいたのでしょう。

人が少なかったら、うっかり入ってしまったかもしれません。

事前に電話の一本でも欲しかったところです。





父はその日は一日中熱があり、意識は当然ずっとなくて、ただ苦しそうにしていました。

同じ部屋の方は特に病状が深刻そうという感じでもなく、もしこのまま急変して亡くなったら気まずいというか、どうするんだろうと、それが気がかりでした。


他の人がいるし、母ともロクに会話も出来ません。

こういう状態で個室でないのは、空いてないからとはいえ、困ったものがありますね。





今までも部屋を移動する事はちょくちょくありましたが、全て南向きの窓でした。

北向きの窓は初めてだったので、廊下側でしたがもう1人の方がトイレなどでいない時、ちょっと窓の外を見てみました。


今までとは全然違った景色で、変な話ですが新鮮でした。

自宅の方向だったので、自宅を探したのは言うまでもありません。

市営住宅と公務員の団地がズラーッと並んでいるのを、この角度から見るのは初めてだったので、まるでおもちゃのブロックをドミノ倒しをするかのように並べてあるなと思いました。


もう、その景色を見る事もありません。





他の人がいると長居しづらいというのもあって、1時間程いて、また午後に来院しました。

やはりあの方は亡くなったのでしょう、父は元の病室に戻っていました。


科に二部屋しか個室がない為、こんな事も発生するのでしょうね。

そもそも脳腫瘍で入院しているのに、最初に受診した皮膚科にそのままいるのが、おかしい気もしますが。

脳外科・癌科は、どうも空きベッドがないようです。





数日間仕事を休んでいた為、月曜日から出社する事にしました。

本当は最後の瞬間は絶対側にいたいと前々から思っていましたが、数日経って特に変化がないのと、どうしても気を使うというか神経を使ってしまって、職場に申し訳ないと思う板ばさみ状態に、耐えられなくなってきたのだと思います。


私は不器用でバカ正直で要領が悪いので、そういったところは上手く立ち回れません。

深刻なのはこちらの方でも、仕事を休んでいるのが「悪い」気がしてしまうんです。

もっとちゃらんぽらんというか、神経を図太く持ってもいいとは思うのですが、生まれ育ちと周囲の環境の状態から、周りの様子をいつもピリピリと神経を張り詰めて伺う性格になってしまいました。

多分そのおかげで、現在は軽度ではありますが自律神経失調症になりました。

沢山の人と接するのが、どうしようもなく向いていない性格なのです。





具合を悪くしていた母には申し訳ないと思いながら、仕事に出ていた方が正直精神的には楽でした。

周りの人は男性ばかりでとやかく聞いてこないし、仕事中は他の話でもして、辛い事は思い出さなくても良かったからです。

女性が多い職場だと、こうはいかないかもしれません。

だから気の合う女友達が、殆どいないのですが。

男性の方が小さい時から、すんなり友達になれます。





後で聞いたので驚いたのですが、月曜・火曜辺りは何かウィルスが入り込んだらしく、ちょっと肺炎になりかかっていたそうです。

少ししたら回復したそうですが、全く聞かされてなくてビックリしました。

聞いたのは、死ぬ少し前です。


仕事行く前と帰りには寄っていたのですが、全くそんな素振りはなかったというか、別段いつもと変化がないようにしか見えませんでした。

看護師さんにも会ったけど、何も言われませんでしたし、母も何も聞いてません。





もしそのウィルスによって引き起こされた肺炎が死亡原因になったとしたら、それは病院側にかなり問題がある気がしますが、どうなんでしょう?

近々死ぬとはいえ、そんな事で死んだら、何だかこちらも納得いきません。


今回つくづく感じたのは、「自宅に近いから」という理由で病院を選んではいけないな、という事でした。

通院するには確かにメリットの1つなんですが、そもそも脳腫瘍であるという診断を下したのも随分遅かったですし(2年近く放置された計算になります)、それによる手遅れもありうると思います。

深刻な状態になってからでは、遅いのです。


セカンドオピニオンを受け入れなかった父にも問題はあったので、今回は仕方ないと思いますが、母か自分に問題が起こったら、この病院には入らないでおこうと、母とも話しました。


そもそもレベルに問題があるよと、職場の人からも言われてましたけどね。


おでこの怪我の状態が「わかりません」で何年も放置しないで、他の病院を紹介してくれるなりすれば、少しは腫瘍を早く発見出来たかもしれないと思うと、手際は全体的に悪いと思います。

父は私が「他の病院でも診察してみよう」と言っても全く聞き入れなかったので、何でも言う事を素直に聞く主治医の先生の紹介だったら、他で診察出来たでしょうに。


家族が呼び出されて主治医の先生に会えた時はもう手遅れでしたから、その点も残念でなりません。

大きな病院となると、父に黙って主治医の先生を探すのはかなり困難です。

普通に聞いても父の性格からいうと、教えてくれなかったと思います。


頑固で偏屈な人でしたから。



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危篤

2010年09月03日 | 父の事全般
2日の夜、仕事帰りに母から電話があり、丁度地下鉄に乗るところで気付いたので、合間にメールを入れたのを覚えています。


買い物に行かない日のそんな時間に電話があるという事は、父の事である確立が高いので、地下鉄を降りてから電話し、確認して病院に向かいました。


「突然血圧が下がったので、今のうちに会っておいた方がいいでしょう」
と、主治医の先生から連絡があったという事で、ドキッとはしましたが母も慌てた様子はなく、昨日元気だったから一時的なものかもと、その時はちょっと楽観視していたのかもしれません。





病室に着いて様子を聞くと、一時はかなり血圧が下がり、そのまま下がっていくように思えたそうです。

そしてもう2日からは意識がなかったとの事。


私はとうとうきたかと、覚悟せざるを得ませんでした。





実際はそのまま低いながらも安定し、その夜はとりあえず帰宅しました。

仕事帰りで何も泊まれる用意もなかったし、母もすぐ駆けつけたので何も持っていなかったし。

家と病院が近い事もあり、何かあればすぐ連絡をもらうという事で、1時間弱いた病室を離れました。





いつかはくると思っていた日、でも1日にはあんなに元気だったのに、翌日にくるとは思っていなかった日。


その日の夜は結局まんじりともせず、一睡も出来ないまま夜が明けました。





翌朝早めに母と2人で病室に行きましたが、先日と変わらない様子でした。


危篤となったからには、この2~3日のうちに亡くなってしまうと覚悟していたので、仕事は暫く休みになるなと考えながら・・・。





他の科で関わった先生等も訪れて、様子など話したりしていたのですが、やはり熱が出ているのもあり、もうそんなにはもたないでしょうという雰囲気でした。


解熱剤は血圧を更に下げてしまう事もあり、意識がないとはいえ更に父を長く苦しめるのもどうかと母と相談し、血昇剤を使う事もしてもらわず、自然の生命力に任せる事にしました。


いずれは別れなければならない、それは覚悟しなくてはならない、必死に処置をしてもらって延命したところで、意識が戻るのならいいでしょう、でも

「もう何もしてあげられる事はありません」

と、前々から言われていたのです。

だからホスピスに入る話をしたのです。





翌日の4日はケースワーカーさんと緩和ケアの話をする予定でしたが、それを待たずしてこんな事になってしまい、本当にそれが残念でした。


父はホスピスに入りたそうでしたから、きっと独りぼっちで淋しい時間が長かったのでしょう。

「ホスピスに行けば、いつも看護師さんが色々話しかけてくれるよ。
 外の景色も見せてもらえるって・・・」

と説明していた時、うんうんと頷いて、心なしか嬉しそうにしていたように感じました。





ケースワーカーさんには泣きながら、約束していた日にこんな事になって・・・と話しました。

慰めて頂き、余計に涙が止まりませんでした。


もっと早くホスピスに移る話をしていたらと考えましたが、緩和ケア病棟はどこも一杯でなかなか空きはないと聞いていました。

もし自宅で熱を出した時にすぐに話をしていたとしても、転院出来るのはおそらく早くても1ヶ月後と聞きました。

だとすれば、結局間に合いません。

それまでは本人も歩いて動けた事もあり、早めに話が出ていたとしても、治療する気でいましたから、どちらにしても間に合わなかったのだなと、今でも思います。





意識がなくなったとはいえ、
「お父さん」
と声をかけると私の方を見たりするので、この時は完全に意識がなくなった訳ではなかったのかも?
と、少し思ったりしていました。


看護師さんが来て声をかけて痰を取ったりしても、そちらを見たりしていたので、声は聞こえていたような気がします。


ただずっと瞬きをしないので、目が大丈夫かなという心配はありました・・・。

咳き込んだり熱で苦しそうにするとギュッと目を閉じるので、動かない訳ではないのでしょうが。


意識がないと、自然と瞬きはしないものなんですね。



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最後の会話

2010年09月01日 | 父の事全般
なかなか書く気が起きなくて、日にち操作してやっと更新です。


去年のこの日、父と最後の会話をしました。

最後のつもりは全くなかったけど、結果的に最後となってしまいました。





それまでも日毎に具合が悪くなり、会話もどんどん出来なくなっていっていたけど、この日の父は結構元気でした。

先生方と担当看護師さんとホスピスに移る話をして、では向こうの担当の方と正式にお話する日を決めましょうと、話がまとまったところでした。





話を終えてまた病室に戻ると、父が寝た状態からパジャマを脱ごうとして前の方を全開してました。

指もそんなに動かなかったのに、よくボタンが外せたものだと思います。

「家に帰る」
と、ハッキリ言っていました。





家が広ければ、大き目の介護用ベッドを借りて、点滴と薬も太ももから入れるように処置してあったので、痰を上手く取れれば可能だったかもしれません。


しかしそれでは母が一秒たりとも気が抜けず、夜も神経を張り詰めて眠れないという常態になるのは、目に見えています。


私も仕事に行けなくなるし、何かあれば結局看護師さんか先生を呼ばなければいけないので、色々考えても連れて帰れないなあ・・・という状態でした。





水が飲みたいという願いも叶えてあげられず、カレーが食べたいという願いも叶えてあげられず、家に帰りたいという願いも叶えてあげられない。

正直、とても辛かったです。

でも1番辛いのは、父に決まっています。





「そんなお腹出してたら、風邪引いちゃうよ」
と、慌ててパジャマの前を閉めました。

そして、「ホスピスに移ろう」って話をしました。


父は「行かない」と言うかもしれないと思っていましたが、あっさり「うん」と頷きました。
家から近い場所がいいかと思っていたのは、私達だけだったのかもしれません。





きっとただただ、天井ばかり見つめているのは辛いのでしょう。

たまにモルヒネにより意識がなくなったり、思考が止まったりしているとはいえ、もう自分は治らない、死ぬだけだと、そればかり考えていたのかもしれません。


せめて窓の外の景色が見えたり、他の風景が見えたりしたら、少しはマシかもしれない。


いつもいつも目を覚ませば同じ天井であるよりは、遥かにいいような気がしたのです。





父との最後の会話は、正確にはどの部分に当るか覚えていません。

最後になると思っていなかったので、きちんと記憶していないのかもしれません。

ただ、ホスピスの場所は「どこ?」と父が声を絞り出したのが、最後であったと思います。

私は
「熱田区だよ、私の仕事場の近くだから、仕事帰りとか寄れるからいいね~」
と精一杯の笑顔で話しました。

父は声を出さず、納得したように大きく頷きました。





私はいつも父のベッドの右側に立ち、母は左側に立ち、その時も父の右手を握っていました。

父は殆ど声を出せない代わりに、私の手をギュッと、多分精一杯の力を込めて握ってくれました。

「これが最後になるかもしれない」と、お互い確認するように。






結果的には、それが最後になりました。


その後、いつ頃父が意識を失くしたかは、わかりません。


翌日、いつものように母が病院に行った時は意識がなく、しかし、母が行く時は大体意識がなかったり眠っていたりしたので、いつも通りだと思ったようです。


その日の夜、父の血圧と脈拍が急に下がり、危篤状態となりました。





死ぬ少し前にちょっとだけ元気になるという話がありますが、本当なんだなと思います。


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個室へ

2010年08月17日 | 父の事全般
今だけだから、父の事を書かなければと思うんですが、どうしてもテンションが下がって悲しくなるので、なかなか書きたくなりません。


今日は、父が4人部屋から個室に移った話を。





7月の三連休辺りから咳き込みと、食べ物が飲み込みにくくなる状態になった父は、その後の検査でがん細胞が運動と呼吸器を司る中脳付近に転移している事がわかりました。

おそらくそもそものがん細胞は海綿静脈瘤の中にあったと思われるので、実質三度目の転移となります。

最初が発見の元となったおでこの傷、脳膜の上で、次に転移したのが左目の裏、そして中脳です。





病院を転院して最初のがん細胞にガンマナイフを当てに行きましたが、その癌はしおれてきたものの、結局転移した後だったので実質ムダとなりました。

確かにガンマナイフの機械は最新の物で、先生方も権威と呼ばれる人がいましたが。
ならばせめて寿命が少しでも延びれば良かったのに、他のがん細胞に苦しめられたので、結局関係なかったです。





咳き込みは日々激しくなり、私が病院に行った時も顔を真っ赤にして苦しそうに咳き込んでいました。

熱が出て病院に戻ってから点滴のみで何も口にしていないのに、呼吸器に支障が出ていたんでしょう。





あまりに激しい状態が続くと、他の患者さんにもうるさくて迷惑がかかるから、個室に移れないだろうかと思っていたところ、ようやくこの日に個室へ移動になりました。

呼吸もままならない時があったのでしょう、酸素マスクをしていたので、相当状態が悪いように感じました。





他の患者さんに気を使わなくていい分、こちらとしてはちょっと楽になった気がしましたが、個室というのは病状が悪い人が入る場所、つまり死に近付いたという事です。

でも父も狭い4人部屋より精神的には楽でしょうし、この後酸素マスクは取れて、暫くは悪いながらも安定した状態が続きました。


でももう、次の化学療法は出来ない。

治す方法はもうなく、死を待つしかない。

それはきっと父もわかっていたんでしょうが、いつも次の化学療法はいつになるかと聞いてくるので、母は大分辛かったようです。


「もう少し良くなったらね」

と、毎回同じ繰り返しの会話。

父が納得していたかはわかりません。

咳のしすぎでしょうか、声が掠れて力も出せなく、殆ど何を喋っているかわからなくなってきていたからです。


父はあまり言葉を発しなくなりました。

自分でも声が思うように出ていないのが、わかるからでしょう。


私も病室に行ったからといって何を話したらいいのかわからないし、下手な慰めとか、辛いのが「わかるよ」なんてとても言えないし、会話には何となくいつも困っていました。


今にして思えば、もっと色々話したかったけれど、多分私の話す話題なんて父にとってはどれもどうでもいい事で、もう興味ある事とか楽しい話題など1つもないから、聞くだけでしんどいかな、と考えてしまいます。

せめて銀河の事だけでもと思いましたが、それも段々興味がなくなってきているようでした。





父の興味はただ「生きる」事、「治る」事だけだと思います。


他の話題は例え母の話でも、聞いていても仕方ないような感覚しか感じられませんでした。



痛み止めであるモルヒネを使っていたのだから、仕方ない事かもしれません。



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