暖かい風が頬を撫でた。気持ちが良くて、思わずもっと居たい、なんて思ってしまう。それでもぼんやりと覚醒してきた目を開けると、ふと向こうの桜の木に、誰かが居るのが目に止まった。他にも人は居たのに、その子供だけが目の奥に焼きつく。けれどどこか、それを見ていないかのような、不透明感を覚える世界。・・ああこれは、夢、だ。
向こうの木には、色素の薄い茶髪の子供が本を読んでいて。丁度この手にしているものと、一緒(松陽先生の、剣術指南書)。あれは、私だ。そうしていれば、不釣合いに大きな刀を抱えた子が、私の肩に手を置いた。『蘭、』『・・あ、えと、・・銀時くん?』目を丸くして、びっくりしたように顔を上げる私。髪が、風に攫われていく『・・先生と、ヅラが呼んでっぞ』『・・やだ、銀時くん。ヅラなんていわないで、わたしもヅラになっちゃうよ。桂蘭、だもん』そう言って私が笑えば、『・・蘭はヅラじゃない』なんて、ちょっとだけ顔を歪めて、銀はそう言った。なんで、そんなの。そう思って思わず笑みがこぼれる。私は本を抱えなおしてから立ち上がって、着物の砂を掃った。そうして私は銀の手を掴んで、いこっか、と笑った。その目の前には、
「『先生!』」
先生だ、必死に手を伸ばしても、走っても、前に進まない。先生。先生。先、生。やだ、おいていかないで、いや、・・ひとりにしないで。
「やだ・・・兄さん、銀・・先生、・・・いかないで・・・・」
ひとりにしないで。叫んでも振り返らない。振り返ってもそれは銀でも先生でもない。これは夢で、私の夢で、私の記憶だから、だから、だから―・・でも。
「・・い・・・おい・・おい、コラ。桂、」
ふるふると体が揺れた。軽い衣擦れの音と頬を撫でる少し冷たい風にああ現実なのだと思い知らされる。でも、その声には聞き覚えがなかった。それどころか、どこか、寒気さえ、覚えるような。
「・・・桂!」
「・・だ、れ・・・・、・・っ?!」
夢心地で浮いていたような気持ちが地に叩き付けられたように冷えた。顔から血の気が引いていくのが、手に取るようにわかる。肩は悲鳴を上げるように震えて、喉の奥から恐怖が吐き出されるように嗚咽が漏れた。息が、息が吸えない。苦しい、こわ、い。何の意味があるかもわからずに、庇うように耳をふさぐ。
「や、いや、いやだ、いや、誰、誰か、誰か・・っ!!」
「おい待て、俺は何もするつもりはな、」
手が伸びてきて咄嗟に目を閉じると、おい、と、別の声が聞こえた。恐る恐る目を開くと、不機嫌そうに顔を歪めた誰かが立っていた。銀、だった。もう一度、睨むように目の前の人を見据えて銀は低く呟いた。おい、聞いてんのかよ。
「・・多串くん、蘭から離れてくんね。蘭を殺す気なわけ」
「・・・、んなわけ、」
「相手の顔色見てから言え・・。・・・蘭、大丈夫か?」
暖かい手が伸びてきて掴もうと思っても、手は凍り付いてしまったかのように動かない。軋む腕に涙が伝った。安堵と恐怖の余韻と、色々混じったごちゃごちゃとした感情が流れ出る。
「・・あ、・・・ぎ、銀、銀時、」
「もう大丈夫だかんな、蘭。それと、もうあんま一人でどっか行くなよ」
そう言って抱きしめてくれた銀は暖かかった。固まっていた体からふと力が抜けた。「うん、」半ば泣き叫ぶように言った。「うんっ・・」確認するように呟いた。
もうすぐ日が暮れる。巡回から帰ろうとして、すっかり人の居なくなった桜並木に人影を見つけた。放っておいて被害に逢われても困る、声を掛けようとして、思わず一瞬躊躇った。
・・桂蘭、池田屋事件でもっとも高い容疑を掛けられていた女だった。強気に自分の意見を通そうとし、白を切るつもりかと刀を抜けば、狂ったように泣き叫んで怯え―・・、あの畏怖の仕方は尋常ではなかった。全く掴めない女だ。・・それでも、気になった。
近付いてもこちらを向いたり目を見開いたりしないあたり、寝ているらしい。俺を目の前にしてここまで穏やかな表情をしていれば、一目瞭然だが。中途半端に開かれた本にはびっしりと文字が並んでいる。
ふと、そいつの表情が和らいだ。笑っている、・・はじめて見ただろうか、こいつの笑みというものを。
「せん、せ・・」
その表情が、突如歪む。苦しげに寄せられた眉、どうしたのだろうか。先程の笑みが嘘のように(それこそあの時のように)。
「や・・・兄、さ・・・銀・・せん、せ、・・・いで・・・・ひとりに、しないで・・・」
小さくはあったが、その声は起きているかのようにはっきりとした響きを持っていた。あまりに苦しげに呻くものだから、思わず手を伸ばす。「おい、」返事は無い。
「おい・・おい、コラ。桂、」
蘭、とは呼べなかった。あの時から絶対的な境界線が此処にはある。この女にも、そして俺にも。一度交わった線が二度と交わらずに離れていくように、二度と触れ合うことはないのだと。
「・・・桂!」
このままでは風邪を引く。それに、不貞な輩に話しかけられては責められるのも責任をとるのもこっちだ。それだけは遠慮したい。そう思いながら軽く揺すると、もう一度眉間に皺が寄ってから、薄く目が開いた。
「・・だ、れ・・・・、・・っ?!」
焦点が合ったとたん、目が見開かれる。まただ。キリ、と胸が痛んだ。どうしてだ。わかっていた、俺に非があるのは。庇うようにしてその手が頭を覆う。畏怖の色に染まった目は間違いようもなく、こっちを見ていて。
「や、いや、いやだ、いや、誰、誰か、誰か・・っ!!」
―・・そこまで思い出して、消し去るように煙を吐いた。後から来たあいつの目の鈍(にび)が頭から離れない。昔から嫌われるのも恐れられるのも慣れていた。けれどどうして、あいつの畏怖の目だけは恐ろしいのか。
「・・・・桂、か」
絶望の走った背中を嘲笑うように目を押さえて笑った。
「蘭が落ち着いたら帰ろーぜ」
「・・うん・・・」
まだ震える肩を抱きながら、胸に抱いた本を更に抱き寄せる。怖がってしまうのを銀はわかってくれて、木の反対側にまわってくれた。昔の銀じゃない、今の銀が、ここに居てくれる。寂しくなんか、ない。
兄さんだってこの江戸に居るし、銀だって傍に居てくれる。高杉だって生きているし、辰馬だってたまに会いに来てくれる。でも、でも、居ない。居ない、んだ。ひとつだけ、ピースが欠けてしまっている(「蘭」)。
「先生・・」
本を抱きしめた。二度と会わずに済めばいい、あの人にも。
―――
(終わらないフーガ)
ひとつ、はじまれども。ひとつ、はじまれず。
ひとつ、おわれども。ひとつ、かなでつづけ。
本編のアレが無ければ蘭と土方って
相性悪くないと思うんだけどな・・(何
向こうの木には、色素の薄い茶髪の子供が本を読んでいて。丁度この手にしているものと、一緒(松陽先生の、剣術指南書)。あれは、私だ。そうしていれば、不釣合いに大きな刀を抱えた子が、私の肩に手を置いた。『蘭、』『・・あ、えと、・・銀時くん?』目を丸くして、びっくりしたように顔を上げる私。髪が、風に攫われていく『・・先生と、ヅラが呼んでっぞ』『・・やだ、銀時くん。ヅラなんていわないで、わたしもヅラになっちゃうよ。桂蘭、だもん』そう言って私が笑えば、『・・蘭はヅラじゃない』なんて、ちょっとだけ顔を歪めて、銀はそう言った。なんで、そんなの。そう思って思わず笑みがこぼれる。私は本を抱えなおしてから立ち上がって、着物の砂を掃った。そうして私は銀の手を掴んで、いこっか、と笑った。その目の前には、
「『先生!』」
先生だ、必死に手を伸ばしても、走っても、前に進まない。先生。先生。先、生。やだ、おいていかないで、いや、・・ひとりにしないで。
「やだ・・・兄さん、銀・・先生、・・・いかないで・・・・」
ひとりにしないで。叫んでも振り返らない。振り返ってもそれは銀でも先生でもない。これは夢で、私の夢で、私の記憶だから、だから、だから―・・でも。
「・・い・・・おい・・おい、コラ。桂、」
ふるふると体が揺れた。軽い衣擦れの音と頬を撫でる少し冷たい風にああ現実なのだと思い知らされる。でも、その声には聞き覚えがなかった。それどころか、どこか、寒気さえ、覚えるような。
「・・・桂!」
「・・だ、れ・・・・、・・っ?!」
夢心地で浮いていたような気持ちが地に叩き付けられたように冷えた。顔から血の気が引いていくのが、手に取るようにわかる。肩は悲鳴を上げるように震えて、喉の奥から恐怖が吐き出されるように嗚咽が漏れた。息が、息が吸えない。苦しい、こわ、い。何の意味があるかもわからずに、庇うように耳をふさぐ。
「や、いや、いやだ、いや、誰、誰か、誰か・・っ!!」
「おい待て、俺は何もするつもりはな、」
手が伸びてきて咄嗟に目を閉じると、おい、と、別の声が聞こえた。恐る恐る目を開くと、不機嫌そうに顔を歪めた誰かが立っていた。銀、だった。もう一度、睨むように目の前の人を見据えて銀は低く呟いた。おい、聞いてんのかよ。
「・・多串くん、蘭から離れてくんね。蘭を殺す気なわけ」
「・・・、んなわけ、」
「相手の顔色見てから言え・・。・・・蘭、大丈夫か?」
暖かい手が伸びてきて掴もうと思っても、手は凍り付いてしまったかのように動かない。軋む腕に涙が伝った。安堵と恐怖の余韻と、色々混じったごちゃごちゃとした感情が流れ出る。
「・・あ、・・・ぎ、銀、銀時、」
「もう大丈夫だかんな、蘭。それと、もうあんま一人でどっか行くなよ」
そう言って抱きしめてくれた銀は暖かかった。固まっていた体からふと力が抜けた。「うん、」半ば泣き叫ぶように言った。「うんっ・・」確認するように呟いた。
もうすぐ日が暮れる。巡回から帰ろうとして、すっかり人の居なくなった桜並木に人影を見つけた。放っておいて被害に逢われても困る、声を掛けようとして、思わず一瞬躊躇った。
・・桂蘭、池田屋事件でもっとも高い容疑を掛けられていた女だった。強気に自分の意見を通そうとし、白を切るつもりかと刀を抜けば、狂ったように泣き叫んで怯え―・・、あの畏怖の仕方は尋常ではなかった。全く掴めない女だ。・・それでも、気になった。
近付いてもこちらを向いたり目を見開いたりしないあたり、寝ているらしい。俺を目の前にしてここまで穏やかな表情をしていれば、一目瞭然だが。中途半端に開かれた本にはびっしりと文字が並んでいる。
ふと、そいつの表情が和らいだ。笑っている、・・はじめて見ただろうか、こいつの笑みというものを。
「せん、せ・・」
その表情が、突如歪む。苦しげに寄せられた眉、どうしたのだろうか。先程の笑みが嘘のように(それこそあの時のように)。
「や・・・兄、さ・・・銀・・せん、せ、・・・いで・・・・ひとりに、しないで・・・」
小さくはあったが、その声は起きているかのようにはっきりとした響きを持っていた。あまりに苦しげに呻くものだから、思わず手を伸ばす。「おい、」返事は無い。
「おい・・おい、コラ。桂、」
蘭、とは呼べなかった。あの時から絶対的な境界線が此処にはある。この女にも、そして俺にも。一度交わった線が二度と交わらずに離れていくように、二度と触れ合うことはないのだと。
「・・・桂!」
このままでは風邪を引く。それに、不貞な輩に話しかけられては責められるのも責任をとるのもこっちだ。それだけは遠慮したい。そう思いながら軽く揺すると、もう一度眉間に皺が寄ってから、薄く目が開いた。
「・・だ、れ・・・・、・・っ?!」
焦点が合ったとたん、目が見開かれる。まただ。キリ、と胸が痛んだ。どうしてだ。わかっていた、俺に非があるのは。庇うようにしてその手が頭を覆う。畏怖の色に染まった目は間違いようもなく、こっちを見ていて。
「や、いや、いやだ、いや、誰、誰か、誰か・・っ!!」
―・・そこまで思い出して、消し去るように煙を吐いた。後から来たあいつの目の鈍(にび)が頭から離れない。昔から嫌われるのも恐れられるのも慣れていた。けれどどうして、あいつの畏怖の目だけは恐ろしいのか。
「・・・・桂、か」
絶望の走った背中を嘲笑うように目を押さえて笑った。
「蘭が落ち着いたら帰ろーぜ」
「・・うん・・・」
まだ震える肩を抱きながら、胸に抱いた本を更に抱き寄せる。怖がってしまうのを銀はわかってくれて、木の反対側にまわってくれた。昔の銀じゃない、今の銀が、ここに居てくれる。寂しくなんか、ない。
兄さんだってこの江戸に居るし、銀だって傍に居てくれる。高杉だって生きているし、辰馬だってたまに会いに来てくれる。でも、でも、居ない。居ない、んだ。ひとつだけ、ピースが欠けてしまっている(「蘭」)。
「先生・・」
本を抱きしめた。二度と会わずに済めばいい、あの人にも。
―――
(終わらないフーガ)
ひとつ、はじまれども。ひとつ、はじまれず。
ひとつ、おわれども。ひとつ、かなでつづけ。
本編のアレが無ければ蘭と土方って
相性悪くないと思うんだけどな・・(何