灰にかえて冠を:赦しに至る癒しの道
華冠という言葉が見られます。
灰にかえて冠を与え、
以下、ウィキペディアから、引用します。
クリスティン・M・イー姉妹 中央扶助協会会長会第二顧問
自分の人生の灰を冠に変えるような人生を送ることは,救い主の模範に倣った,信仰の行いです。
サムエル記上には,後のイスラエルの王,ダビデと,アビガイルと言う名の女性との,あまり知られていない話があります。
サムエルの死後,ダビデとその僕たちは,ダビデの命をねらっていたサウル王から逃れました。彼らは,ナバルという名のいじわるな金持ちの男の家畜の群れと僕たちを守りました。ダビデは10人の僕を送り,ナバルにあいさつをさせ,どうしても必要な食糧や物資を要求させました。
ナバルはダビデの要求に侮辱的な態度で応じ,使者たちを手ぶらで返しました。
気分を害したダビデは,「彼はわたしのした親切に悪をもって報いた」と言って,僕たちを連れてナバルと対決しようとしました。ある僕はナバルの妻のアビガイルに,彼女の夫がダビデの僕たちに行った仕打ちについて告げました。アビガイルはすぐさま必要な食糧と物資を集めて,執り成しに向かいました。
アビガイルはダビデに会うと,
「ダビデの前で地にひれ伏し,
その足もとに伏して言った,
『わが君よ,このとがをわたしだけに負わせてください。……
それゆえ今,……主は,あなたがきて血を流し,また手ずから,あだを報いるのをとどめられました。……
今,あなたのつかえめが,わが君に携えてきた贈り物を,わが君に従う若者たちに与えてください。
どうぞ,はしためのとがを許してください。……』
ダビデはアビガイルに言った,『きょう,あなたをつかわして,わたしを迎えさせられたイスラエルの神,主はほむべきかな。
あなたの知恵はほむべきかな。またあなたはほむべきかな。あなたは,きょう,わたしがきて血を流し,手ずからあだを報いることをとどめられたのです。……』
ダビデはアビガイルが携えてきた物をその手から受けて,彼女に言った,『あなたは無事にのぼって,家に帰りなさい。わたしはあなたの声を聞きいれ,あなたの願いを許します。』
こうして,二人とも穏やかに別れました。
この話の中で,アビガイルはイエス・キリストを明確に示すひながた,あるいは象徴と捉えることができます。イエス・キリストは贖いの犠牲を通して,罪と争いの心という重荷からわたしたちを解放し,わたしたちに必要な養いを与えてくださいます。
アビガイルが進んでナバルの罪を自分が受けようとしたように,救い主も理解し難い方法でわたしたちの罪と,わたしたちを傷つけ,わたしたちの気分を害した人々の罪を引き受けてくださいます。ゲツセマネと十字架上において,イエスはこれらの罪を引き受けられました。主は,わたしたちが復讐心を捨てられるよう,道を備えてくださったのです。その「道」とは,赦しの道です。赦しは,わたしたちが行うことの中で最も難しいことの一つであり,また,わたしたちが経験する中で最も神性なものの一つでもあります。赦しの道を歩むと,イエス・キリストの贖罪の力が生活に流れ込み,心と魂の深い亀裂が癒され始めます。
ラッセル・M・ネルソン大管長は,救い主は赦す能力を授けてくださる,と教えています。
「主の無限の贖罪を通して,皆さんを傷つけた人や,残虐な行為の責任を決して取ろうとしない人を赦すことができます。
心からへりくだって赦しを求める人を赦すのは,普通は簡単なことです。しかし,救い主は,何らかの方法で不当な扱いをしてきた人をすべて赦す力を与えてくださいます。そうすれば,有害な行為はもはや皆さんの心をむしばむことはないのです。」
アビガイルがたくさんの食糧と物資を持ってきたことは,救い主が傷ついた人々に,その人が癒され,元気になるために必要な養いと助けを与えてくださることを教えています。わたしたちは,ほかの人の行いの結果に自分一人で対処するよう放っておかれるわけではありません。わたしたちにも,元気を取り戻し,争いの心やそれに続く行いの重荷から救っていただく機会が与えられるのです。
主はこのようにおっしゃっています。「主なるわたしは,わたしが赦そうと思う者を赦す。しかし,あなたがたには,すべての人を赦すことが求められる。」主が人を赦すよう求めておられるのは,わたしたち自身のためにほかなりません。しかし,主の助けや主の愛,主の理解なしに行うようにとは求めておられません。主と交わした聖約を通して,わたしたちはそれぞれ,赦し,赦されるのに必要な,強められる力や導き,助けを受けることができます。
だれかを赦すことは,傷つき続ける立場に身を置くことではないことを理解してください。「だれかを赦そうと努力していても,その人と距離を置くようにという御霊の促しを感じることはあります。」
ダビデが「心の責め」を抱かずに必要な援助を受けられるようアビガイルが助けたのと同じように,救い主も皆さんを助けてくださいます。主は皆さんを愛し,「翼には,いやす力を備えて」皆さんの歩む道で皆さんに会いに来てくださるでしょう。主は皆さんの平安をお望みです。
わたしは,キリストがわたしの争いの心を癒してくださるという奇跡をこの目で見ました。父の許しを得て,わたしが育った家庭について話します。それは,わたしがいつも安心できる場所ではありませんでした。情緒的な,そして言葉の虐待があったためです。青少年の時期も,ヤングアダルトの時期も,わたしは父を嫌い,その傷のために心に怒りを抱いていました。
長年にわたって,赦しに至る道を歩みながら平安と癒しを見いだそうと努力した末,わたしの罪を贖ってくださった神の御子は,自分を深く傷つけた人たちのことも救われる同じ贖い主であられるということに,深淵な方法で気づきました。後者を信じることなしに,前者の真理をほんとうに信じることはできません。
救い主に対する愛が深まるにつれ,傷と怒りを主の癒しの乳香に替えたいという望みも強まりました。それは何年にも及ぶ過程であり,勇気や忍耐,弱さを見せること,そして人を救い,癒すことのできる救い主の神性な力に対する信頼を会得しなければなりませんでした。まだ努力の途中ですが,もう心に敵意はありません。わたしは「新しい心」を頂きました。自分の隣にいてくださり,忍耐強くよりよい場所へと導いてくださり,助けてくださり,わたしの悲しみを知っておられる,自分の救い主の,深くて不変の愛を感じたためです。
アビガイルがダビデの必要なものを持ってきたように,主はわたしに償いの祝福を送ってくださいました。わたしの生活に助言者たちを送ってくださいました。そして,あらゆることの中で最も貴く,人生を変えてくれたのは,天の御父とわたしの関係です。有り難いことに,わたしは御父を通して,わたしを守り,導いてくれる,完全な御父の優しい愛を知りました。
リチャード・G・スコット長老はこう述べています。「過去に起こったことを消し去ることはできません。 でも赦すことはできます。赦しはひどい傷を癒します。主の愛によって心の中の憎しみの毒が消されるからです。復讐の思いをなくしてくれます。主の清めと癒しと愛が取って代わるのです。」
わたしの地上の父も近年,奇跡的な心の変化を経験し,主に心を向けるようになりました。この世で起こるとは思ってもみなかったことです。人を変える,イエス・キリストの完全な力に対する証がまた一つ増えました。
主は,罪人と,罪の被害を受けた人を癒すことがおできになります。主は世の救い主,贖い主であり,わたしたちが再び生きることができるよう命をささげられた御方です。主はこう述べておられます。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために,わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして,囚人が解放され,盲人の目が開かれることを告げ知らせ, 打ちひしがれている者に自由を得させ〔る〕。」
心の傷ついた人や囚人,打ちひしがれている人,そして恐らく傷や罪により盲目になっているすべての人々を,主は癒し,立ち直らせ,解放してくださいます。主が実際に人を癒し,立ち直らせてくださることを証します。その癒しの時期は人それぞれで,わたしたちにはほかの人の時期を判断することはできません。癒しに必要な時間を自分に与え,その過程で自分自身に思いやりを持つことは重要です。救い主は常に情け深く,思いやりがあり,わたしたちが必要としている援助を与える用意を整えておられます。
赦しと癒しの道には,家族やほかの場において,不健全な規範や人間関係を持続させないという選びがあります。わたしたちの影響の及ぶ範囲内のすべての人に対して,残忍さには思いやりを,憎しみには愛を,無礼さには穏やかさを,心痛には安心を,争いには平和を与えることができます。
自分が与えてもらえなかったものを与えることは,イエス・キリストを信じる信仰を通して実現できる,神性な癒しの力強い部分です。イザヤが述べたように,自分の人生の灰を冠に変えるような人生を送ることは,すべての人を救うためにあらゆる苦しみを受けられた救い主の至高の模範に倣った,信仰の行いです。
エジプトのヨセフは灰の伴う人生を送りました。兄弟に憎まれ,裏切られ,奴隷として売られ,不当に投獄され,助けると約束してくれた人に忘れられました。それでも,ヨセフは主を信頼しました。「主がヨセフと共におられ」,ヨセフの試練を聖別して,彼自身の祝福と成長とし,彼の家族と全エジプトを救われました。
ヨセフがエジプトの偉大な指導者として兄弟と会ったときに語った優しい言葉に,赦しと,精錬された視点が表れていました。
「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。神は命を救うために,あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。…… それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく,神です。」
救い主を通して,ヨセフの人生は「灰にかえて冠」になったのです。
BYUの学長のケビン・J・ワーセンは,神は「わたしたちの成功からだけでなく,わたしたちの失敗や,わたしたちに痛みを与えるほかの人々の失敗からも,良いものを生じさせることがおできになる。神はそれほどに善なる御方であり,力強い」と述べています。
愛と赦しの最も偉大な模範は救い主イエス・キリストの模範であることを証します。イエス・キリストは,激しい苦しみの中で,こう言われました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」
わたしは天の御父が,神の子供一人一人に対し,幸福と希望があるよう願っておられることを知っています。エレミヤ書には,こうあります。「主は言われる,わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは……平安を与えようとするものであ〔る〕。」
イエス・キリストは皆さん個人のメシヤであり,皆さんの愛に満ちた贖い主,救い主であり,皆さんの心の望みを御存じです。主は皆さんの癒しと幸福を願っておられ,皆さんを愛しておられます。皆さんが悲しいときにはともに悲しみ,皆さんを元気にすることを喜びとされます。赦しに至る癒しの道を歩むときに,元気を出して,常に伸べられている,主の愛に満ちた手を取ることができるよう,イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。
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このお話は2022年10月の末日聖徒イエス・キリスト教会総大会から、ご紹介しました。
赤字青字は付加しています。
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救い主を通して,ヨセフの人生は「灰にかえて冠」になったのです。
Through the Savior, Joseph’s life became “beauty for ashes.”
beautyを、冠と訳されています。
少し無理があります。
中国語聖書で、調べてみました。
華冠という言葉が見られます。
英語の聖書は、
beauty for ahes となります。
beauty for ahes となります。
日本語の聖書は、
灰にかえて冠を与え、
となります。
日本語訳は、中国語聖書の影響が見られます。
以下、ウィキペディアから、引用します。
「 清朝崩壊後のカトリックの聖書翻訳は、当時まだ若かったフランシスコ会の修道士ガブリエル・アレグラによって1935年に開始された。彼はヘブライ語およびアラム語による原語から旧約聖書の翻訳を開始し、それから10年経過した頃、北京において Frs Solanus Lee OFM, Antonius Lee OFM, Frs Bernardinus Lee OFM and Ludovicus Liu OFMの募集を行った。その後、中国は国共内戦が勃発。このため1948年、修道士は香港のStudium Biblicumを動かすこととなる。こうして20年の努力を経て1954年にようやく初の旧約聖書が出版された。また、1968年には旧約と新約を1冊にまとめた聖書が出版された。」
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中国語聖書はヘブライ語およびアラム語による原語から旧約聖書の翻訳を開始されています。
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中国語聖書はヘブライ語およびアラム語による原語から旧約聖書の翻訳を開始されています。
これが、日本語訳にも影響が出ています。
冠という言葉は、ヘブライ語やアラム語の香りを伝えています。