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恥と罪、ベネディクトと親鸞から紐解きたいが、、

2023年04月08日 | 宗教、哲学


アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトの著書「菊と刀」。彼女はこの本の中で、日本人の文化は恥を基調とする文化、欧米人の文化は罪を基調とする文化だと紹介している。

日本人は世間体や外聞といった、他人の視線を気にする恥の思想が根本に横たわる。日本は多神教であり神や仏との1対1の契約ではない。神々との契約だから人々の評価や世間の目も契約の対象となり、それらが自分の行動を決めるものとなる。他人の目を気にするあまり、人に迷惑をかけないということも行動規範に加えられ、迷惑をかけるくらいなら、何もしないほうが良いといった考えにも至ってしまう。自分の悪行がばれなければ悪いとは感じないが、誰かに自分の悪行が知られた場合、死さへも厭わないほどの恥ずかしさを感じてしまうのも特徴の一つだ。常に意識が外に向けられているので相手が嫌がることはせず、むしろ周りが喜ぶことを率先してやるようになる。これは集団生活を行うにあたりとても都合がいいものだし、常に周りを意識しているので、多くを言わなくてもわかるとか、察しってくれるとかいった集団への安心感もその特徴かもしれない。

片やキリスト教が主たる宗教である欧米は、内面の良心を重視する罪の文化が成熟している。キリスト教では神の戒律を守れば心は昇華され、それに反したときに罪の意識を強く持つようになる。常に神が見守ってくれるため、神に見られているという規範の中で行動する。だから人が見ていようが見ていまいが、神との契約が全てなので、規律を持って行動することとなる。そんな考えだから、自分が迷惑をかける分、相手の迷惑も許容するといった、お互い様の考えが成立する。

ところでメモ帳に「恥の文化は武士道により洗練された」「罪の文化は賎視された民の悲哀」と書いてあった。かなり前にメモをしたものなので、どのような経緯で書いたか覚えていないのだが、どうも「人生の目的」(五木寛之著)から拾ったらしい。

しかるに、欧米で言うところの罪と、日本でいうところの蔑視された民の悲哀といった、親鸞から紐解かれる罪や悪。どうも同じ文脈では語られてない気がする。だからべネディクトの語る話がチグハグに見えてしまうのか。「罪」への眼差しが違うということを念頭に考えてみたら、少しは理解が深まりそうな気がする。罪や悪についてもう少し掘り下げて調べてみるのも悪くないかもしれない。


 
 


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