
生きづらいこの世をどう生ききるか。母が死に、湧き出る思いに耽る毎日の中で出会った浄土真宗。毎日のように築地本願寺のお晨朝に出向き、そこでのご講和はかなり沁みた。私には他力というピースがうまくはまったみたいだ。この他力という言葉だが、今は人頼みといったネガティブワードに分類されるかもしれない。しかし私が学んだ限りにおいて、他力はあくまでも阿弥陀様からいただくもの、他人を当てにするものではない。すべては「わがはからいにあらず」 。阿弥陀様との関係だけに他力は成立する。
とは言え、それなら自分の力で何もしなくていいのか、と考える人もいるかもしれない。しかし他力の良いところは、ちゃんと阿弥陀様のせいにできるところだ。この苦しみも悲しみも、全てを救うと言う阿弥陀様のせいにできる、煩悩まみれの私にとって、とてもありがたい言葉なのだ。そしてこの考えは、ひいては自分中心の考えから遠く離れ、生きやすさにつながる予感がする。阿弥陀様の私への期待、いや期待もしてない、ただ何をしようが何をしまいが、ただただ救うことだけを考えてくださっている阿弥陀様に任せておけばいいだけなのだから。
うまくいかなくても阿弥陀様の計らい、仕方がないと思えばしょげずにすむ。周りのせいにできる安心感。他力の風が吹かなかっただけと思えば生きていける。
逆にうまくいっても高慢になんてなれやしない。阿弥陀様の、また色々な人のおかげと思わざるを得ないからだ。全ては阿弥陀様の掌での出来事だ。その掌の中で守られて生きている私だ、うぬぼれることなんてできやしない。
全ては阿弥陀様のお計らい、失敗しても挫折はない、成功しても自慢なんてできやしない。あっ、これを書きながら思い出した。「人生が私に期待していることは何なのか。人がどんなに人生に絶望しても、人生は決して人に絶望しない。」フランクルの言葉と阿弥陀様の存在がちょっとだけ重なってみえた。

「~すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。~」
「人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問に、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことにほかならないのである。」
夜と霧 フランクル著作集1 霜山徳爾訳
私は「お陰様」という言葉に深みを感じています。
松原泰道先生の「ありがとうの一言が周りを明るくする。 お陰様の一言が自分を明るくする。 ありがとう、お陰様。これが仏教の心です。」ですね(^。^)