犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

聡太の青春

2017-07-02 23:55:12 | 日記

藤井聡太四段の公式戦連勝が29で止まりました。
とはいえ、これからどこまで強くなるのか、どんな強敵と対局して名勝負を見せてくれるのか、そして、それらがこの謙虚な少年の人格をどれほど成長させるのだろうか、私たちは久しぶりに明るい夢を見ることができます。
連勝記録とともに私たちは、未来へ向かって限りない夢を追うことができましたが、当の本人からは浮ついた印象を受けることはありません。たとえば29連勝を達成したあとのインタビューで、印象に残る対局はと聞かれ次のように答えています。

初戦の加藤先生に教えていただいた一局が印象深いです。加藤先生の迫力のある闘志というのも将棋盤の前で体感できたのは貴重な経験だったと思っています。

加藤一二三も藤井四段に破られるまで、史上最年少でプロ棋士となり神武以来の天才と騒がれた存在でした。引退を目前にした大先輩に対する敬意もあるのでしょうが、藤井四段の言葉には、あたかも「始まり」と「終わり」が繋がっているように思えます。
プロ棋士としてのキャリアの始まりと終わり、連勝の始まりと必ずくる終わり。
将棋の世界には全てを見通している神様がいて、敗者はその神様の意志を読み取れなかったと感じるが故に、棋士は勝っても敗れても端然としているのだ、とコメントした人がいました。なるほど、藤井四段の謙虚さはより偉大なものに対する畏れからくるのかもしれません。

最近映画化された『聖の青春』(角川文庫)を読んで、次のようにも考えました。
有り余る才能を持ちながら、29歳の若さで名人位を手にすることなく他界する村山聖(さとし)の人生を、私たちは残念な早逝という観点からとらえようとします。しかし、聖は彼なりの仕方で29年の人生を立派に完結させています。
村山聖も「将棋は神の世界だ」と書いていますが、その神とは全てを見通し調和を保ちながら統一する存在ではなく、白か黒か、生きるか死ぬかの判定を下す、ひたすら厳しい存在です。難病の子たちを集めた寄宿舎で暮らし、日常的に死に直面していた聖にとって、絶対的な存在とはこのようなものだったのでしょう。聖がA級に昇格した直後の「棋士年鑑」のなかで「神様が一つだけ願いをかなえてくれるとしたら何を望みますか」というインタビューに対し、聖は「神様除去」と、たった一言答えています。

年齢制限でプロになれなかった奨励会員の先輩に対して酒を飲んでは感情を爆発させ喧嘩する、同年代や後輩たちと人生や将棋を巡って議論しては痛飲する。ネフローゼを患う聖にとってまるで寿命を縮めるような「青春」でした。
聖は病に支配されることも、将棋の神さえからも支配されることを拒んで、みずから輝こうとする29年を全うしたのだと思います。

藤井聡太四段に輝かしい未来あれ、と思います。願わくば大人の意向にとらわれず、あわてて老成することなく、「聡太の青春」が多難であれ、と祈ります。多難であればあるほど、実りは大きい。

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