犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

方便としての志

2016-11-27 00:56:10 | 日記

玄侑宗久さんは『禅的生活』(ちくま新書)のなかで、「志」とは「方便」なのだと述べています。
本来、禅語で言うところの「方便」とは、一般に語られるような意味ではなく、深遠な方法的アプローチのようなものを指すのだそうです。しかしここでは、方便という言葉で日常使われるニュアンス(とりあえずの理由づけのようなもの)を念頭においた方が、玄侑さんの言わんとすることは、むしろ分かりやすいかもしれません。
玄侑さんは人間の可能性の尽きることのないことを、無限の抽斗(ひきだし)のあるタンスに例えます。

現実に暮らすには抽斗をいくつかあければ足りる。だからチャレンジ精神をもって背伸びして高い抽斗もあけ、遠くの抽斗もたまにはあけてみる。それが修行としての日常である。
どうしても習慣によってあける抽斗が決まってくる。愚痴ばかり言っていればその抽斗ばかり緩み、前を人が通っただけで愚痴の抽斗が出てくるし、なにかにつけて怒ってばかりいると怒りの抽斗が緩んでくる。(前掲書 178頁)

無限の可能性をもってはいるけれども、実際に現れる自己は「習慣」によってほとんどが決まってしまう。そのことを自覚していれば、修行としての日常は、習慣によってとらわれることなく、無限に拡張してゆくような自己を目指さなければならないはずです。今の自分の勝手に作り上げられた輪郭を破れ、というのが「百尺竿頭に一歩を進む(前人未踏の最先端に立っていてもなおその先を目指す)」の導き示すところです。言いかえれば、無限に外に向かって開いて行こうという方向性です。

そうはいっても、常に自分の輪郭を破り続けていては、社会的存在としての人間は生きてはいけません。無限に外に向かって行く自分にまとまりをつける方向性が不可欠です。そこで冒頭の言葉にたどり着きます。
ある程度の輪郭、一貫性を保つために、方便として用いられるのが「志」なのだと。
誰もが無限の抽斗を持ってはいるものの、どの抽斗が開きやすいか習慣によって決まってしまうのもまた動かしがたい事実です。そうであれば、「だいたいこのあたりの抽斗でいこうか」と決めてしまう意志が「志」です。ちょうど「天命」や「天職」という言葉で自分のなりわいを思い定めれば、急速に人生がまとまり始めるように、志によってさしあたりの輪郭を獲得するのです。
無限に拡張する自己と、まとまろうとする自己の、この振り幅の大きさを活かして運動を可能にするのは、「方便」としての志なのだという、一歩引いた視座がここで必要になります。融通のきかない頑迷な志に縛られると、自分の輪郭を破ることができなくなってしまう、そう考えれば「方便」の積極的な意味合いが明らかになると思います。

志を立てそれを天命とまで感じる一方で、それを「方便」ととらえる自分がいる。これを玄侑さんは「風流」を味わうことであると言います。「鹿威し」のあとに静寂を感じるのも、拡張する自己と収斂する自己の振り幅を堪能するのも、その「ゆらぎ」を心地よいと感じる風流の趣である、こう玄侑さんは述べています。

志から一歩引いた視座を持ちながら、志に忠実な生き方をすること、これは理屈で考えるよりはるかに難しいことだと思います。難しい生き方を選択し、悪戦苦闘している最中には「風流」という境地には到底たどり着けないのかもしれない。われわれにできることは、そのような融通無碍な生き方をはたから見て「風流」だと感じることなのかもしれません。

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