横浜市緑区の踏切内で、お年寄りを助けようとして、尊い命を犠牲にされた村田奈津恵さん。
そのご両親の毅然とした姿に感銘を受けた人は数知れないと思います。
「お年寄りの命が救われたのがせめてもの救いです。あの娘の分もどうぞ長生きしてください。」ご両親は無念な思いをかみしめながら、そう語っておられました。
このお父様やお母様がいて、奈津恵さんという人格は形成されたのだ、せめてそう考えることで胸の締め付けられる思いを紛らわせることしかできません。そういうやり切れない事故でした。
そして、2006年にペンシルベニア州で起きた、こんな事件も思い出しました。
近代文明が席巻する以前の、質素な生活を頑なに続けるアーミッシュの集落の小学校に、青年が銃を持って立て篭もり、幼い少女たちだけを監禁して、次々に射殺して行った事件です。年長の少女たちは幼い子の盾になるようにして、進んで銃の前に立ったそうです。
青年は警察が突入する直前に拳銃で自らの命を断ちましたが、犠牲者の親たちは少女たちの葬儀の席で青年を赦したのみならず、青年の妻子や親を訪ねて、彼らとともに青年の死を悼んだのだそうです。
この少女の親たちがいて、少女たちはより弱い者の盾になる勇気を奮い起こすことができたのだ、と考えてはみます。それでも救いのない、やり切れない事件でした。
しかし、ひたすら耐えることしかできないご両親の姿は、やり切れなさと同時に、ある種の覚悟のありようを私たちに突きつけてくれます。犠牲になった者たちの無念の思いに固執するのではなく、彼らの志を引き受けようとする者の静かな覚悟です。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、ボートから落ちた友達を助けようとして自らの命を犠牲にしたカムパネルラの捜索の場面で終わります。
カムパネルラのお父さん(博士)の佇まいが、ただの「気の毒な話」に終わらせない衝迫力をもって、我々の胸に余韻とそして覚悟とをもたらしてくれます。
俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云いました。「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」
ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう。」とていねいに云いました。
ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。
(『銀河鉄道の夜』より)
ジョバンニは、すでに死んでいたカムパネルラと、長い長い旅を続けて、生きることと犠牲になることとを学んできました。その学びを温かく包んで見てくれていたのは、カムパネルラのお父さんだったのかもしれないと思うのです。息子の死に直面しても「どうも今晩はありがとう」と声をかけてくれる、その優しさだったのかもしれない、と。
元空手の指導員仲間のお嬢さんが
山登りの際落ちそうになった友達をとっさに助けようとして本人が滑落し命を落とされました。
(その時お友達が助かったのかどうかは記憶が定かではありません)
葬式ではなく死後相当経ったあと友人の家に
いったのですが,何と言ったらいいのか言葉が見つからず肩に手を当て一緒に泣くことしかできませんでした。
お嬢さんと直接面識はありませんが、昔に
子供が希望する専門学校?は日本でそこしかなく
そこに入学できたということだけ聞いていました。
友人が言ったことの中で何となく記憶に残っていることは「長女?がいたことをいつまでも忘れないでいてほしい」というようなことだったと思います。
自分は2年前に父を亡くしましたが
高齢であったにもかかわらずかなり落ち込んでしまいました。
友人のやりきれなさはそれ以上相当なものだったと思います。
自分には耐えられそうもありません。
彼はその後も、空手の指導員,擁護学校の教諭
を続けているようです?