『掬水月在手』
今日のお茶会の、薄茶席に掲げられていたことばです。
もともとの出典である唐の詩人、于良史(うりょうし)の「春山夜月」と題された五言律句は、次のように続きます。
掬水月在手 弄花香満衣
(水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ)
この二句を含む「春山夜月」の大意と、その尽きることのない魅力を、以前紹介しました。ここに改めて再録させていただきます。
春の山は素晴しいことが多く、それらを愛でていると日が暮れても家に帰ることを忘れてしまう。
川の水を手ですくえば月が手中に在り、花にふれれば香りが衣に満ちあふれる。
興が乗れば遠く近くにかかわらず、芳しい花の香を惜しんで何処までも行きたいと思う。
鐘の音が聞こえる南方を望めば、楼台は山の中腹に隠れている。
この世の中は豊かさで満ちている。私たちはその限りない豊かさに驚きとともに包まれているのだ。そう思ってこの詩の世界に遊んでいると、誰に対するともしれない感謝の気持ちが湧き上がってくるようです。
禅語では、水を掬った掌の中にも、花の香りが移った衣にも、春の美しさが宿るように、ひとしく仏性は宿るのだと説かれるのが通例です。だからその時々の「気付き」が大切なのだと。しかし、そのように解してしまっては、溢れるばかりの贅沢さが減じてしまうようにも思います。
掌中の月は水を掬った瞬間に驚きとともに現れ、花の香りは戸惑うほどに衣に漂い続けるのです。そこに象徴されるようなものは何もない、そうとらえた方が、月の影や花の香りに対する畏れや、愛おしさや、そしてこの瞬間のかけがえのなさも、抜け落ちることはないのだと思います。
ここまでが、過去のブログの再録です。
さて、本日のお茶会の話に戻ります。
薄茶席に先立つ濃茶席では、淡々斎宗匠の見事な墨跡で『吟風』の二文字が掲げられていました。
「吟風」の語には「弄月」が続いて、四字熟語「吟風弄月(ぎんぷう・ろうげつ)」をかたち作ります。
そして、この「吟風弄月(風に吟じ、月を弄ぶ)」は、先ほどご紹介した薄茶席の書、「掬水月在手 弄花香満衣」を直ちに想起させます。
濃茶席では「吟風」の二文字の後に隠されていた「弄月」の文字が、濃茶席に続く薄茶席の「掬水月在手」の書に現れたような心持ちです。それは谷川の水を掬った手に、思わず月の影が映し出されたような驚きをもたらしてくれました。
ご亭主の心憎い演出に感じ入る、お茶会でした。