来年春の茶会で、支部長や幹事などメインゲストをお迎えする席でのお点前をするよう、師匠に言われました。大変名誉なことであり、気を引き締めて練習を積まなければならないと思います。
と同時に「もてなし」について考えることがあるので、ここに書き留めます。
内田樹の近著『街場の成熟論』(文藝春秋)のなかに、茶道について考えを求められたものの、その道に疎いので「もてなし」について知見を述べるという一節がありました。
少し長くなりますが引用します。
古代ギリシャの医聖ヒポクラテスは医療人たちが職業的に自立する時、彼らに「相手が自由人であっても、奴隷であっても、診療内容を変えない」ことを誓わせた。医療行為は商品でもサービスでもない。それはそれを求める人がいる限り、相手が富者であろうと貧者であろうと権力者であろうと庶民であろうと対応を変えることなく提供されなければならない。
ヒポクラテスがそのような誓言を求めたのは、もちろん彼の時代にも「相手が金持ちなら診るが、貧乏人なら診ない」という医師がいたからであろう。だが、その時に「世の中、そういうものだ」とそれを認めたら、以後の医学の進歩はなかっただろう。ヒポクラテスはそのことを洞察していたのだと思う。(279頁)
あらゆる人に等しくもてなしを施すべし、という一見実現困難な目標であっても、終わりなき努力の向かうべき「誓い」がなければ、人間の進歩はなくなるだろうし、「もてなし」は永遠に実現しないだろうというのです。卓見だと思います。
今日の茶会のチケットは高いので、気合を入れてお点前に取り組むとか、今日の茶会はチケット代に見合わなかったとか言う話は、聞いたことがないので、茶道における「もてなし」には毒は回っていないようにも見えます。
しかし、現在の茶道の世界が、家元を頂点とするヒエラルキーを前提としており、そのヒエラルキーの上位を目指して稽古を積むことを、活動の大きな原動力としていることも否めない事実だと思います。だとすると、冒頭に述べた「メインゲスト」をお迎えする立場として、頑張らなければという、その努力の向かう方向は「もてなし」から遠いところにあるはずです。
そのうえでこうも思います。これ見よがしの、きれいな点前を目指すと「もてなし」の心は消えてしまいます。練達の人は容易に「おもねる」ことと「もてなし」の違いを見抜いてしまうので、「もてなし」について厳しいテストを科されるのに等しいのです。
本番までの半年間、この厳しいテストに挑むつもりで練習に励んでいこうと思います。