ムラサキシキブの実が色づいています。
二年前に購入した苗がすくすくと育ち、昨年は四方に枝葉を繁らせただけでしたが、今年になって初めて花が咲き実をつけました。
葉の脇に小さな丸い実が小房状に成っています。夏のあいだ薄緑色だった実が、秋になると紫色に変化し、その紫色が日々深くなっていきます。
もともと「紫敷き実(むらさきしきみ)」と呼ばれていたものが、いつのまにか紫式部と呼び慣わされたという説や、実の美しさが紫式部に例えたられたとする説もあります。
むらさきの清(さや)かなる実の雨にぬれムラサキシキブも山ゆく人も
(鳥海昭子)
今では野生のものは少なくなったのだそうですが、この歌では山野に自生するムラサキシキブが詠われています。
雨のなか足を滑らせないように気を付けながら先を急ぐと、色鮮やかな実の群生が目に飛び込んできます。ムラサキシキブの前に足を止めて息を吐くと、ツヤツヤとした紫の実のようにみずからも新たな息吹を得たような気がする、歌人はそう詠います。
それにしても、この紫の深さはどうしたことでしょう。山道ならぬ雨上がりの庭先でムラサキシキブを見ていると、実が小房状に連なるために光も乱反射して、どこか異界めいた印象を与えます。
才媛になぞらへし木の実ぞ雨ふればむらさきしきぶの紫みだら
(木村草弥)
この歌に詠まれたような妖しさは確かにあって、見るものの心をつかんで離さないのは、清々しさというよりも、むしろ命の営みの「ひたむきさ」ではないかと感じます。そして、ひたすらに生きてやまないこの野草が望むことは、実を輝かせることそれ自体ではなく、山鳥にいち早く見出されて命を繋ぐことなのです。
ムラサキシキブ最も早く実を持てど最も早く鳥の食い去る
(土屋文明)
せっかく色づいた実を鳥に先取りされたおかしさを感じさせる歌です。それと同時に、初秋に最も早く実をつけるやいなや、鳥が食い去る営みに、弾けるような命の輝きを見出した歌人の、命の讃歌だとも思います。
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