細雨のなか、くちなしの花が咲いています。
つやつやとした葉に遠慮がちに顔をのぞかせる真っ白な花は、楚々とした乙女の印象を与えます。それでいて春の沈丁花、秋の金木犀と並んで三大香木と呼ばれるほど、甘い香りを漂わせる様子は、梅雨の時期にひときわ心ひかれる存在です。
樋口一葉はくちなしの花を次のように詠みました。
誰もかくあらまほしけれこの花のいはぬに人のなほもめづらん
何も言わなくても周囲が美しいとはやし立ててくれるくちなしの花を見ていると、誰もがこんな風にありたいものだと思う、そう一葉は詠うのです。
歌人中村歌子の主宰する「萩の舎」は、一葉が入門した頃ちょうど全盛期を迎えており、皇族、華族をはじめ上流階級の夫人令嬢が集う、まさに絢爛豪華な学舎でした。
姉弟子の田辺龍子は貴族院議員の娘で、父に連れられて二度の渡欧経験のあるお嬢様です。英語も堪能で早くから束髪に洋服のいで立ちだったそうです。のちに一葉と龍子は「萩の舎の二才媛」と呼ばれるようになりますが、一葉は親の借りてきた古着を、気後れしながらまとっており、両者の身分の差、装いの差はあまりにも歴然としていました。
一葉は、眩しいばかりの乙女の美しさを前にして、先の歌を詠んだのでしょう。
その田辺龍子は、田辺花圃のペンネームで処女作『藪の鶯』を出版し、これが大反響を呼びます。その原稿料も多額であることを漏れ聞いた一葉は、女中や手間仕事をしながら家計を支える身でした。当然に焦りや激しい羨望を感じたに違いありません。
一葉は、くちなしの花に寄せて次のようにも詠んでいます。
おもふ事いはねば知らじ口なしの花のいろよきもとのこゝろも
思っていることを言わないので分からないだろう、くちなしの花の色美しいような本当の心も、と一葉は詠います。なでしこの花の慎ましさと同時に、一葉自身の焦れるような自己表出の願望も表しているように思います。
花圃の成功を目の当たりにした一葉は、小説家を目指します。
一方、花圃は一葉を雑誌『都の花』に紹介して作品掲載の手助けをしたり、『文学界』の同人たちと一葉を結び付けるなど、一葉が作家として世に出るための支援をしました。
生垣のくちなしの花は、たがいに咲き競うことはありません。雨に打たれながら、まるで仲の良い姉妹のように咲き定まっています。