犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

方丈記 迷いの書物

2019-03-11 00:07:01 | 日記

『方丈記』を再読しました。新訳が秀逸なことで評判の光文社古典新訳文庫版です。
「行く川のながれは絶えずして」という冒頭の美文から、無常観を悟りきったように書き綴る書物を思い描いていましたが、3.11の直後に岩波現代文庫版現代語訳で巻末まで読み通して、まったく違う印象を持つようになりました。光文社古典新訳文庫版では、さらに「迷う人によって書かれた、迷いの書物」の色合いが濃くなっているように感じます。

方丈記では前半のほとんどの部分を、鴨長明が若い頃に体験した平安末期の災厄である、大火、竜巻、遷都、飢饉、大地震の記録にあてています。そこでは、都市生活の脆弱さや、人の記憶の風化現象なども指摘しており、今日の我々にそのまま警鐘として響きます。
後半部分では、全てを捨てて方丈の住まいに暮らす長明が、人生の憂鬱から解放されたかのように、生き生きと過ごす様子が描かれます。そこでは不運を悟った上で「執着」を捨て、満足して生きていけることの発見が語られています。
ところが、巻末近くになって長明は突然立ちすくみ考えます。「執着を捨てる」ことを得意げに語る、このことこそが「執着」なのではないかと。そしてその自問に答える術を知らないまま「方丈記」は唐突に終ります。

読者は突き放されたように巻を閉じることになりますが、どこか長明に身近さを感じます。それは長明が自家撞着に陥ったことを率直に述べたからではなく、3.11のあとの私たちの被災者に対する負い目と重なるからではないかと思います。
大震災のような根源的な体験を突きつけられると、日常のどうでもよい悩みが無化されて、大事なものが見えてくる。被災者でないわれわれも、そこまで思いを致すことはできるのです。しかし、そこに啓示される「真理」にしがみついて生きていくことが不可能だということは、実際の体験者でなければ分かりません。
3.11以後、彼らは「無常」についての感慨を抱きつつ、自らを鼓舞して生きなければなりませんでした。震災によって得た教訓を心に刻みながら、生きることそのものに集中していたに違いありません。

震災で大きな被害を受けた気仙沼市階上中学校で、震災直後に読まれた卒業生の答辞は、今でも忘れられません。15歳の少年は震災は「天が与えた試練というには惨すぎるものでした」と声を詰まらせたあと、続けてこう述べました。

しかし苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です

惨すぎる試練を与える天を前に、少年はみずからのどうしようもない限界を自覚します。それを「無常」の自覚と言い換えても構わないのでしょうが、決して抜け出すことのできない「無常」の自覚に至りながら、そこに沈潜するのではなく「苦境にあっても天を恨まず」と一歩を踏み出すのです。
私たちはこの姿に深く感動するとともに、無常を自覚し執着を捨てるという、それ自体思弁に過ぎないものに安住しようとする自分に対して恥じ入ります。鴨長明が立ちすくむように筆を置いたのは、現に執着せずに前向きに生きる人、とりわけ若い人に対して恥じる気持ちもあったのではないか、とも思います。


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