犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

いのちの水流

2018-04-15 23:48:47 | 日記

茶室の待合から臨む庭には、すっかり花を落とした桜木が陽射しを通して柔らかな若葉のシルエットを見せています。

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり(馬場あき子)

毎年違うことなく咲きみちる桜も、今年は早々と散ってしまいました。あと何年桜を賞でることができるだろうかなどと感慨にひたる間もなく、若葉は爽やかな息吹を吹き込んでいます。
歌人であり科学者でもある永田和宏さんの秀逸な喩えを使えば、季節のめぐる円環時間には、行って帰らぬ直線的な時間の流れが交差しており、われわれ人間は直線と円とが織りなす螺旋時間を生きているのです。来年の桜は螺旋の一つのピッチ分ずれた花の季であり、桜木の若葉の息吹も年が変わるごとに、ひとまわり新たな景色として現れるのでしょう。
そして、そうやって時間の流れを感じる体の奥底に、いのちの水流の音がひびくのを感じるのです。

合図を受けてお茶室に上がると、床には牡丹の花が活けてありました。その大きく豪華な花に目が止まります。

牡丹花は咲き定まりて静かなりはなの占めたる位置の確かさ(木下利玄)

牡丹の花の存在感は、ほかに比べようがありません。咲き定まって、これ以上の咲きようがあろうか、と誇らしげに問うているようでもあります。その花の占める位置はあまりにも確かで、この世ならぬ世界に通じているかのように感じます。

ご亭主の話では、牡丹の花は植え替えてからしばらくは花を咲かさないものの、一度花を咲かせれば毎年美しい姿を見せてくれるのだそうです。花の王といわれる牡丹が、一方で「はじらい」という花言葉も持っているのも、そのような理由からだそうです。
牡丹は花が咲き誇るまでの長い年月をその体の中に秘めています。そう思って牡丹の花を眺めていると、大輪の花から柔らかな葉や茎にかけてとうとうと流れる「水流の音」が聞こえてくるようです。
炉の火を覆うようにかけられた「透木釜」からは、ちょうど一本の湯煙の柱がまっすぐに立ち昇っており、それはまるで、その場を制する大きないのちの水流のようにも見えました。


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