犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

客の心になりて亭主せよ

2017-12-03 23:33:23 | 日記

多くの名物道具を収集し、分類したことで知られる大名茶人 松江藩藩主 松平不昧は、「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」と言いました。これを、相手の気持ちになって人に接しなさいという意味に解してしまっては、この語の本当の面白味をなくします。

お茶の世界では、亭主をやり、正客をやって、裏方も務めるというように、すべての役を演じきる必要があります。「花月」という5人一組で行う稽古では、ランダムに引いた札に従って、役割の総入れ替えを整然と行うことが求められます。5人の息が揃えば、それは見事なものです。
役割を演じることを意識しながら、その役割に没入するという、本来ならば両立困難なことを行うのが、茶の湯の奥深いところです。どうせ役割に過ぎないのだという冷めた姿勢で接するのではなく、割り振られた役割だからこそ没入せよと自らに命じるのです。
玄侑宗久さんは、お茶席の心得をよく禅語の「主人公」にたとえて語ります。

お茶席では、縁に応じて客にもなり、亭主にもなる。べつに亭主がエライというわけではない。それぞれその役に三昧になることでそれぞれが「主人公」になる。百パーセントその役になりきった状態が「主人公」なのだ。(『禅語遊心 』玄侑宗久著 ちくま文庫 224頁)

さまざまな役どころとは別に、本当の自分という「主人公」がいて、より高い次元から役割を演じる世界を見下ろすという図式ではなく、役割に没入しているその人を「主人公」というのです。これは難しい知見です。
『無門関』という禅問答集では、瑞巌和尚の不思議な姿が描かれています。和尚は自らに向かって「主人公」と呼びかけ、それに「はい」と応えます。
「はっきりと目を醒ましていろよ」「はい」「これから先も人に騙されないようにな」「はい」というように、和尚は毎日ひとり言をいっていたというのです。
内省して自らのうちに閉じて行くのではなく、「はい」と応える自分を「主人公」として名付けて構築し直す。禅僧の南直哉さんは、これを倫理的なるものの始まりであると、次のように述べています。

私が考えるのは、自己とはその存在の構造として、対話的であるということです。「主人公」とは《呼びかけられ・返事をする》ような構造のことなのです。自己が始まるのは、自己でない誰かの呼びかけに「はい」と言ったときです。私は、およそ倫理的なるものは、この「はい」に発すると思います。もし、自己が自己自体から始まるなら、およそ、倫理はいらないでしょう。(『刺さる言葉』南直哉著 筑摩書房 180頁)

冒頭に掲げた、松平不昧の「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」は、客に応答する亭主であること、亭主のお点前に応じる客であることを忘れるべからず、と述べているのだと思います。視点の移動といっても良いかもしれない。そしてそれは、役割期待に応える処世訓ではなく「およそ倫理的なるもの」の始まりであると思います。

コメント (1)
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