犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

悲しみをも享楽出来るほどのイノチを陶冶せよ

2012-04-05 02:05:07 | 日記

博多湾に浮かぶ能古島はいま、ちょうど菜の花の美しい季節です。
作家の檀一雄は、晩年この島に暮らし執筆活動を続けました。東京に家族を残し能古島に帰るにあたって、娘たちに残した美しい文章があります。「たとえてみれば、私のお前達に対する遺書である、と思ってみても、さしつかえはない」と書き出されたこの文章は、最後の無頼派作家と呼ばれた作者の、たましいの鼓動であり、いとおしい娘たちへの予祝でもあります(「娘たちへの手紙」『父』作品社所収)。
その一節を引用させてもらいます。

あらゆる生命は、神からはなたれたか、生産する自然力とでもいったような根源の力から生み出されたのか、知らないが、その無限の造物の力によって、まるで、みじめな、それぞれの道化を演じさせられるあんばいに、この地上に抛り出されて、ある。
その有限の生命どもが、泣いたり、笑ったり、怒ったり、裏切ったり、しているわけだが、どのような装飾の言葉でよそおってみても、人は生まれ、這い這いし、立ち上がり、ツヤヤカになり、やがて、男は女を追い、女は男を迎えて、やれカケガエない・・・だの、やれ絶対・・・だの、と口走りながら、有頂天になるヒマもなく、いつのまにか、もう老いの影に脅え、ひとりひとり、よろけながら、死んでゆく・・・。
悲しいけれども、人間は、たったこれだけのものである・・・、ということを、まず、知るべきだろう。いや、必ず、知ることになる。
だから、私はお前達に、早く人生に絶望せよ、といっているわけでは、決してない。
いや、その反対だ。
まことにみじめではあるが、私たち一人一人に、イノチという、自分だけで育成可能のなんのよごれもない素材が与えられている。(前掲書 166頁)

いわば自分自身の造物主である、という覚悟のもとに、滅びるに決まっている心と体を、底光りするほどに磨いてみなさい、と娘たちに語りかけます。「マイホームというような幸福の規格品があって、それを、デパートで買うような気になったら、めいめいに与えられたイノチの素材が、泣くだろう」とは、『火宅の人』の面目躍如たるところです。
「絶対の愛などというものが、あり得ようか。おそらく、ない」と言い切る檀は、例えば、イノチが奥深い光をたたえ、光をたたえたイノチどうしの睦み合いが一瞬の心の平安をもたらすことがあるとしても、そのことをもって、造物主たる人間の到達点とは考えません。檀は続けて次のように語ります。

寛容と敬愛は、おのずから、やすやすとした信頼の交互作用を生んで、人間なにものであったか、のほこらしい安堵に近づくかもわからない。
しかし、これは、万に一つの愛のカタチであって、おそらく、泥にまみれ、地にまみれた、男女らの、長い、自己育成のはての、夢に近いかもしれぬ。
しかし、ためらうな。おそれるな。悲しみをも享楽出来るほどのイノチを陶冶して、自分の人生に立ち向かってゆくがよい。(前掲書 169頁)

「悲しみをも享楽出来るほどのイノチを陶冶せよ」、かつてこの言葉に励まされ、ことあるごとに私も自らに向けて発してきました。しかし、これが父から娘に向けた手紙でなければ、そのような言葉の力を持ちえなかったようにも思えます。
娘たちへの手紙は、次のような祝福の言葉で締めくくられます。

お前達の前途が、どうぞ多難でありますように・・・。
多難であればあるほど、実りは大きい。

娘たちへの「いとおしい、いとおしい」という思いが、痛いほど伝わります。イノチを磨く娘たちを見守る父の姿が、ここには同時に見えるからです。


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