ファチマの聖母の会・プロライフ

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シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 3. 家での問題

2017年09月18日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

II. 御出現


1914~1917までファチマの主任司祭だった、マヌエル・マルケス・フェレイラ神父

3. 家での問題

ここで、司教様、私が7歳だった時から私が10歳だった時までの羊飼いの3年間の終わりに来ました。この3年間で、私の家庭と、敢えて申し上げるなら小教区教会とは、ほとんど全く変わってしまいました。ペナ神父様は転勤になってもはや私たちの主任神父ではありませんでした。その代わりにボイシニャ神父様が主任神父になりました。[注16]

[注16] この司祭の本名はマヌエル・マルケス・フェレイラ神父だった。ボイシニャ神父として知られていた。彼は1945年1月に亡くなった。

この極めて熱心な新しい主任司祭は、終わりを知らずに踊り続けるダンスというような異教の習慣が、あまりにも普通に小教区で行われているのを知り、すぐに日曜日のミサの説教で、これに反対する説教をしはじめました。公的にも私的にも、神父様はこの悪い習慣を攻撃する機会を全て使っていました。私の母はこの良い神父様がこのようなやり方で話すのを聞くや否や、私の姉たちにダンスに出席することを禁じました。

私の姉たちの模範は、他の人々もダンスに参加しないようにさせたので、ダンスの習慣は次第になくなりました。同じことは子供たちにも起こりました。子供たちは自分たちで小さな別のダンスに行く習慣でした。これは私の従姉妹のジャシンタについて書いたとき司教様にはすでに説明したとおりです。

このことについて、ある人はある日、母にこう言いました。
「今までダンスをするのは罪ではなかったのに、新しい主任司祭が来たからというだけの理由で、ダンスが罪だなんて。いったいどうしてそんなことが起こるのかしら?」と。

母は答えました。「私は知らないわ。私が知っているのは、神父様はダンスをするのを望まないということ、だから、私の娘たちはもうそのような集まりには行かないということだわ。譲歩したとしても、娘たちが家庭の中ですこし踊るのは許すぐらいね。神父様もそれには害が無いとおっしゃっているから。」

その頃、二人の一番上の姉たちは婚姻の秘蹟を受けて家を離れました。父は、悪い仲間の手に陥ってしまいました。そこで父は自分の弱さの罠に落ち、私たちの土地の一部を失いました。[注17]

[注17] ルシアの父の行動において、彼の酒好きをオーバーに理解してはならない。確かに酒を好んだがアルコール中毒ではなかった。宗教に関する彼の義務遂行(復活祭の聖体拝領など)については、確かにファチマの小教区では数年間その義務を果たさなかった。それは小教区の主任司祭と仲が悪かったからである。しかしヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの教会で復活祭の義務を果たしていた。

母は私たちの生活費が足りなくなっているのを見ると、姉のグロリアとカロリナとをよその家へ手伝いに出す決心をしました。私たちに残っていたわずかな畑を耕すために、兄だけが家に残りました。母は家事をして、羊の世話をするのは私でした。

かわいそうな母は不幸のどん底に沈んでるようでした。ある晩、私たちは囲炉裏を囲んで、父が夕食に帰るのを待っていた時、母は娘たちがいつも座っていた不在の席を見て、深い悲しみをもってこう叫ぶのです。
「我が天主よ、私たちの家庭の喜びはどこへ行ってしまったのでしょうか?」と。
そこで、頭をそばの小さい机に圧し付けて、苦い涙を流すのです。母と共に、兄も私も泣きました。それは私が経験した最も悲しい場面でした。姉たちを待ち焦がれて、あまりにも悲惨な母を見て、心が本当に引き裂かれました。私はその時まだ子供でしたが、私の家庭の状態を良く理解しました。

その時、私は天使の言葉を思い出しました。「とりわけ、主があなた方に送る犠牲を、従順に受け入れなさい。」そのような時には、私は一人っきりの場所に引きこもり、
私の苦しみを見せて母の苦しみを増やさないようにしました。この場所は、普通はうちの井戸でした。そこでひざまずいて、井戸のふたの石板の縁に寄りかかって、私の涙はその下の水に混じりました。私はこの苦しみを天主に献げました。

時々は、ジャシンタとフランシスコが来て、このように悲しみに沈んでいる私を見つけたものでした。私がむせび泣いて、何も言えないので、二人も大量の涙を流して泣き、彼らは私の苦しみを共にしました。そしてジャシンタは大きな声で、私たちの苦しみを天主に献げました。「わが天主よ、償いの行為として、罪人らの回心のため、この苦しみと犠牲を全て御身に御捧げいたします」と。祈りの言葉はいつも同じではありませんでしたが、その意味はいつも同じでした。

たくさんの苦しみは、母の健康を損ね始めました。母はもう働くことができなくなり、
よそへ手伝いに出ていた姉のグロリア [訳者注1] は、母の看病と家事をするために、家へ帰りました。私も家事を手伝いました。母は近くの全ての内科や外科の医者らの診療を受けました。ありとあらゆる種類の薬を試してみました。しかし少しも良くなりませんでした。
良き主任司祭は、自分のロバの車に乗せて母をレイリアまで連れてくださることを提案して下さいました。それはそこのお医者さんに見てもらうためです。
姉のテレサと一緒に母はレイリアに行きました。
しかし、母は、半死半生の病態で旅路から家に戻りました。あまりのも多くの診察の後疲れ切ってしまい、利益になるような結果は全くありませんでした。
結局は、サン・マメーデにいる医師の診察を受けると、この先生は、母には心臓病があり、脊髄が歪んでおり、腎臓の機能不全があると言いました。そこで母に赤く熱くなった針での治療と様々な薬を頓服するように命じました。これのおかげで母の体調は少し良くなりました。

以上が、1917年5月13日がやって来たときの私たちの家庭の状態でした。兄が兵役の年齢に到達したのもこの頃でした。兄の健康は良好でしたから、兄が兵役に受かる多くの理由がありました。更に戦争の最中でしたから、兵役義務の免除を得るのは難しいことでした。

母は、ひとりぼっちで家に残ることを恐れて、また、畑の世話をするのが誰もいなくなると思い、姉のカロリナ[訳者注2]を家へ帰るようによびました。
その時、兄の代父が兵役免除を兄のために取ってくれると約束しました。この代父は兄の診断書を書く責任者の医者の言葉を証明書に書いたので、良い主は、母にこの助けを与えてくださいました。


[訳者注1] 「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」1987年/ドン・ボスコ社には、カロリナとなっているが、ポルトガル語の原文によると、ここはグロリアとなっている。Esta, não podendo já trabalhar, mandou vir, para a tratar e tomar conta do arranjo da casa, minha irmã Glória.

[訳者注2] 「ファチマの聖母の啓示~」1987年には、グロリアとなっているが、ポルトガル語によるとここはカロリナとなっている。Com o receio de ficar sem ter quem Ihe cuidasse as terras, minha mãe mandou também vir para casa a minha irmã Carolina.

(続く)

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