ファチマの聖母の会・プロライフ

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天主からの無償の恩恵 | 聖寵の種類とその違い

2021年01月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百六講 聖寵について



公教要理を紹介するに当たって、三部に分けました。この分け方は我らの主、イエズス・キリストの次のみ言葉に由来しています。
「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ、14、6)
公教要理の第一部において、真理なるイエズス・キリストを概観しました。救われるために信ずべき諸真理についてです。一般的にいうと「信経」、つまり信仰の諸信条です。
第二部において、道なるイエズス・キリストを概観しました。言い換えると天に入るために、イエズス・キリストに従って具体的にどう行為していけばよいかについての部分です。一般的には「道徳」と呼ばれているものです。ラテン語の言語「Mos(道徳)」は「実践」という意味です。具体的には、前回まで見てきた天主の十戒や教会の掟などを含んでいます。

そして、本日から第三部を始めていきたいと思っております。
「私は命である」というときのイエズス・キリストを中心にする部分です。要するに、第三部においては私たちに霊魂の命を与えてくださるすべての物事について見ていくことになります。言い換えると、聖寵の命を与える物事。一般的に「聖寵」あるいは「秘跡」と呼ばれる部分です。要するに、私たちにおいて働きかけてくださり、天主の内に生きていけるすべての物事などについての部分になります。
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最初に「聖寵」と呼ばれることについて見ていきましょう。カトリックになると聖寵という言葉は非常に頻繁に現れます。神父様たちは説教の時、殆ど必ずと言ってよいほど、聖寵という言葉を口にします。告解の時にも、司祭たちは信徒に聖寵のことをよく説きます。例えば、「天主の聖寵をよりどころにするように」あるいは「天主の聖寵を実りあるようにするように」といったような助言があろうかと思います。

要するに、「聖寵」という言葉は頻繁に現れていますが、実際問題として信徒はどういった意味になっているかについて曖昧なまま、あるいはよくわからないままであるということは少なくないのです。いわゆる、聖寵の定義を聞かれた時、どう答えたらよいか迷うような。ですから、本日の講座で聖寵の定義を示してみましょう。

まず、「聖寵」には「寵」という言葉の通り、ラテン語の語源を探ると「無償」なことであり「無料」なことであり、対価がいらないという意味です。また、フランス語などの西洋語で、権威者が「特赦する」あるいは「恩赦」するといった時、つまり死刑から救い出す特赦という言葉は「gracier」という動詞で、聖寵(grâce)と同じ言葉です。

これは恩恵を施すという意味でもあり、つまり、この恩恵を施す人は相手に施す義務はないということです。何の恩返しの必要もない「心ばかりのものである」としての意味です。また、その恩恵を受ける側、その恩恵に値しなくても恩寵を受けられるという意味です。



これはもともと自然次元の恩恵・恩寵としての意味ですが、超自然次元においての聖寵も全く同じです。天主の聖寵は超自然なる賜物であり、また無償なる賜物であります。そして、超自然というのは、人間の本性を越えた賜物であるという意味です。自然=本性という意味は、聖寵が人間の本性に比肩しうる点はないという意味です。人間の本性との共通点のない人間性よりは遥かに高次なる賜物なのです。そして、天主は私たちの永遠の救済のために私たちにこの聖寵を無償で施してくださいます。

言いかえると、聖寵とは天主よりの私たち人々へのプレゼントです。このプレゼントは私たちの能力をはるかに超えており、私たち人々が望むこともできなかったプレゼントです。また、人間の本性を越えているがゆえに、私たちの力では取得できないプレゼントです。要するに聖寵とは私たちを遥かに超えている天主からの私たちへの超自然のプレゼントです。そして、天主はなぜこの賜物を私たちに与えてくださるかというと、私たちが天に入れるために、永遠の救済を得られるためなのです。

要するに、私たち人間を天主の域にまで引き上げるために、天主は私たちまで御身を落とされたのです。
実際とは違いますが、たとえてみると、ある人が自分のペットに言葉を与えてペットが話せるようにするようなことと似ています。想像してみましょう。犬あるいは猫を飼っている飼い主が自分のペットに人間の言葉が話せるようにしておいて、人間とペットは会話ができるようにするようなことです。これは、いわば、飼い主からペットへの恩寵です。飼い主は「人間の言葉が話せる」という恩恵をペットに施すのです。

超自然の次元では天主が人間に対して以上と似たようなことをなさっています。ただし、大きな違いがあります。天主と人間との差は、人間と動物との差に比べたらはるかに大きくて無限であるということです。言いかえると、万が一、人間は話ができるという賜物をペットに施すことが可能だったとしても、天主が人間の霊魂への聖寵の施しに比べたら無限に小さい恩恵にすぎず、比較にならないほどその次元を異にしています。

以上、聖寵の一般的な定義を見ました。繰り返しますが、聖寵とは、人々を遥かに超越する超自然の賜物であって、そして、私たちを天国に入れるために施されるのです。というのも、天国は超自然の次元に属する現実だからです。言いかえると、聖寵の働きのお陰で、私たち人間は天国に値する立場まで引き上げられていくのです。つまり、聖寵が人間の究極の目的である永遠の命の次元に私たちを引き上げてくださっているのです。

天主は人間に対して人間を越えている超自然の目的を与えてくださっています。これが天国です。しかしながら、人間の力だけで天国に到達することは不可能です。私たちは自然次元に属していますが、次元を異にしていることから、超自然な次元のことに対しては自分の力だけでは手を出せないわけです。しかしながら、天主の賜物である聖寵は、本来、自然次元だけに属している私たちの本性を超自然の次元まで引き上げ給うのです。その時にはじめて、人間の究極的な目的地にたどり着くことが可能となります。以上、聖寵の一般的な説明でした。

従って、聖寵に頼らずして救済は不可能ということになります。聖寵のない人、聖寵を拒否する人は天国に入ることは不可能です。というのも、天国とは異質のままの人間になっているから、天国に入れないのです。人間の本性は本来超自然の次元に適っていないからです。ですから、人間の本性だけで、聖寵の助けなしに、目的地に辿り着くことは不可能となります。

「不公平だ」という人もいるかもしれません。(しかし)そうではありません。なぜかというと、天主は人間に天国という目的を与えてくれただけではなくて、常に、その目的地にたどり着くための手段、つまり聖寵を与え給うからです。俗にいうと天主は、無理なことを私たちに頼んでいませんので、限りなく気前の良い御方です。言いかえると、天主は私たちに目的を与え給う限り、その目的を達成するための手段をも与え給うのです。

ですから、最後の審判が来た時、私たちは天主のみ前に出廷したら、「私の場合、できないことだったので、私のせいではない」と文句をいっても済まないことになるわけです。確かに、人間の本性の力だけなら、無理ですが、天主は「聖寵をあげたのになぜ受け入れてくれなかったか。君の一生の間、多くの賜物と聖寵を絶えず贈ったはずであり、天国に行くのは容易だったはずなのに、君が聖寵を拒絶しただろう」とお答えになります。
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以上、聖寵に関する一般的な説明でした。
次に、聖寵には二種類を区別します。この区別は大事です。いつも「聖寵」と言われても、違う二つの種類を指しているから要注意です。
第一に、成聖の聖寵です。第二に、助力の聖寵です。以上の二種類の聖寵を混同しないように気を付けましょう。もちろん両方とも聖寵であるから、両方とも天主よりの超自然なる無償なる御恵みなのです。

成聖の聖寵は一番重要な聖寵です。何でしょうか?
成聖の聖寵とは、天主の三つの位格が私たちの霊魂において住み給うことによって、超自然の賜物が私たちに施されているというものです。言いかえると、成聖の聖寵とは「一度だけ助けるために送られる一度のみのプレゼント」ではなく、聖父と聖子と聖霊なる天主ご自身が私たちの霊魂において現存される聖寵なのです。要するに、成聖の聖寵とは三位一体の天主、全体としての天主は私たちの霊魂にお住まいを構えられることによって、天主ご自身の生命を私たちに施し給い、天主の生命によって私たちの霊魂を活かし給うというものなのです。

言い換えると、成聖の聖寵とは私たちの霊魂における天主の御命なのです。ですから、成聖の聖寵を享受している人は、天主ご自身を自分の内に持っているということを意味します。幼きイエズス・キリストの聖テレサは次のことをいっていました。「天は地を訪れた(Le ciel a visité la terre)」。この言葉は詩あるいは歌としても作曲されました。この言葉は聖成の聖寵の現実を美しく語ってくれます。

また、別の言い方をすると、天主は人間としてご降誕なさって、御托身をなさったように、天主は本質的に人間の霊魂において住まわれることになっています。聖父と聖子と聖霊なる天主として霊魂に住み込み給うのです。これが成聖の聖寵なのです。「成聖」とは、私たちを聖化するという意味で、本当の意味で天主との同居を意味しています。

たとえてみれば、飼い主がペットに人間らしい命をペットに与えて、ペットが人間として生きるようにして、飼い主と一緒に人間らしい生活を可能にすることと似ています。天主は実際にこれをなさっておられますが、これが成聖の聖寵なのです。成聖の聖寵の別の呼び方は「平常の聖寵」とも呼ばれています。状態を指しているからです。成聖の聖寵とは聖寵の状態に常にあるという意味です。聖寵の状態にあるという時、それはどういう意味でしょうか。これは、常に、つまり一時的ではなくて時間において継続的に維持している状態という意味で、天主は霊魂においてお住いで、またこの霊魂は天主の内に生きているという意味です。

以上、「平常の聖寵」の説明でした。繰り返しますが、これは、常に聖寵の状態の内に生きている状態を指しています。言いかえると、霊魂は天主のご現存と一緒に生きているということで、天主は霊魂において実質的に現存なさっている状態なのです。これが聖寵の状態です。

そして、ご理解いただけたかと思いますが、天国に入るために聖寵の状態は必要です。なぜでしょうか?天国とは「永遠に天主の生命を分かち合う状態」だからです。超自然の次元と自然の次元という区別を常に念頭に置きましょう。地上において、天主の生命が人間に既に分有されていないのなら、死んだとき、天主の生命を持たない人は天主の内にあの世で生きていけないことになります。つまり、死んだ人は大罪の状態と呼ばれる状態にあるのなら、天国に入れないことになります。ですから、以上に見たように何も不公平なことはなくて、いわば当然な結果なのです。

一方、天主はいつも聖寵を人々に与え給うているので、天主は聖寵を与えないから不公平だという文句は成り立ちません。問題は天主が聖寵を与え給うているので、その聖寵を大切にして、その聖寵にしたがい、聖寵を維持するのは人間次第だからです。
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以上、聖寵の状態でした。聖寵は天主のご生命まで私たちの霊魂が引き上げられていることを意味します。聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊なる天主と同居しているような状態です。立派なことでいとも素晴らしい事柄です。素敵です。言葉を絶するほどに、言葉で表現できないほどに素晴らしい事柄です。

以上、聖寵の状態でした。あるいは成聖の聖寵でした。そういえば、成聖の聖寵は霊魂を治療しているといえます。つまり、原罪によって私たちの霊魂に痕跡している罪への傾向に対して私たちが戦っていることを助けるということであり、これが成聖の聖寵です。特に、現世欲と意志の弱みに対して私たちが戦うために成聖の聖寵は助けてくださいます。

成聖の聖寵がどうやって与えられていますか。二つのやり方で与えられています。第一に洗礼を通じてです。また後述しますが洗礼は超自然の命に生まれることです。そして、第二には大罪を犯した結果、成聖の聖寵を失った場合、改悛の秘跡に与ることによって、つまり告解を通じて成聖の聖寵は与えられています。

成聖の聖寵あるいは「平常の聖寵」の次に、助力の聖寵あるいは「時事的な聖寵」という聖寵があります。助力の聖寵は「聖寵の状態」ではないから、成聖の聖寵とは違います。では、助力の聖寵とは何でしょうか?善き行為、そして超自然なる行為を実践するために、天主が私たちに施したもうた一時的な助けなのです。

助力の聖寵を理解するために、プールの近くにいる水泳指導員が、泳いでいる人に溺死させないように時々竿を差し出すのと例えてみると似ています。また、母親が倒れないように自分の子の手を繋いだり、自分で歩けるように手を放ったりすることと似ています。つまり、まだ覚束ない子の歩きなので、倒れそうになったら、手を出してくださる母と似ています。善き天主は私たちが天主により忠実になることを助けるため、聖成の聖寵に加えて、助力の聖寵を施し給うのです。



このような「一時的な聖寵」は、善き行為、また超自然なる行為を実践するための天主の一助なのです。そしてそれは聖寵の生命の内に成長していけるように助けるのです。例えば、単純に信徒が自宅で跪いて天主に祈っていることができるということは助力の聖寵のお陰です。そして、この助力の聖寵を受け入れた信徒の姿です。また、例えば、告解に行く信徒は善き告解ができるように天主が助力の聖寵を施し給うのです。

このように、天主は常に多くの助力の聖寵を施してくださいます。聖寵なので、無償の賜物です。つまり、毎回毎回、聖寵を拒む人は、ある時、その挙句無償な賜物なので施す義務もないということで、天主が施さなくなるでしょう。これは聖寵を拒んだ人の責任になります。

聖寵の状態の内に生きていない人、また、日常、天主のみ旨に奉仕するように導く助力の聖寵という小さな導きを常に拒んでいく人は天主に対して「あなたのプレゼントはいらない」といったようなことを言っているに同然です。で、ある日、天主が「そうか。なら、もう施さない」と決めても文句はいえないのです。残念ながら、このように天主の聖寵を拒むことによって、永劫へ落ちていく人々は少なくないでしょう。

要するに、助力の聖寵は一時的な助けであるのです。ですから、私たちはこのような一助けに気づくように用心して、これらの聖寵になるべくよく受け入れて従っていきましょう。

次に、どうやって成聖の聖寵を失うでしょうか?大罪を犯すことによって、成聖の聖寵を失うのです。前に罪に関する講座を思い出してみましょう。要するに、大罪あるいは「死に至らしめる罪」とは、霊魂の生命を奪う罪なのです。だからこそ、大罪は深刻な事柄なのです。大罪によって、霊魂の生命、つまり天主の生命を霊魂から追い出すようなことになるのです。

また、天主との親交状態を破壊する大罪でもあるのです。聖寵の状態はまさに天主との友好状態なのです。ラテン語で、「友好関係」あるいは「友情」とは「同居する」「一緒に生きている」という意味に由来しています。このように、アリストテレスによれば、二人の友人が「共同生活を求めている」と説明しています。

このようにして、天主は私たちの友人になる時、私たちの霊魂において寄せてくださってお住まいになり、私たちの霊魂と共同生活している状態となります。そして、私たちは天主を霊魂において歓迎することによって天主の友人となっています。大罪を犯す人は、この友情に背く行為を犯すのです。言いかえると、天主の愛徳に背く行為を犯します。天主の友情を裏切ることによって、天主との友好関係を拒むことになり、天主を自分の霊魂から追い出す行為となります。その結果、天主の親友を失い、霊魂において天主の不在の結果、聖寵を失う結果を招きます。

裏を返せば、告解によって成聖の聖寵をなぜ取り戻されるかもわかってきます。また後述しますが、罪を悔い改めて、誠実に罪を後悔する痛悔と行為を改めることによって、天主の友好関係を取り戻し、成聖の聖寵を取り戻せます。

助力の聖寵は拒まれることがあります。状態ではないので、ある状態でなくなるとしても助力の聖寵を失うことはないかもしれませんが、助力の聖寵を給うための主な手段がお祈りと秘跡であり、これらを通じて助力の聖寵を受けることができます。
この二つの重要な手段である祈りと秘跡については、次回から詳しく見ていきたいと思っております。

「私は命である」ということは、秘跡と祈りによって、私たちにおいての天主の生命を維持することです。

最後に一つだけ聖寵に関して触れておきましょう。ちょっと難しいかもしれませんが、功徳についてです。聖寵の状態にある人は功徳を施すことが可能となります。功徳というのは、つまり、手柄を行ったおかげで、それに値する報酬を貰う特権であるとでも定義できます。そして、善き天主は想像を絶するほど善い天主です。というのも、聖寵の状態を無償で賜物として私たちに施し給うだけではなく、その上、その個別の功績・手柄次第に応じて報い給うのです。

信じられない善でしょう。聖寵の状態を通して、私たちが善く実践していけるように天主は恩恵を施し給う上、「無償なる聖寵を活かし、実践していく善き行為に応じて、功徳を与える」とおっしゃっているのです。

功徳ですが、聖寵の状態のなかでこの世で善き行いの実践によって積み重ねられた功績に対しての報いという意味です。
ですから、なるべく多くの善き行いを実践していくことが大事です。天国で多くの功徳をいただくためにも。


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