真言宗 長江寺 住職 荻原玄明氏も江原啓之氏や飯田史彦教授のように、
いわゆる「故人と会話が出来る」「霊視出来る」方です。
荻原玄明 著 新装版「死者は生きている」ハート出版でも、
具体的な霊視の内容と、ではどうしたらよいのかということを色々と上げています。
例えば・・・病院で亡くなった方を一時お預かりしていたが、身元引受人と
なかなか連絡がとれず、無縁佛になりかねない状況の時、その親族が来る前に
霊視で、「薄暗いトンネルの中を歩きながら、その人は私に語りかけて来ます。」
「『私は三十年前に、妻と娘を置いて家を出てしまったんです・・・』」
そして、この男の人は、
「『昔は、ここは峠を越えねばならぬ山だったんですよ・・・』」
といい、大変長い道を歩いた感じの後に、急に明るいトンネルの外へ出たそうです。
「すると、この男の人は娘と一緒に一軒の『うどん屋』と軒先に下がっているのれ
んをくぐってその店に入りました。」
という具合に、見れる方です。
・・・
玄明氏「このホトケさんのご縁で、片足が無く松葉杖をついていて、そして、奥さ
んと娘を残して家を出た-という人はいませんか?」
と訪ねると、驚いたようにしばらく時間をおいて
親族「その人は・・・この棺の・・・」
玄明氏「そうですか。本人だったのですか・・・」
親族「この兄は、嫁さんと1人娘を置いて30年前に家を出て、今日までまったく
消息が知れなかったのですよ」
そこで、荻原玄明氏は遺体の顔を見たくなり、白布を静かにとってみたそうです。
その顔は65・6歳のようで長い闘病生活のせいか大変痩せていたそうですが、
霊視で見た顔とよく似ていたそうです。
荻原玄明氏は、
「あの体格のいい姿は、この人が妻と娘を置いて家を出た三十年前の姿なのだとい
うことがすぐに分かりました。」
「死者が昔のことを意識して私の霊視の中に表現して来る場合は、過去の反省と
一緒にその時期に意識をあわせているせいか、死にのぞんだ時の哀れな痩せおと
ろえた姿ではなく、昔のままの姿であることが多いのです。」
とおっしゃっています。
こういう具合に、荻原玄明氏も「見える」そうです。
・・・
その荻原玄明氏は、
先祖について、このように言っています。
ちょっと極論かも知れませんが、なるほどなぁと私は思いました。
「先祖は、あがめたてまつる御佛(かみ)とは全く違います」
「先祖は、そんなに偉くはありません」
「先祖は、なみの人間と同じです」と。
どういうことかと言いますと、
「まだ健在の高齢者が身近にいる人ならよくわかると思いますが、お年寄りは
結構わがままで頑固です。」
「勿論、子や孫を育て、社会に貢献して来た人々として敬愛すべきですが、
そうかといって誰もお年寄りをあがめたてまつってはいないはずです。」
「時には閉口してお年寄りに文句をいったり、また、喜ばれると皆が楽しくなった
り・・・先祖とは、そうした人間と少しも変わらない人たちなのです。」
とおっしゃっています。
そう言われれば、亡くなってすぐ、ないしは少ししたら「神」のような
崇高なものになれるかな?と自分自身で考えてみましても、あの世へ逝っても
この世と同じように意識や思うことができる存在(荻原氏も「意識体」という
言葉を使っています)ならば、あれこれこの世に居た頃と同じようなことも
思ったり、考えたり、多少は執着したり、またこの世を生きていたときの行動が
己の基準であったりするだろうなぁと思いました。
ですから、
荻原玄明氏は、
「若い死者、子供の死者も、人間そのままの、欠点だらけの想いで生きています。」
「であるならば、死者とはきりりと対座するのではなく、もっともっと親しみを
こめて、人間対人間のつもりでおつき合いするべきではないでしょうか。」
「いつも同じ夕餉の食卓を囲んでいた人間が、病に勝てずに亡くなったとしましょ
う。その途端に家族一同が、まるで手のひらを返したように平伏しておつき合い
するようになったとすれば、死者は淋しく悲しい想いに打ち沈むことでしょう。」
「『○○さんは××が大好物だったね。』」
「と、好きだったものを供えて、生前と変わらぬ調子で話しかければ、確実に
心が通じ合うというものです。」
「こうした、人間らしい自然なおつき合いが死者との正しい交流なら誰にだって
できるはずではありませんか。」
「日常的な暮らしの中で、いつでも死者を偲べるし、思いやることも簡単です。」
と、このように死者のこととどうつき合うべきかを荻原玄明氏は説いています。
・・・
私は、なるほど!と思いました。
亡くなった人も、身体が無いだけで「人」と同じ。
そう考えたら、人間ぽいところがあって当然ですよね。
こだわったり、考え込んだり、淋しがったり。
魂自体は神の一部かも知れませんが、まだまだ発展途上だからこそ、
輪廻転生を繰り返しているわけですし。
亡くなったからといって、
そんなにあっさり、さっぱりと気持ちが整理できるものでもないように
思います。
だからこそ、「未成仏」「未浄化霊」のような存在もあったりするのでしょうね。
・・・
他の著者の書籍にも「今までと変わらず」そして「今までと同じくそばにいる
かの如く」普通に話しかけてあげることがよいということや、故人もそう想って
いるというような話が出てきます。
やはり、何だかんだいいましても
この世を生きていた人間なんですから、頑固さや偏った面があっても不思議では
ないですよね。
となると、やはり「意識」というだけでなく、あの世へ逝っても「自我もある」
「言いたいことも浮ぶ」「思ったりできる」ということですね。
そういうことが出来るということは、なかなかこの世への未練を断ち切ること
というのはあの世でも大変な試練でしょうけど、反面「自分自身があの世でも
存在できる」ということですので喜ばしいことだと思いました。
本当に、死後にはそういう世界があってほしいです。
いわゆる「故人と会話が出来る」「霊視出来る」方です。
荻原玄明 著 新装版「死者は生きている」ハート出版でも、
具体的な霊視の内容と、ではどうしたらよいのかということを色々と上げています。
例えば・・・病院で亡くなった方を一時お預かりしていたが、身元引受人と
なかなか連絡がとれず、無縁佛になりかねない状況の時、その親族が来る前に
霊視で、「薄暗いトンネルの中を歩きながら、その人は私に語りかけて来ます。」
「『私は三十年前に、妻と娘を置いて家を出てしまったんです・・・』」
そして、この男の人は、
「『昔は、ここは峠を越えねばならぬ山だったんですよ・・・』」
といい、大変長い道を歩いた感じの後に、急に明るいトンネルの外へ出たそうです。
「すると、この男の人は娘と一緒に一軒の『うどん屋』と軒先に下がっているのれ
んをくぐってその店に入りました。」
という具合に、見れる方です。
・・・
玄明氏「このホトケさんのご縁で、片足が無く松葉杖をついていて、そして、奥さ
んと娘を残して家を出た-という人はいませんか?」
と訪ねると、驚いたようにしばらく時間をおいて
親族「その人は・・・この棺の・・・」
玄明氏「そうですか。本人だったのですか・・・」
親族「この兄は、嫁さんと1人娘を置いて30年前に家を出て、今日までまったく
消息が知れなかったのですよ」
そこで、荻原玄明氏は遺体の顔を見たくなり、白布を静かにとってみたそうです。
その顔は65・6歳のようで長い闘病生活のせいか大変痩せていたそうですが、
霊視で見た顔とよく似ていたそうです。
荻原玄明氏は、
「あの体格のいい姿は、この人が妻と娘を置いて家を出た三十年前の姿なのだとい
うことがすぐに分かりました。」
「死者が昔のことを意識して私の霊視の中に表現して来る場合は、過去の反省と
一緒にその時期に意識をあわせているせいか、死にのぞんだ時の哀れな痩せおと
ろえた姿ではなく、昔のままの姿であることが多いのです。」
とおっしゃっています。
こういう具合に、荻原玄明氏も「見える」そうです。
・・・
その荻原玄明氏は、
先祖について、このように言っています。
ちょっと極論かも知れませんが、なるほどなぁと私は思いました。
「先祖は、あがめたてまつる御佛(かみ)とは全く違います」
「先祖は、そんなに偉くはありません」
「先祖は、なみの人間と同じです」と。
どういうことかと言いますと、
「まだ健在の高齢者が身近にいる人ならよくわかると思いますが、お年寄りは
結構わがままで頑固です。」
「勿論、子や孫を育て、社会に貢献して来た人々として敬愛すべきですが、
そうかといって誰もお年寄りをあがめたてまつってはいないはずです。」
「時には閉口してお年寄りに文句をいったり、また、喜ばれると皆が楽しくなった
り・・・先祖とは、そうした人間と少しも変わらない人たちなのです。」
とおっしゃっています。
そう言われれば、亡くなってすぐ、ないしは少ししたら「神」のような
崇高なものになれるかな?と自分自身で考えてみましても、あの世へ逝っても
この世と同じように意識や思うことができる存在(荻原氏も「意識体」という
言葉を使っています)ならば、あれこれこの世に居た頃と同じようなことも
思ったり、考えたり、多少は執着したり、またこの世を生きていたときの行動が
己の基準であったりするだろうなぁと思いました。
ですから、
荻原玄明氏は、
「若い死者、子供の死者も、人間そのままの、欠点だらけの想いで生きています。」
「であるならば、死者とはきりりと対座するのではなく、もっともっと親しみを
こめて、人間対人間のつもりでおつき合いするべきではないでしょうか。」
「いつも同じ夕餉の食卓を囲んでいた人間が、病に勝てずに亡くなったとしましょ
う。その途端に家族一同が、まるで手のひらを返したように平伏しておつき合い
するようになったとすれば、死者は淋しく悲しい想いに打ち沈むことでしょう。」
「『○○さんは××が大好物だったね。』」
「と、好きだったものを供えて、生前と変わらぬ調子で話しかければ、確実に
心が通じ合うというものです。」
「こうした、人間らしい自然なおつき合いが死者との正しい交流なら誰にだって
できるはずではありませんか。」
「日常的な暮らしの中で、いつでも死者を偲べるし、思いやることも簡単です。」
と、このように死者のこととどうつき合うべきかを荻原玄明氏は説いています。
・・・
私は、なるほど!と思いました。
亡くなった人も、身体が無いだけで「人」と同じ。
そう考えたら、人間ぽいところがあって当然ですよね。
こだわったり、考え込んだり、淋しがったり。
魂自体は神の一部かも知れませんが、まだまだ発展途上だからこそ、
輪廻転生を繰り返しているわけですし。
亡くなったからといって、
そんなにあっさり、さっぱりと気持ちが整理できるものでもないように
思います。
だからこそ、「未成仏」「未浄化霊」のような存在もあったりするのでしょうね。
・・・
他の著者の書籍にも「今までと変わらず」そして「今までと同じくそばにいる
かの如く」普通に話しかけてあげることがよいということや、故人もそう想って
いるというような話が出てきます。
やはり、何だかんだいいましても
この世を生きていた人間なんですから、頑固さや偏った面があっても不思議では
ないですよね。
となると、やはり「意識」というだけでなく、あの世へ逝っても「自我もある」
「言いたいことも浮ぶ」「思ったりできる」ということですね。
そういうことが出来るということは、なかなかこの世への未練を断ち切ること
というのはあの世でも大変な試練でしょうけど、反面「自分自身があの世でも
存在できる」ということですので喜ばしいことだと思いました。
本当に、死後にはそういう世界があってほしいです。
ゼミで色んな書籍を読んだりしましたが、書いてあることはバラバラ、そもそも人間なんて存在が文字に納めきることの出来る世界ではないと思っています。私が導き出した答えは、『毎日想うこと』誰よりも彼らに近かった私達が、毎日故人を想って想って考えて考えて、こういうことなんじゃないかな?と気づいてきた事こそが真理なのではないかなと。幸い私は昔から霊を見たり声を聞いたりしてきているので、そういう世界があるってことだけは自信を持っています。
以前akiさんの日記に『こちら側が未練があるから成仏できないのではなく、こちら側が未練があるように相手にも未練があるから・・』的なことが書いてありましたが(誰かの言葉だったかな?)、その通りだと思いました。そのような内容が書かれた本は読んでいませんが、毎日毎日kazuのことを考えて、自分で導き出した答えと同じだったのです。
年末に少し不思議な体験をしました。また日記にUPしますね。
「相手にも未練があるから」
「相手が思っているので、こちらもその人のことをふと考える」
この言葉は、霊視してもらった真言宗高野山派の僧侶?(おばあさん)から聞いたのですが、そう言えば以前に同じことを電話で話してておっしゃった方がいました。
最愛の人が練炭を車に持ち込んで亡くした方からも聞きました。そのように感じると言っていました。
なるほど。yokoさんもkazuさんのことを考えていて、そこへ辿り着いたのですか。
やはり、相思相愛といいますか、何か想いのようなものを感じるからこそ、考えたり思ったりするという面もあると思います。
yokoさんは、金縛り以外にも霊を見たり声を聴いたりしてるんですよね。yokoさんも不思議なものを持っていますね。私は金縛りくらいで「見たい」のに見えません・・・亡き彼女や亡き祖父母以外を見るのは恐いですが、でも見れるっていいなぁと思います。
是非体験した不思議な話を書いてください☆楽しみにしていますので。
コメント有難うございました。
荻原? おぎわら?
Googleでもいいかげんです。
萩原玄明
はぎわらげんみょう
となっています。