On the Corner

めぐりあいつむぎつづれおる日々を生きていく中で感じたことを

1975年夏

2011-05-03 16:10:48 | Diary2thepast
先日思いがけないところからぱらりと出てきた写真。
我ながらなんでこんなに短い足が、しかも熟睡中にベビーベッドの柵に乗ってしまったのか…

寝相のわるさは、三つ子の魂百まで。
それにしても気持ちよさそうに昼寝していますな。
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1979年12月1日

2010-12-12 01:45:45 | Diary2thepast




先週の大掃除で、「わたしのほん」が出てきた。
かきはじめた日は、1979年12月1日。
6歳になる直前の、5歳のわたしがつくった、わたしの記録本だ。

最後のページには「うそはないか」と宣誓確認される箇所もあります。
すごいな(笑)




ともだちは「よびすてします」と書いてあるけど、その欄が欲している
趣旨はちがうぞ。おもむろにそこだけ厳密にどうした。
母が当時私のことを「タラ・チョロ・チビ」と数パターンのバリエーションで
呼んでいたことが記録されている…。

 

ほほう、この年のクリスマスに「いづみちゃん」をサンタさんにもらったのか。
キキとララ、なつかしい。



ハーモニカはわかるけど、まちがいなくラッパは吹いたことないだろ。
ん?おもちゃのラッパ、持っていたかな。



「うぇーとれす」と書いたのを消して「せんせい」。
ずいぶん方向転換したね。

でも、せんせいにはなっていなくてごめんよ。


当時の手や足の形をえんぴつでなぞってあったのを、
上から手を押し当ててみて、ちびっこなわたしに思いをはせたのでした。

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1984年5月21日

2010-10-04 01:07:39 | Diary2thepast



私はこれを見てかわいそうだなと思いました。
まだ39才なんて若いのに引退だからです。
テレビではよく高見山のことをやっているけど、高見山は
なみだをこぼしています。

20年も相もうをとった、土俵もみんな思い出になってしまうからです。
私が今書いている日記もあと2日もすれば思い出になってしまうのです。

高見山がいないとさびしいです。
20年ご苦労様でしたと言いたいなぁ。

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5年生にもなると漢字も増え(なぜ「相撲」とは書けなかったのだワタシよ)
ませたことも言い始めるもんだ。でも浅い(笑)

祖父の影響で相撲大好きだった私のお気に入り力士でした。
ジェシー、本名:渡辺大五郎。

ちなみにこの高見山の記事にあった、

修行時代、つらいけいこに耐え切れず、ついこぼした涙を「汗」と言って
隠した根性の男が、初めて大勢の前で涙をぬぐおうとはしなかった。

高見山には三つの目標があった。
四十歳でも相撲を取る。百場所(現在97)つとめる。新国技館の土俵を踏む。

そのどれも達成できず、三十九歳十一ヶ月でのピリオド。
「残念だけど仕方ない。新国技館で引退相撲が出来るからがまんする」
と初めてほおをゆるませた。

このあたりについての感想を、唐突に書き始めていると思われます。

そうかー、目標。

仕事には目標がある。ゆえにまず目標。
目標はできるだけ身近に目先に小さくせよ。
考えれば目標を達成する方法はいくつでもある。
常に目標を忘れるな。

自分がこの39歳という年齢に近づいているからこそ、焦る。
なんだろ、私の目標って…と目標の原則に大きく外れていることに、焦る。

追われるだけの日々じゃなくて、追うものにしたい今日この頃。

   

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1980年8月

2010-08-28 21:24:27 | Diary2thepast
 

■8がつ10にち 日ようび

きょうはじめてひとりでとまるのでドキドキしました。
とてもおもしろいところでした。
トランポリンもまいにちできるのでとてもおもしろそうでした。
あさ6時におきるのでねむそうでした。

■8がつ11にち 月ようび

きょうちょうふのアメリカンスクールへいきました。
たくさんのアメリカじんのせんせいがいました。
よるじんぐうへナイターをみにいきました。
ヤクルトとはんしんでした。

■8がつ12にち 火ようび

カッパコーナーはゲームをするところです。
そこであたまをうってしまいました。
プールにははいれませんでした。

■8がつ13にち 水ようび

サマースクールにもなれました。
ホテルではいわたきよみさんとさいとうゆかさんといっしょです。
なかよくなりました。

■8がつ14にち 木ようび

クラフトのじかんになべしきをつくりました。
さかなのかたちにたいるをいれてあかくぬりました。

■8がつ15にち 金ようび

かっぱコーナーでみほはかっぱバッチをもらいました。
かっぱバッチはしろやピンクやあおやきみどりのいろがありました。
そのバッチがどうしてもらえたかというとゲームでかったからです。
そしてピンクいろのバッチをもらいました。
とてもおもしろくてうれしかった。

■8がつ16にち 土ようび

もんてかるろさーかすをみました。
くうちゅうぶらんこがとてもこわかった。
ぞうやとらもいました。

■8がつ17にち 日ようび

サマーランドへいきました。はんかちおとしやプールにはいって
あそびました。よるはこうかんかいをしました。

■8がつ18にち 月ようび

おひるごはんがおわってかっぱこーなーにいこうとしたら
かんばんがあって1から6ねんまではげきじょうですとかいてありました。

■8がつ19にち 火ようび

ねておきてあめりかんすくーるへはじめていくとおもったので
あたまバカになりそうになりました。

■8がつ20にち 水ようび

かっぱこーなーはげきじょうでした。
だってきょうはあめがふっていたのでそれはあたりまえのことでした。

■8がつ21にち 木ようび

あしたでサマースクールがおわるのでおわかれかいをしょくどうで
やりました。かわいいこけしをもらいました。

■8がつ22にち 金ようび

やっとおかあさんがむかえにきてくれました。ひさしぶりにあったので
おかあさんは美人になっていました。

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30年前の大冒険。2週間、親元を離れてのサマースクール参加。
たぶん小学生100人近い規模だったんじゃないかな。
日中は水泳やゲーム、英語教室なんかもあって。宿題も持っていってたし。
ちびっこの頃の朝6時から夜8時までの時間って長かったんだろうなぁ。

ひとりっ子で育ったもので、引っ込み思案にならないようにと、
自力と自立を考えてくれていたことに感謝です。
家計も厳しい時期だったはずなのに。
人に聞く前に自分で調べたり、自分から言わなきゃ何もしてもらえないことは
ここで学びました。

2週間の荷物、私の着替えは主にスカートばかりで、ショートパンツを
ほとんど入れてこなかったので、最初のレクで毎日が体育みたいなものだから
スカートはだめだよと言われて、まず大泣きした記憶がある。
同室のお友達が貸してくれて頼もしかった。

1年生の3人部屋で、かわるがわるホームシックになり、
それぞれ夜にピーピー泣いては、かわるがわるなぐさめあっていたな。
たぶん私のピークは8/19。絵日記の絵やまずもってコワイ。文にも疲れが。

そんなんでも、帰りにはそれなりにつよい子になっていたようで、
母が荷物を持ってくれようとするのを制止して、大丈夫!とずんずん前を
歩いていたんだとか。絵にもそんな様子が表れています。
母が美人になっていた、というリップサービス付き。おとなになった。

「水ぶくれ」というものがあることを知ったのもこのとき。
泊まっていたのは日本青年館でした。

 



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1982年1月頃

2010-08-28 18:56:38 | Diary2thepast


「かんたろうの一日」

かんちゃんはわたしの家のペットです。

いつもおりのところにある木に、ぴょんぴょん元気に、
とびはねています。

かんちゃんは、いろんなことをしゃべります。
いつもよくしゃべることばは、「はい」です。

水をあびさせるといつも気もちよさそうに「はい」「はい」といいます。

わたしは、そんなかんちゃんが大すきです。

水あびをさせおわるとかんちゃんがまた「はい」「はい」とうるさくいいます。

おかあさんが、あきれ顔で「もう」というようなことばで「もうおわりよ、おわりよ」
というとまだ「はい」「はい」となお、大きな声でくりかえしました。

こんどはえさを、やったらしずかになりました。

かんちゃんは、めずらしいものを目の前に、おくと、つっついていた、
えさをほうりなげて、めずらしいものの方へむきます。

わたしはそれを右左にうごかすと、かんたろうは、ぴょんぴょん。
わたしはとうとう、目を回してしまいました。

そんなかんたろうの一日がこれです。

かんたろうには、いつまでも、いつまでもわたしの家に、行て、
わたしのあそびあいてでいてもらいたいです。


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原文ママ。「これです」と言い切るだけのことが書いてないよ…

かんちゃんは私が生まれる前から祖父母が飼っていた九官鳥で
私より一年先輩だったのかな。
私が中学3年生の夏に亡くなりました。大往生。

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1981年10月3日(土)

2010-08-28 18:43:08 | Diary2thepast
わたしは、50メートルそうが一ばんドキドキしていました。

6とうの男子の三人ぐみがかけます。それから5、4、3、2、1ときます。
それから女子が6とうの三人ぐみがけけて、また5、4、3、2、いよいよ
わたしのばんです。

よねまる先生が、「よーいどん。」といいました。わたしはかけました。

さいしょはわたしが一ばんでした。だんだんぬかれて二ばんになりました。
わたしは「ざんねんだな」と思いました。

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これで原稿用紙1枚くらい。15×16の240字詰めB4サイズ。
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1981年5月11日

2010-08-28 18:39:10 | Diary2thepast


きのう、ちょうない会のうんどう会がありました。

もちろんわたしもしゅっせきしました。

わたしは、かりものきょうそうにでました。かみには「男の人」と
かいてありました。

目のまえにいたおじさんが「なんてかいてあるの」といいました。
わたしは「男の人」といいました。

おじさんは「じゃいこう」といいました。

わたしは1とうになりました。
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1981年4月頃

2010-08-28 14:48:29 | Diary2thepast
「おばあちゃんのこと」

わたしのおばあちゃんは、朝、早くおきて、家のしごとをやってから、
川さき大しに、かよいます。

字がとても、じょうずで、わたしのおてほんです。

おばあちゃんが、かいたおふだが、わたしのうちにも、あります。

おばあちゃんは、いつも、わたしの、大すきなものばかりおみやげに
買ってきてくれます。それはあんずや、アップルパイや、フライドポテトや、
ゼリーや、そのほかにもいろいろかってきてくれます。
何がいいか聞かなくても、わたしのすきなものを買ってきてくれるから
とても大すきです。

「おかあさん、あんず食べていい。」と聞いたら
「夜、おばあちゃんが帰ってきてから。」と言われたのでがまんしながら、
見るたびに、
「ああ、おばあちゃん早く帰ってこないかなぁ。」とそのあんずが入っている
タッパーをみて思いました。夜、おばあちゃんがかえってきた時には
あんずをたべることは、わすれていました。

しばらくして、おばあちゃんが、「あんずたべた。」と聞いたから、
わたしは、はっとして、大きな声で「まだ、たべてないっ。」といいました。
そうしたら、おばあちゃんが「まっ。まだたべてないの。」といったからわたしは、
「だって、おかあさんがたべるなって言ったんだもん。」といったら
「かわいそうに、たべさせてやればいいのに。」といったら、おかあさんは、ただ
「ハハハハハハ。」とわらっただけでした。でもその時は、あんずをたべませんでした。

おばあちゃん、あんずがなくなったらまた、みほのすきなものを、かってきてね。



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おそるべし、2ねんせい。自由だなぁ。

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