25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

自分ってわからないものだ

2016年04月13日 | 映画

  小学生の頃の通知表は科目別の5段階評価で 段階が最上位最高が5で、最下位胃が1であった。僕はこの小学時代だけはオール5であった。

 鉄棒や相撲をとることが好きで、野球が流行りだしてからは野球もした。授業の合間の遊び時間と放課後が一番楽しい時間で、大人になっていくことなどは考えることもできなかった。

 当時、放課後の遊びに流行があり、カクパンやビー玉などの勝負事も流行が終わったと思ったらまた流行ってくる繰り返す時期もあった。港では鯵釣りもした。

 カクパンにしろ、ビーダマにしろ、才のある奴がいた。勉強はさしてできるわけではないが、あなどれない才能で僕はそのような才はなかった。怖い話をさせたら、芸人よりも上手いのではないか、という女の子もいた。

僕は中学に入った時、野球部にしようかとも迷ったが、結局相撲部に入った。

 何かに特に才を発揮するものもたいていはやがて中庸になる。僕は勉強の方も中庸になり、相撲でもチーム戦では中堅という位置で、とりたてて圧倒的に強いといのではなく、強かったのが三人ほどで並んでいた。

 高校に入るとますます学業がおろそかになり、卒業時には卒業ができるかどうかほどの最下位あたりにいたと思う。ギターを弾いても凡庸であった。ただクラブを作り、クラブ運営で企画を出し、オーケストラにするためにレコードを聴いて写譜をしたり、新しい効率的なギター教則本を作ったりした。大学、社会人となると、自分は何に向くのかだんだんと砂糖水が薄まっていくように、大人数の社会では、小学や中学で見る才能ほどのものは星の数ほどあるものだ、と思ったものだ。20歳ごろは急速に自分がわからなくなっていく時期でもある。

 水泳競技を見ていて若い選手がしのぎを削っている。大した才能の持ち主ばかりの中でさらにその最上位をオリンピックのために選ぶ。それを見て、今の自分を見ると、凡庸なものだ。そしてその凡庸さはどこから来るのだろうと考える。集中力?環境?縁?コミケ力?性格?

 今得意と言えるものは何ひとつない。どれを取っても凡庸である。字は下手。絵が描けない。ギターも難しいものになるとできない。歌も今ひとつ。スポーツはできない。何かの達成感もない。挫折感はある。無理して人と会うことはしない。なんだか、このまま十年も経てば死期に一段と近づいていく。運がよければ医学療法が進歩しているかもしれないが、それまでに間にあうのものだろうか。

 中庸で生きてきて、楽しいことも数多くあった。辛いことも、後悔することもしきりにあった。気分の上昇気流に乗りたいのだが、まだその時期は来ない。心の持ちようの話なのだが。