25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

桜と若葉

2016年04月05日 | 日記

 四日ほど雨が続き、久しぶりに曇り日だったので、桜も終わってしまうと思い、玄工山と元尾鷲工業高校の桜を観に行った。満開は8分咲きらしいから、すでに満開の時期を過ぎているようだったが、十分に花をつけていた。もう今日ぐらいから散っていくのだろう。やはり桜は青空を背景に見えるのがよいと思うし、桜の下にしばらくいるのがよいと思う。テレビで見ていると、奇妙なスタンド式の提灯も、ぶら下がり方型の提灯が桜の時期に出てくる。あれほど桜に似合わないものはないと思うが、どこもそれをやりたがる。これもあそこもやっているから、という真似なのだろう。尾鷲にも一時期玄工山にあったが、今はないので、風情もよくなっている。野生の桜など見たことはない。桜とは人が手を入れて整備されるものだ。どこもかしこも日本は桜である。

 桜が終わると躑躅が咲き始める。根津神社の躑躅はりっぱなものであったことを覚えている。日本には大木で紫色や青色の花を咲かせるものはない。大木での紫の花も見事なものである。バリ島で見たことがある。またフラボヤントという大木に桜のように紅色の花を咲かせる樹木もある。美しい。見たこともない花があると、異国を感じる。去年那覇で見た黄色のゴールデンシャワーにも驚いた。「一夜花」とタクシーと運転手がわざわざ見に連れていってくれた。元遊郭街にあることからか、タクシーの運転手は「儚い花ですねえ」とか言っていた。調べたら、花は一日で落ちるのだが、次の日にはまた新しい花が咲いているということでブーゲンビリアのようなものである。暖かい地域ではこのような樹木の花もある。

 日本人に桜を美として定着させたのは「西行」の歌だと言われている。

  願はくは花の下にて春死なむ その きさらぎの望月のころ

 はあまりにも有名である。

 ところが僕について言えば、なぜこんなに桜で騒ぐのだろうという疑問もある。なぜそこまで儚い、感傷的な花を好むのか。僕は五月頃の緑の雲のように湧き立つ山々の若葉を見るのが好きだ。どうもこころから感傷するという気分がなくなってきているのだろうか。エネルギーが欲しいのだろうか。若葉の季節は待ち遠しい。