25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

三種の神器

2016年08月30日 | 社会・経済・政治

 スマートフォンは便利なものだと思う。1950年代後半、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝された。経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した頃のことだ。電気釜、掃除機がそれ以前に誕生していた。1960年代、「新三種の神器」が登場した。カラーテレビ、クーラー、自動車である。冷戦後、つまり1990年後さまざまな分野で三種の神器が登場した。デジタルカメラ、DVD、薄型テレビである。

パナソニックはキッチンの三種の神器として、食器洗い乾燥機、IHクッキングヒーター、生ゴミ処理機である。こうなってくると三種の神器というには無理がある。

 スーマトフォンの登場は画期的だった。パソコンと連動した。パソコン、スマートフォン、プリンターは三種の神器と呼ばれていいような気がする。

  最低限これらの製品は生活水準上、外すことができないものだろう。もちろん、この中にも不要なものがあろう。ある人は炊飯器は使わない。ある人はDVDは不要と考える。またある人はスマートフォンやパソコンやプリンターは不要である。

 他のものは徹底して消費者個々人の必要性によって選択される。漫画を買う人。ゲーム代にお金を払う人、音楽にお金を使う人、旅行を好む人、外食を楽しむ人などなどとなる。これらは自分のサイフの中で調整できるものである。このところサイフのヒモが緩むろやや景気が上がり、締まると景気はやや悪くなる。やや悪くなると政権が替わる。

 2%の物価上昇に日銀も政府も躍起になり、大判振る舞いをしても2%上昇が達成できない。「ああ、できないんだ」と思い始めると政界が揺らぎ始める。こんな繰り返しですでに25年以上が経っている。思い切って、「耐えましょう」とか「徳政令」を言う人はいない。本当のところ、日本は身の丈にあった縮小社会を目指した方がいいのかもしれない。借金で無理しているなんて、無理があるのだ。捨てる食料が一日に何万トンとでる社会なのだ。それはおかしいというものだ。