益鳥の思いつき放題放談之記

他愛のない話題で綴る無責任放談・・・

偽装擬態ロボットと苛め問題

2006-10-17 14:22:52 | Weblog

自民党内部の流れが,あるいは政府の企みが「中川昭一政調会長」の暴言から推測できる。これは正にほんの一端を露呈したに過ぎないものであることは、今や周知の否定しがたい、加速度を増しつつある事実であり現況なのである。

安倍首相は安全運転を肝に銘じての「暴走癖、きれ易い性格」という鎧を温厚、生真面目、安全運転を装った衣で隠してスタートした、自公連立暴走族内閣期待の暴走族元締めであり、日米相互にリモート‐コントロールされるロボットの臆面もない偽装擬態工作で、当面を恰も切り抜けれるかに過信した「先任小泉譲りの言い逃れ、言い換え、すり替え」優等生的姿勢に徹して国民を先任小泉に続いて欺こうとしている。騙されるじゃないぞ!国民諸君!!!

いじめ・・・は難しい要素を含んでいて、一面的であろうが、多面的に捉えようが、その発生を防ぎ得る手段はおいそれとは見つからない。しかし手を拱いていれば、発生の助長を促すばかりであることはまた明らかなことであるから、何等かの対策を講ずることは必要不可欠である。

先生だけに、あるいは家庭だけに、まかせて済むことでは決してない。生徒自身を含めての三者に加え、周囲の地域住民の協力も含め、情報が表面に浮揚しない潜伏傾向を,敢えてこれに挑み把握できる態勢を整備する必要があるのではないか。

福岡の場合のように、先生自身がいじめ差別の張本人であることなど言語道断なことであるが、先生に拠る生徒へ対するいじめや差別が先ず潜在的に存在することは、古今その存在を否定しがたい現実として、何等変ることなく続いている教育現場の恥部病巣であることもまた現実なのである。

教育の機会均等の歴史と成果は誇れるものの、受験地獄による生徒という人間、人格に対して、その助走路から踏み切り点に至る冷徹非情な選別と階級的差別が、生徒という人間社会の情操を著しく破壊破綻へ導いていることは明白であり、その選別的差別が、優越感、劣等感の派生につながり、果ては行き場のない一つの嗜虐性、排他性を生み、弱者、苛め易そうな奴をターゲットにして自分の不満を転嫁発散させる快感を貪ることになるのではないか。

思えば、先生自身もこの差別的いじめの外にいる人間では決してないのである。先生自身がこの差別的苛めの環状線の中にどっぷりと身を晒して、捌け(はけ)場のない病状に苦しんでいるのも事実ではないかと推測する。即ち解決対処法は簡単なことではない。ただ言えることは、他人へ対する、隣人へ対する「思い遣る心」がその全ての根本にあれば少なくとも、他人や、同級生や、隣人を死に追いやるまでに至らしめる恥ずべき愚行を思い止まることができるのではないかと思うのだが・・・。

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新聞コラム欄&社説より・・・

【核保有論】首相はけじめつけよ

 自民党の中川昭一政調会長が日本の核武装論について論議することは必要との認識を示した。

 北朝鮮の核実験発表を受けて、国内外で日本の核兵器保有に対する懸念が広がっている折でもある。政権党の政策責任 者の発言を看過することは到底できない。

 中川氏は「憲法でも核保有は禁止されていない」とも発言した。平和主義を掲げる憲法が、大量破壊兵器の最たるもの である核兵器に触れていないのは自明の理だ。

 専守防衛の原則、核拡散防止条約加盟国の立場からいっても、核を持てるはずがない。憲法改正が党是とはいえ中川 氏国是である非核三原則に対する認識を疑われても仕方あるまい。

 唯一の被爆体験を背景にした非核三原則は、米の「核の傘」下にあることとの矛盾を指摘する声はあるものの、核廃絶 に向けた日本外交の背骨の役割を果たしてきた。同時に、周辺諸国に安心感を与えてきたのも間違いない。

 もっとも、中川氏と同様の考えは自民党内に古くからあった。岸首相は防衛のため核保有は可能と述べ、佐藤首相は「 日本の核保有が妥当と確信する」が本音だったとされる。

 最近では、2002年に当時官房副長官だった安倍首相が「小型であれば原子爆弾の保有も問題ない」と発言し、関連 して福田官房長官が非核三原則の見直しにつながる発言を繰り返した。

 だが、小泉首相は「どうってことない」と不問に付した。自民党内のどこかに流れる非核政策転換への動きが、今回の 中川氏の発言を生んだとみえなくもない。

 国連安保理が対北朝鮮制裁決議を全会一致で採択したのは、核兵器の拡散に対する国際社会の重大な懸念の表れだ。そ こには、日本など周辺諸国が核武装を含む軍拡競争に走りかねないとの危惧(きぐ)の念も込められている。

 北朝鮮の核保有は日本にとって大きな脅威ではあるが、それに便乗するような発言は厳に慎むべきだ。在日米軍再編に よる日米の軍事的一体化の進展、集団的自衛権容認の動きなどが周辺国の不安につながっている現状を忘れてはならない 。

 自民党総裁でもある安倍首相は核兵器保有を明確に否定し、非核三原則の堅持を強調している。であるなら国内外の 懸念を取り除くため、中川発言についてけじめをつける必要がある。



いじめ
 お笑い芸の世界には「客いじり」という言葉がある。舞台からお客にからんで笑いをとる芸で、邪道ともいわれる。だ が、今のテレビのバラエティー番組は、素人相手や芸人同士の「いじり」芸で成り立っているともいえる▲携帯電話で書 かれた現役高校生の小説という木堂椎著「りはめより100倍恐ろしい」(角川書店)の「り」は「いじり」、「め」は 「いじめ」という。からかいやすい「いじられキャラ」をクラスに作り出し、常に道化役を強いるのが、今の中高生の隠 れたいじめの実情らしい▲「日本国語大辞典」(小学館)で「いじる」を引くと、最初に「弱い者を困らせたり、からか ったり、いじめたりする」とある。もともとが人をもてあそぶ言葉だったのだ。一説には「いじめる」の語源だともいわ れるから、こちらの方が根が深い▲福岡県筑前町の中学2年のいじめによると見られる自殺では、元担任のからかいの言 葉がクラスのいじめの引き金になったのではないかと疑われている。当の教師は遺族に自らの言動を謝罪し、亡くなった 男子生徒は「からかいやすかった」と語った▲からかいやすい誰かをからかって場を盛り上げようというのは、人間集団 ではありがちなことだ。だがそれが教室という閉ざされた圧力釜のような空間では残酷な暴力になる。本当に悔しい屈辱 はそれを自分の笑顔で包まねばならない時であるのも、不快な「いじり」にあった人なら分かる▲「生まれかわったらデ ィープインパクトの子供で最強になりたい」。生徒が死の前にこう書いた時の孤独感、無力感を思えば胸がつまる。だが 同じ境遇に苦しむ子供たちよ、死んではいけない。今は見えないが、君を応援する人はこの世にたくさんいると信じてほ しい。


教育学者の佐藤学さんが、教室の事実の「奥行き」を知った最初…

 教育学者の佐藤学さんが、教室の事実の「奥行き」を知った最初の出来事がある。小学校一年の教室。一人の男の子が 授業中に何度も机を離れて担任にまとわりつく。注意すればするほど、その子はいら立った行動をする。困惑する新人の 担任。授業を観察していた年配の先生は後で「叱(しか)らないで」と忠告した▼その子は右手の爪(つめ)だけ伸びて いた。自分で切っているからだろう。「まずは母親代わりになってあげて。家でもたぶん一人なのよ」。男の子の隠され た「物語」を洞察できる先生がいて、教育は成立する(「学び その死と再生」太郎次郎社)▼福岡県の中学校二年の男 子生徒が自殺した問題では、一年当時の担任の言動が「子どもたちによるいじめの大本になった」(校長)という。担任 は両親に「からかいやすかった」と釈明した。これでは教育にならない▼自殺した生徒は当日の一、三、五時間目の授業 中や休み時間、友人らに「死にたい」と話した。六時間目の美術の授業では、隣の生徒と話しながらスケッチブックに遺 書を書いた。放課後には校内のトイレで同級生に自殺すると告げ、「本気なら下腹部を見せてみろ」と言われた▼夜に自 殺するまで、生徒は言葉に出して繰り返し救いの手を求めた。でも誰も本気にしなかった。洞察力を必要とされる場面で はない。何が必要だったのか▼教育には人の脆(もろ)さや叫びに応答する「ケアリング(いたわり)」が含まれている 、と佐藤さんは説く。ここにもいじめ自殺による悲劇を絶つための答えの一つがあると思う。

2006年10月17日
 ▼先端産業で知られる福岡県は、栃木県と国内トップの座を競い合うイチゴの主産地でもある。「とよのか」の後継品 種として開発したのが「あまおう」だった。

 ▼研究の結晶である品種名が、生徒のランク付けに使われていた。福岡県の男子中学2年生がいじめを苦に自殺した問 題。生徒への言葉によるいじめが指摘される1年時の担任教諭は、生徒を学業成績によって「あまおう」「とよのか」「 ジャムにもならない」などと呼んでいた。

 ▼どんな感じで使っていたのかは分からない。悪気はなかったかもしれない。しかし、生徒を品物のように分類する担 任の思考が、クラスにいい影響を与えるはずがない。まして自殺した生徒を「偽善者にもなれない偽善者」「うそつき」 とののしってもいる。

 ▼「教師の格差意識がいじめを助長している」。わが子を失った父親の言葉は、学校の抱える病巣の一端を突いている ようだ。担任、生徒の加害割合はまだはっきりしないものの、担任の心ない言葉が、波紋のように広がった教室の空気に もただならぬものを感じる。

 ▼「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」。悲痛な叫びを遺書にしたため、東京の男子中学2年生が自殺した のはちょうど20年前。この時も「葬式ごっこ」に担任教諭が加わっていた。教訓がなぜ生かされないのか。

 ▼赤い、丸い、大きい、うまい。「あまおう」は、4つの言葉の頭文字から命名されたという。担任と生徒の関係、教 室の雰囲気は、こんな感じであってほしい。


いじめ自殺 言葉が『刃』となる怖さ
 言葉はときに鋭い刃(やいば)となって、人の心を突き刺す。福岡県筑前町の男子中学生の自殺は、担任の不用意な発 言がきっかけだった疑いがある。いじめを招いた要因解明こそが、教育再生につながる。

 「からかいやすかった」と、自殺した中二の生徒について、担任の男性教諭は語ったというから、何とも言語道断な話 だ。

 生徒の母親が担任にある相談ごとをしたときも、その中身をクラスの中で暴露したことで、生徒は差別的な「あだ名」 で呼ばれるようになった。それらの経緯についても、担任は認めているという。

 担任自らの言動が、いじめを誘発したことになるわけで、教育者として失格なのは言うまでもない。

 運動会でこの生徒が腕にけがをしたと訴えた際も、「おまえはうそをつきよる」というむごい言葉を吐いた。生徒はお そらく自分が突き飛ばされた思いだったろう。

 昨年九月には、北海道滝川市の小学六年生の女児が、教室内で首をつった。その自殺については、一年あまりたった今 月上旬になって、ようやく市教委が、いじめがあったことを認めた。

 そのいじめとは「キモイと言われた」ことだった。その言葉が女児の心を刺した。傷つけられた思いを綴(つづ)った 遺書を残していたが、市教委はずっと公表せず、「いじめの事実を確認できない」と言い続けていた。

 これは市教委による、いじめの「握りつぶし」と非難されてもやむを得まい。猛省すべきだ。

 一九八六年には東京都中野区の中学生が「葬式ごっこ」などのいじめで自殺した事件があった。九四年には愛知県西尾 市の中学生が、やはりいじめで自殺し、社会に大きな問題を投げかけた。

 数々のいじめ自殺の原因は、その前兆を敏感に感じ取る教諭の注意力不足や指導力不足によるのもあるだろう。滝川市 教委のように、いじめの事実自体を封印しようとする風潮が、依然として、教育界の中にあるのも無縁ではなかろう。

 見たくない現実から目を背けるならば、子どもたちの声なき叫びなどとても耳には入らないからだ。教諭の多忙さなど で、一人一人の子どもに目配りできないような現実があれば、それこそ重大な問題だ。

 十八日には安倍内閣の目玉である「教育再生会議」が始まる。教員免許の更新制や大学九月入学制などが論議される。 だが、その前に、むしろ教育現場の現状を直視し、いじめや校内暴力など生の問題に取り組み、議論を深め格闘してほし い。


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