歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

社会科学のための実在論ー第42回ホワイトヘッド学会パネル提題への応答

2020-11-29 | 哲学 Philosophy

 ホワイトヘッド学会パネル提題
Realism For Social Sciences への応答

創造的無と統合的経験の立場から

2020-11-28

田中 裕

 生成の「過程」から実現する「実在」を捉える方法、もしくは論理は如何なるものかーこれはホワイトヘッドの主著 Process and Reality の核心にある方法論的課題でもあった。彼のいう「思弁哲学」の概念の構図は、「絶対的観念論を転換して(経験という大地に根ざした)実在論的な基盤のうえに据えること」(PR xiii)をめざしていたので、具体的な経験から遊離した抽象的な論理を超える方法が要求されたからである。

 

 それは、プラトンの対話篇の精神に立ち返って、弁証法的な理性を再興することでもあり、彼の生きた20世紀の諸科学のおかれた状況のただなかで、「思弁哲学の理念」を掲げることでもあった。

 

 プラトンの対話篇の精神にもとづく「学問」とは―我々の主観的な先入主を超えている「実在」について、「それは何か」と、どこまでも「問い」続けることによって、共に探求する「他者」との対話を通じて、「事がら自体」から「学ぶ」ことであるということができよう。浦井氏の提示された「探求の論理」を、私は、このように理解し、それを今回のパネル討論の出発点にしたい。

 時間の制約があるので、ここでは浦井氏のとりあげた、「ヘーゲル的弁証法との関わりについて」コメントしたい。これについて浦井氏は次のように論じている。

 

ヘーゲルは大論理学において、その徹底したカント批判の中においては「どこまでも問う」こと、その「無限」の 問いの重要性を徹底しながらも、それが「無限」として主語的に語られねばならない宿命がある限り、ありとあらゆる名詞は、固定化され、主語となり、そして「具体性が取り違え」られる危険性と表裏一体に関わっている。そうした不要な(具体性の取り違えが顕著な)主語的名詞を、述語化、関係性化、プロセス化していくということの 必要性が、そこに常にあるのではないか。

 

 ホワイトヘッドの「思弁」(speculative)という言葉を、ヘーゲルの『エンチクロペディー』講義で展開された「論理的なるもの」第三段階の「思弁的」段階と対比する必要がある。ヘーゲルは次のように彼の哲学の方法論を素描している。(たとえば、『小論理学』第79節参照)

  • 抽象的あるいは悟性的な側面: 実定的科学の方法 -経験的実証の肯定
  • 弁証的あるいは否定的・理性的な側面: 実定的科学の批判-弁証論的否定
  • 思弁的あるいは肯定的・理性的な側面: (a)(b)両者をふまえた思弁哲学の統合論

 

私は、ホワイトヘッドは20世紀の科学の状況をふまえて、ヘーゲルのいう「思弁哲学」の理念を復興させた哲学者であると理解しているが、次の諸点を、さしあたって指摘しておきたい。

 

  • ヘーゲル哲学の方法を広義の「弁証法論理」とよび、客観的な弁証法的論理法則があるという考え方は、上記の「論理的なもの」の第二段階を不当に全体化したものであり、弁証法と言いながらも、論理法則をそのまま実在の法則とみなすという如き物象化的錯視である。

  • ホワイトヘッドの方法は、純粋な「有」を論理学の始原とする絶対的観念論の自己展開ではない。自然哲学の運動論と時間論、場所論から形而上学へと移行したアリストテレスと、同じく、統合的にして創造的な経験論の「構想力」による「記述的一般化」が彼の思弁哲学の方法である。

  • 「反対対立するものの統合 (coincidentia oppositorum)」は、矛盾律を否定する「無教養なもの(アリストテレス)」の主張ではない。矛盾律があるからこそ「統合」が要請されるのである。反対対立するものに遭遇することこそ、我々の経験の深さと充実度(intensity)を高める創造的な機会であり、それらを排除し抑圧することこそ、実定的な科学の衰退をもたらすものである。

 

次に、西田哲学の哲学的方法が、社会科学に対して持つ意味について浦井氏は次のように書かれている。

 

そのような問題を表面化するために、例えば西田は、ヘーゲル的「概念」ではなく、「場所」的な論理という言葉を用い、また「私」と「自覚」といったことを(主体性に基づく「働きかけ」の契機として)そこに取り入れ、いうなればヘーゲル的な客観性とも、また解釈学的な主観性に偏った嫌いからも距離を置いた、主客合一、多即一、 一即多、ということを包摂した視座を、導入したと考える。RFSSにおいても、「運動」という言葉、「真知」という言葉、「論理」、「方法」、鍵概念となる主語的名詞に向けては、そのような姿勢が貫かれてしかるべきである。

 

「ヘーゲル的な客観性とも、また解釈学的な主観性に偏った嫌いからも距離を置いた、主客合一、多即一、 一即多、ということを包摂した視座」の重要性は私も認めるが、そこでいう「即」の一語の中に内包された「ダイナミックな転換の論理」に着目したい。

 それは抽象的な「同一性」ではなく、矛盾的「自己同一」という動詞として理解すべきであろう。また、「真理」ではなく「真如」という言葉を使うときには、「理性」によってかえって隠蔽された実在を如実に経験するという意味が込められていると思う。

 西田のいう純粋経験、自覚における直観と反省、場所的論理、弁証法的世界の論理は、「宗教哲学の論理」としてきわめて独創的なものであり、私もそこから多くを学んだが、社会科学の論理としてそれを、納得のいく形でそれを展開することは、今後の共同研究の課題であろう。

次に、社会科学のための実在論に寄せて-経済学方法論についての実在論的覚書(葛城政明氏提題)への応答に移ろう。

 葛城氏の提題は経済学と実在 2. 経済学方法論 3. ヒュームの形而上学的因果性批判と経済学方法論には、現代の経済学者たちの実在に関する興味深いコメントが掲載されているが、時間の制約もあるので、ここでは、4.  バスカー、ローソンの批判5.  実在論から社会と経済の存在論について応答したい。

 

 バスカー初期の科学哲学は、ヒュームとカント、そしてそれに由来する実証主義、論理実証主義、反証主義の流れを、カントの「超越論的議論 (transcendental argument) 」に着想を得たレトリックによって批判し、近代科学の成功の内実を前提とすれば、ヒューム、カントが、そして、論理実証主義者が葬り去ろうとした古代以来の伝統的形而上学、存在論の再構築、再構成が可能であることを論じたものと私は見ている。

 

 ここで言及されているロイ・バスカーの「批判的実在論」ないし「超越論的実在論」の構想には、後期のホワイトヘッド哲学の主題のダイナミックな推移、すなわち科学哲学から形而上学および宗教哲学へという「統合体の哲学(the philosophy of organism)」の発展と並行関係があることに注目しつつ、ホワイトヘッドの議論と対比してみたい。

 

 葛城氏はヒュームの因果性に関する議論を要約した後で、バスカーの実在論を次のように要約している。

バスカーは、この印象-観念のある領域を、「経験領域 (empirical domain) 」と呼び、その中にあるものを「経験(experience)」と呼んだ。そしてさらに、心の外で生じている「事象 (event) 」と、それによって生じている「経験(experience)」のどちらもが、実現 (actualise)しているのであるから、これらをまとめて「実現領域 (actual domain)」と呼んだ。問題は、われわれの世界に存在するものはそれだけかということである。この世界に実現した経験と事象しか存在しないという立場をバスカーは、経験的実在論と呼び、それらは実現していることしか実在の資格を与えないので「アクチュアリズム (actualism)」と呼んで批判した。

 

バスカーによるreal とactual の区別を、彼がA Realist Theory of Scienceで提示した次の図表を手引きとして考察しよう。

Table 1.1

 

Domain of Real Domain of Actual  Domain of Empirical

Mechanisms         レ

Events           レ       レ         

Experiences        レ        レ         レ

 

 バスカーがメカニズム(機械論)で何を意味しているかは、この図表だけではよくわからないが、おそらく決定論的な数学的法則の実在性を意味するのであろう。

 ニュートン以来、物理学は類種的な「実体の実在性」ではなく、微分方程式のような数式で表現される「一般法則の実在性」を前提して、実験室で観測測定される可変的な様々な現象を統一的に説明してきた。近代経済学が「精密科学」としてのニュートン物理学を理想的なモデルとしたとしても、様々な意味で「複雑」な経済現象の決定論的な予測は困難であり、せいぜい確率的なモデルによる蓋然的な結論以上のものは望みえないということは、門外漢の私でも理解できる事柄である。 

それにしてもバスカーの「機械論(メカニズム)」という言葉の用語法が、量子現象の根本的な非決定性や、古典力学の積分不可能性の証明、プリゴジンの複雑系に関する議論などが知られている現代科学の状況を踏まえると、いささか奇異なものに見えるのは私だけだろうか。

  ホワイトヘッドの統合体の哲学では、バスカーとは異なる仕方で、Real,actual,empiricalの区別をしていることに注意したい。

 まずホワイトヘッドの「統合体の哲学」でも、reality(実在性) は、actual(現実的) なものに関連付けられた potential (潜在的)なものにも認められているので、reality の領域は、actuality の領域よりも広大である。しかし、このようなreal potentiality の領域は、決して決定論的な法則のもつrealityではない。量子論的事象の持つ「存在確率」のもつ実在性について、かつて物理学者のD ・ボームは、量子力学は実は「力学」ではなく、「量子非力学(quantum non-mechanics)」と呼ぶべきだと主張したが、ホワイトヘッドの「統合体の哲学」でいうところの「現実的生起を可能ならしめる実在的なるもの」は、決して決定論的な力学モデルが適用されるようなものではなく、様々なレベルで整序された潜在的な諸可能性の持つ実在性である。

 さらに empirical(経験的) という言葉は、「経験する主体を離れては、いかなるものも存在しない」という「根源的な経験論(radical empiricism)」、ないし「汎経験主義(pan-experientialism)」の意味で使用されている。つまり、ありとあらゆる対象(objects)は、今ここで、自己創造的な主体によって経験(肯定的あるいは否定的に把握prehend)されているのであって、そのような主体的経験を欠いた現実性は、「空虚な現実性(vacuous actuality)」であるというのが「統合体の哲学」の立場である。私にとっては、こちらの方が、経験を超える現実とか、現実を超えるメカニズムの実在性を主張する(科学哲学時代の)バスカーの議論よりも現実的な議論であると言わざるを得ない。

 

付録:「統合体の哲学」からみた確率論の覚書
-歴史的に形成された社会と確率判断を下す主体との相互関係にもとづく確率論のために

 

参考資料-1 ホワイトヘッドとケインズとの関係について

 

ケインズの「哲学」を主題化した日本の文献として、伊藤邦武著『ケインズの哲学』(岩波書店 1999)があるが、ケインズとケンブリッジの哲学者との関係に関しては、ムーア、ラッセル、ウイトゲンシュタイン及びラムジーとの交流に焦点が当てられており、ホワイトヘッドについては言及が少ない。

ただし、ケインズが1907年にキングズ・カレッジのフェローに申請するために提出した論文(1921年に出版された『確率論』の原型と言われている)に対して審査官をつとめたホワイトヘッドの以下のコメントは引用されている。

 

「これはきわめて大規模な研究であり、非常に多様な著作を徹底的に読解することで生まれた成果である。ここでは多様な視点が比較され批判されている。その読解において、筆者の精神は一貫して活動的である。…確率をめぐるいくつかの対立する見方の提示や、その提示に並行して展開されている批判的な議論は、卓越したものである思われる。しかし、この新鮮な知識が、主題の哲学に適用されている部分については、私はそれが混乱していて、かなり凡庸なものであると考える。私の判断はおそらく、彼の反対意見にみかかわらず、私自身がヴェンらによって代表される[頻度説の]学派を支持していることから偏っているのだろう。この学派の中心的な主張にたいする彼の批判はおざなりであり、・・・・彼はそれをもっとも説得力のない、独断的な仕方で退けている。また、ラッセルの『数学の原理』に対する彼の関係もきわめて不十分である。一見したところ筆者はその理論を全面的に受け入れている。しかし同時に、彼はこの本の論理的な基盤全体をつぶしてしまう(ように私には思われる)「推論」の理論を主張している。私は思うには、彼はその推論をラッセルの「含意」にきちんと関係づけるか(それは可能なはずである)、それとも、この本の論理的主張にはっきりとした批判的態度をとるかの、どちらかであるべきであった。[1]

 

資料-2:『過程と実在』(Process and Reality以下PRと略記)の「命題論」でホワイトヘッドの確率に対する考え方が示されている。ホワイトヘッドの「命題論」は、アリストテレスの「命題論」とおなじく、時間的様相を配慮した解釈学的命題論であって、時間を捨象した真偽二値の単なる論理計算ではない。つまり、時間の中で生をいとなみ、ある特定の環境社会の中で生きている判断主体の下す蓋然的判断の根拠が問題となっている。

 

以下はPR204からの引用である。

形而上学的な問いを立てよう。帰納的推論ないし一般的な真理判断が、 意味をもって 「正しい」 とか 「正しくない」 とか言われ得るような何かが、諸事物の本性のなかに在るのか?

すべての蓋然的判断が関わっていなければならない究極的な 「根拠」 は、判断する主体において客体化されたものとしての現実世界そのもの以外にはあり得ない、 ということは明らかである。 判断する主体は、 つねにそれ自身の所与に対して判断を下している。 したがってもし統計理論が効力をもつべきだとすれば、 判断する主体とその所与との間の関係は、 その理論が陥りやすい諸困難を避けるようになっていなければならない。

現実的存在は、 どれもその本性上、 本質的に社会的である、 しかもこれは二つの仕方においてである。 第一に、 それ自身の性格の輪廓は、 その環境がその感受の過程のために提供する所与によって決定される。 第二に、 これらの所与は、 その存在に外来的なものではない。それらは、 その存在に内在する宇宙の表示を構成している。 したがって主体が判断を下す所与は、 それ自身、 判断する主体の性格を条件づけている構成要素なのである。 そこで、 経験する主体の性格に関する一般的前提は、 その主体にとっての表示を提供する社会的環境に関する一般的前提を伴っている。 換言すれば、 或る種の主体は、 その具現の予備の相としての或る種の所与を必要とする、 ということである。 しかしそのような所与は、客体化によってもたらされる抽象の下での、 社会的環境以外の何ものでもない。 またこの抽象の性格それ自身が、 その環境に左右される。 仮定されている判断主体に必要とされる種類の所与は、 或る社会的性格の環境を前提している。

 

前の節では、 確率に対する秘かな訴えがなされていたのである。 この節の目的は、 このように呼び出された確率が、 いかに統計的理論によって解明され得るか、 を説明することである。 最初に、 この確率への訴えがどこで帰納の概念の中へ入ってくるのか、 を正確に書きとめなければならない。 帰納的推論は、 つねに一つの仮説を含んでいる。 すなわち考察された主題である環境が、 現在の社会に類似する現実的生起の社会を含んでいるという仮説である。 しかし類似の社会は、 それらそれぞれの生起にとっての類似の所与を必要とする。 そして類似の所与は、 類似の環境によって与えられる客体化によってだけ供給される。 しかし自然の諸法則は環境を統御している社会の性格から導き出される。 したがって当の環境を統御している自然の諸法則は、 隣接した環境を統御している自然の諸法則と或る類似をもっているのである。

 

さて、 「類似」 の概念と 「統御」 の概念とは、 両方とも不確実さの余地を残している。 われわれは、 「どれだけ類似しているか?」、また 「どれだけ統御しているか?」 と問い得るのである。 もし精確な類似や完全な統御があるとすれば、 そこには、 一般的諸条件に関する確実さと特殊な細部に関する完全な無知との混合があることになるだろう。 しかしこうした記述は、 われわれの直接の現在についての、 或いは過去についての知識にも、 未来についての帰納的知識にも、 当てはまらない。 われわれの意識的経験は、 確実さ、 無知、 蓋然性のとらえどころのない混合物を含んでいる。

さて、 宇宙時期(cosmic epoch)の理論は、 現実的存在の諸社会の統御によって、 確率の統計的説明にとっての基盤を提供していることは明らかである。 どの一つの時期にも、 或る秩序づけられた相互に連結した特定の一組の支配的な諸社会が存在する。

またいずれかの社会に属するものとしては分類され得ない混沌とした諸生起の混合状態がある。 しかしいずれかの宇宙時期の巨大な広がりを考慮するならば、われわれは、実際に無限を扱っていることになるのであり、したがって或る標本抽出の方法が必要とされるが、 それはその事例の本質に根ざしているのであって、 勝手に採用される方法ではない。

この標本抽出の自然な方法は、 どれか一つの現実的生起の始原的相を形成する所与によって提供される。 各々の現実的生起は、他の現実的生起を自分の環境において客体化している。 この環境は、 宇宙時期の関連ある部分に制限され得る。 それは、 現実的な諸生起間の個々の相違に関してふさわしい重要性が問題になっている限り、 延長的連続体の有限の領域である。 また、 個々の相違の重要性に関して、 この領域内のそれぞれ関連ある生起の広がりには、 より低い限界があると仮定してもよいであろう。 これら二つのことを仮定すると、 任意の一つの生起にとって関連ある所与を形成する関連ある客体化は、 環境における現実的生起の有限な標本描出に関係している、 ということになる。 したがって外界についての、またその法則が基づく条件についての、われわれの認識は、徹頭徹尾、確率の統計的理論が要求する数的性格のものである。 そのような理論は、厳密な統計的計算がなされることを必要としていない。 この理論が意味しているのは、 せいぜい、 われわれの蓋然性の判断が究極的には数的な意味での 「より多いか、 それともより少ないか」 という漠然とした見積りから導き出され得る、 ということである。 われわれは、 事物がどのように生起するかという仕方の統計的基礎について、 不精確な直観をもっているのである。

 

[1] ホワイトヘッドは、12年前の1895年にラッセルのフェロー資格論文の審査官をつとめたが、審査の席では非常に厳しい批判をする教師であったようだ。幾何学の基礎にかんする哲学的問題をほとんど解決したと自負していた当時のラッセルの資格申請論文に対して、ホワイトヘッドの評価は非常に厳しく、ラッセルは不合格を覚悟したが、あとで合格通知をうけたので、驚いてその理由を聞くと、ホワイトヘッドは「これがラッセルの研究論文をまじめに批評する最後の機会となるだろうと考えた」と答えたとのこと。(ラッセル『自叙伝Ⅰ』より)。

PRの命題論の注解においてホワイトヘッドはケインズの『確率論』を次のように評価している。

 確率の哲学理論についての群を抜いた最高の議論は、 J ・メイナード ・ ケインズ氏の 『確率論』 に見出される。 この著作は、この主題に関する標準的労作として永く残るにちがいない。 本章での私の結論は、 ケインズ氏が彼の著書の第二十一章の末尾に向けて立てた結論と、 根本的に異なっているとは思われない。
しかしケインズ氏はそこでは私が示唆したように、 彼が第八章で厳しく (そしてその特殊な形態に関する限り、 正しく) 批判した 「頻度理論」 の形態に酷似した確率の見方に逆戻りしているように思われる。

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