歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

松本馨さんの手記を読む 2

2005-09-15 |  文学 Literature
 松本馨さんが「小さき声」という無教会のキリスト教の小冊子を刊行し始めたのは1962年であるが、その5年後から、1966年に閉鎖された自治会の再建を呼びかけ始める。 多磨誌には「自由を奪うもの」(1967年4月)「組合が強くなるとなぜ患者は泣くのか」(1967年7月)、「自治会再建に立ち上がろう」(1968年1月)、「再び自治会再建を訴える」(1968年5月)などの松本さんの呼びかけの記録が残っている。

 松本さんは、「小さき声」の発行の他、「多磨」の論説委員も勤めていた。毎年の定期支部長会議には代表として参加したが、当時、盲目というハンディを負いながら、会議に参加したのは松本さんだけだったとのこと。1969年6月に再建された自治会では、総務という面倒な仕事を引き受け、全生園の医療センター化運動の責任者として計画を進めた。傍から見ると、「目の見える人の三人分の働き」と思えるほどであるが、そういう仕事は、實は「失明と四肢の無感覚」という困難な状況の中で為されたものであった。

===================松本馨 「小さき聲」1973/7/29 より===================

ある友へ
         
「小さき声」誌も11年を越えましたが、ある人より、不自由な身で11年続いた秘密は何かと聞かれました。それに対して私は次のように答えました。

 失明と四肢の無感覚のために自分の目と手で書こうとしなかったためだと思います。

 また社会復帰している教会の知人が尋ねてきて、健康なときは自治活動をせず、不自由な身になってから始めたのは何故か、と聞かれました。それに対しても同じようなことを言いました。

 もし、今もなお、健康で目が見え自由に飛び歩くことができたなら、私は自治活動はしないでしょう。私の意志でないからです。 

 不自由な身になって、私の意志で出来たことは非常に限られた機能訓練だけです。それは歩行訓練と、自分の麻痺した手と感覚の鈍くなった口を使って、テープレコーダーにテープがかけられるようになったこと、もうひとつは雨戸の開閉ができるようになったことです。・・・・(中略)・・・・

 私の不自由度が、おわかりになったと思います。私に出来ることと言えば、以上揚げた程度のことです。食事についていえば看護助手さんの介助なしに一人で準備して食べることは出来ません。私は幼児のようなものです。このような極限的状況のなかで、自治活動は不可能です。人間的に言えば自治活動はおろか、生きていること自体が絶望的であり、自己の存在も無意味性に悩まされましたのが回心前の私でした。

 しかし、回心後といえども私の身に変化が起こったわけではなく、客観的には、絶望的状況にあります。その私が自治活動しているのです。どうしてそれができるのでしょうか。自治活動は精神的にも肉体的にも重労働です。健康なものでも避けて通りたいのが普通です。

 健康で目が見え、自由に飛び歩くことができたなら自治活動はしないといったのは、こうした労苦を知っていたからなのです。

 では、なぜ極限的状況に置かれたことが、その可能性を生んだのでしょうか。それは回心と無関係ではありません。キリストとの出会いということが決定的な役割を果たしているのです。

 それはキリストとの出会いによって、自己と世界とに死んだことを意味します。イエスの死に会わされたこと、そして又、イエスの生に会わされたことです。すべてがこの一事から始まっています。

 もしイエスの死と生に会わされていなかったならば、自己の生の空しさに耐えきれず、自らの生命を絶ったでありましょう。

 私は、この世界はイエスの死によって、あがなわれた神のものだと信じています。

 神はこの世界に陽を昇らせ、雨を降らせるように、神を信じないものも、信じているものも、神の支配の下にあります。

 したがって直接、信仰に関わりのないこの世的仕事であっても、神の支配の下に行われているのだと言えましょう。

私は、福音にたずさわる仕事が聖で、この世の仕事が俗だとは思いません。神の支配の下にあるとすれば、またこの世界がイエスによってあがなわれているとすれば、この世の仕事もまた聖でありましょう。俗もまた聖でありましょう。このことが明らかになるのは、世の終わりの日でありましょう。

 キリストの来臨によってすべてが明らかになりましょう。この世の俗にたずさわっている私の最後的希望は終末的希望であり、キリストの来臨であります。

 ボーンヘッファーは成人した世界のことを語っていますが、信仰と世とを分離する時代はすでに去ったのではないでしょうか。

 現代は政治、経済、文化のあらゆる分野で、キリスト者が自由に大胆に、しかも積極的に参加できる時代ではないでしょうか。

 イエスの活動の目標は取税人や罪人、また病人や障害者、寡婦など宗教の枠からはみ出した人達に真の信仰を与え解放することにありました。その極限の行為が十字架でありましょう。イエスの死が、世界のすべての人を死と罪から解放したのです。私達はイエスの死と生をこの世に持ち運ぶための努力をすべきではないでしょうか。

 彼の死と生が不可能を可能とし、絶望を希望に、暗黒を光に、無を有に変革しましょう。無意味性の生から可能が生まれましょう。
 
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