歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「 いのちのパン」-「主の祈り」の第四の願いについて

2009-12-21 |  宗教 Religion
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
(マタイ伝 6.11)

聖書協会口語訳:わたしたちの日ごとの食物をきょうもおあたえください。
新共同訳:わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

ここで「日ごとの」糧ないし「必要な」糧と訳されたギリシャ語 ἐπιούσιον(エピウーシオン)は、新約聖書の中では、マタイ伝とルカ伝の主の祈りの該当箇所にしかでない稀な言葉であり、コイネーのギリシャ語でも他に用例を見ることのないことが古くから知られていた。(最初に指摘したのはオリゲネスのようである)。他の様々な邦訳と近代語訳を参照したが、おおむねは

  毎日必要なパンを今日もください

という意味にとっているようである。「毎日必要なパン、生きるのに必要なパンを今日も下さい」、というのは実にわかりやすい解釈であるが、マタイ福音書の文脈に於ける主の祈りの解釈として、それで果たしてすむであろうか。何か大切なことが見落とされてはいないだろうか。

マタイは主の祈りの直前に「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」というイエスのことばを置いている。つまり、異邦人のようにくどくどと言葉数を多くして祈るな、「隠れたところにおいでになる父に祈れ」という文のあとに主の祈りが出てくるのである。

さらに、主の祈り6-11 のでる「山上の垂訓」の後の箇所 6-24 では

「何を食べ、何を飲もうかと、自分のいのちのことで思い煩い、何を着ようかと自分のからだのことでおもいわずらうな」 

という言葉が出てくる。「何をたべるか、と思い煩うな」という言葉は、神が自分を必ず養って下さることへの信頼である。「空の鳥、野の花の装い」を例に出してイエスは語っている。その無条件の信頼の言葉と比較すると、

「毎日食べるパンを今日も下さいね」

と「念を押す」ようなことは、マタイ伝の山上の垂訓のメッセージの主調音と調和していないのではないか? 

ヨハネ伝になると、マタイ伝よりもさらに徹底して、物質的な意味でのパンのみにこだわる人々を批判する言葉がイエスの口から語られる。

「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが私を尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンをたべて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命にいたる朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子が、あなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子それをゆだねられたのである。」
(ヨハネ6-27)

ヨハネは、次に、約束の地に向かう民に天上からのマナが与えられたと言う群衆の言葉を載せる。

「わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」(ヨハネ6-31)

そしてこの旧約の故事を受けたイエスの言葉は

「天からのパンをあなたがたに与えたのはモーゼではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えたのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである。」(ヨハネ6-32-33)

そして、この後で「いのちのパン」という大切な言葉がイエスによって語られる。

彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい。」
イエスは彼らに言われた。「わたしがいのちのパンである。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。」
(ヨハネ 6-35)

ヨハネのこの言葉は、天上より下されたマナが約束の地にむかうユダヤの民を生かしたように、感謝の祭儀(聖餐式)におけるパンが、キリストに従うものを生かす「キリストの身体」であることを述べたものである。言葉が受肉し、そして受肉した言葉が、「いのちのパン」となってひとを真に生けるものとすること、けっして飢えることも渇くこともないこと」を示している。ヨハネは、地上の食べ物のためではなく、「永遠のいのちに到る朽ちない食べ物のために働く」ことをすすめるのである。

 キリスト者は旧約の「過越の祭り」を刷新した。「エジプトの肉鍋」を懐かしむユダヤの民に、隷属から解放された民に相応しい「天上のマナ」が与えられたように、新しい契約を記念する「感謝の祭儀」(聖餐式)の「いのちのパン」も「天上から下ってこの世にいのちを与え」、キリスト者に自由をもたらすのである

さて、この「感謝の祭儀」において中心的な役割を果たす「いのちのパン」は、イエスその人に由来する「主の祈り」に登場するパンと無関係であるのだろうか。

ここに、教父時代からの伝承に基づく「主の祈り」の別の翻訳があることを認識しておくことは重要である。そして、カトリック教会の典礼では、「感謝の祭儀」の時にかならず、主の祈りを共同で唱えることとなっている。つまり、感謝の祭儀のなかでは、マタイ伝の山上の垂訓にさかのぼる伝承と、ヨハネ伝の「いのちのパン」にさかのぼる二つの伝承が統合されているのである。

現代のカトリック典礼で使われている主の祈り
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
のラテン語訳は
Panem nostrum cotidianum da nobis hodie
(私たちの日ごとのパンを今日お与え下さい)

であるが、伝統的なラテン語訳(ヒエロニムス訳)は、
Panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie
(私たちの命のパンを今日お与え下さい)である。

ここでsupersubstantialisというラテン語は、ある意味でギリシャ語の直訳である(エピ=スペル、ウーシア=スブスタンチア)。ウシアを生存=生きる という意味にとれば、「生きるのになくてはならない」という意味となるので、ここは、日本語で言うならば、「いのちのパン」と訳すのが妥当であろう。

ここで、さらに興味深いのは、「いのちのパン」とは、感謝の祭儀の聖体を象徴する言葉でもあるということである。実際に、この supersubstantialis という言葉の スブスタンチアには、実体という意味もあるから、スペルスブスタンチアリスは超実体的ないし超自然的という含意も存在するのである。

カトリック教会では、聖体拝領のときにパンが聖別されたときに実体変化してキリストの身体となるという教義が後に生まれたが、この教義の成立は福音書の成立よりも後の事柄である。しかし、そのような解釈の源流に、聖体を天上よりのパンとして、また「いのちのパン」として拝領する伝承があったことは事実であろう。

ヴルガタ訳の、主の祈りのパンは、旧約聖書の「天より下ったマナ」のように、「超自然的な」「いのちを与えるパン」である。終末論的意識を持って、毎日を暮らしていた原始キリスト教者にとって、今日明日のパンに不自由することもあったであろう。そのような信徒を勇気づける祈りであったとすれば、ここのパンは、あきらかに永遠のいのちを与えるパンと見なすことが出来るのではないか。

「日用の糧」や「日ごとの糧」では、ヨハネ伝で言う「いのちのパン」のもつ重みが十分に表現されないし、マタイ伝に於ける祈りの精神とも調和しないし、原始キリスト教に於ける終末論的な「御国の到来」を希望する「今日」の祈りの精神にも合致しないだろう。
(聖書協会訳の「今日も」の「も」は原文にはない。エピウーシオンを「毎日食べるパン」と訳したために、訳者が「も」を補っているのである)

私は、以上の考察から、主の祈りの第四の願いは、

「私たちのいのちのパンを今日お与え下さい」

と唱えるのが最も適切である、と思う。
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