三 晩年の新渡戸と日本の軍国主義
新渡戸稲造の晩年におきた松山事件の経緯をたどることは戦時に於ける軍国主義批判が当時の日本においていかに取り扱われたかを知る上で興味深い。満州事変以後、政府の不拡大方針の声明にも関わらず日本は軍部の独走によって泥沼のごとき戦争に深入りしていった。この暗黒の歴史のただ中において為された新渡戸の発言は、現代ならばきわめて正鵠を得たものとして 評価される種類のものである。「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」というのが新渡戸の真意であったが、それは、文字通りその後の歴史の歩みを先取りしているからである。この警世の発言は、残念ながら、当時の超国家主義の世論のまえでは、新渡戸の不用意な「放言」として処理された。狂信的な右翼によって生命の危険を感じた新渡戸が、帝国在郷軍人会で陳謝するというかたちで決着がはかられたそのいきさつは、現在に至るまで改められているとは言い難い日本の「斉一主義」の思想的圧力を思わせるものである。
しかしながら、後世のものにとっていささか不可解なのは、新渡戸が、この松山事件の後に私人として渡米し、米国で日本の外交政策の正当性を弁明する発言をしていることである。なぜ、新渡戸は、対日感情が最悪であった時期のアメリカに出かけたのか。そして、そこで、なぜ、満州国の建設が日本にとって必要であったことを訴えるなど、日本の帝国主義を擁護するような発言をあえて行ったのであろうか。その結果、彼は米国に於ける多くの友人達の信頼を裏切ることになるのであるが、この矛盾に満ちた言動を理解するひとつの鍵が、新渡戸が編集余録に託した次のような告白にある。>
私の訪ねるべき国(アメリカ)は、全く暗黒と見えた。私はいわば目をこらして、私を導き慰めるべき光りを探した。一条の光線も見つからないので、私の心はうち沈み、その任務を放棄したい気になった。そのとき、一つの声が私のうちで叫んだのだ――行け、汝のうちなる光りをたよりに。私は大いに勇気づけられた思いがした。というのも、私の心中、利欲や野心はひとかけらも宿してはいなかったからだ。
米国において日本の立場を弁明することがいかに困難であっても、それが自己の義務であると考えたことが上の記事から伺える。新渡戸の米国での弁明にたいして、「新渡戸稲造博士にたいする公開状」と題する記事を出したR・ビュエルは「あなたほどの経歴の持ち主がこのようなことを自分の意見として述べるとはまことに情けない」とのべ「現在の日本の政体を考えた場合、あなたが沈黙してしまうというなら我々は理解できるが、まるで無批判に日本の軍国主義を弁護するという態度は理解できない」と批判した。
たしかに、個人の良心を国家の要請よりも重んじる欧米の個人主義の視点からすれば、なぜ新渡戸が日本帝国の政策の弁護をあえて米国で行おうとするのか、理解しがたい事であったろう。しかしながら、新渡戸は「内なる光」が、米国に行くことを彼に命じたと言っている。
この「内なる光」とはいったい何を意味したのか、それは、もともとクエーカーの用語であったが、この文脈では新渡戸の考えた「日本人の魂」に内在する光、すなわち帝国臣民として武士道を説いた新渡戸の歩むべき道を照らし出す光を意味すると見て良いだろう。米国で日本のために弁護するという誰も望まぬような困難な役割を引き受けることが、天皇に仕える一臣民としての自己の義務であると考えたことが新渡戸を渡米させた最大の理由のように思われる。それは、日本の国内だけで通用するような偏狭なる愛国心の宣揚のために謝罪を迫った在郷軍人会にたいする新渡戸流の答えでもあったのかもしれない。しかしながら、そのような新渡戸の苦渋に満ちた選択は結局実を結ぶことなく、彼は、失意のうちに帰国を余儀なくされる。その直後に、日本は国際連盟を脱退を通告し、世論もまた、急速に超国家主義へと傾斜していく。渡米の結果を昭和天皇に報告した一週間後の太平洋クラブでの昼食会で、新渡戸は、国際連盟を離脱した政府の外交政策を基本的には支持しつつも、「連盟が世界の将来の福祉にとって最大の希望である」という彼の信念を吐露している。そして、この信念とは矛盾する政府の諸政策を、帝国の一臣民として国外に対して支持し続けるという甚だしき矛盾をついに解決することなく、彼は米国で客死したのであった。
新渡戸にとって、クエーカーの言う「内なる光」の日本民族に於ける現れは、日本人の魂に内在し、その倫理的な行動に指針を与える武士道の精神であった。新渡戸は『武士道』の序文の中で、そういう趣旨のことを個人的な信念として示唆しているが、各民族が、キリスト教が伝道される以前に、その民族固有の「旧約」をもつという思想そのものは、決して特異なものではない。問題は、そのいわゆる各民族の「旧約」から「新約」への「転換」がいかにとらえられるかということである。ヘレニズム時代のギリシャやローマも、またキリスト教を受け入れたゲルマン民族も、それぞれの民族の宗教的伝統とキリスト教との関係の問題を考慮しないわけにはいかなかった。カトリックのキリスト教には、「恩寵は自然を破棄せずにかえってこれを完成させる」という有名な定式がある。これはキリスト教伝道以前の「自然なる立場」において為された倫理的かつ文化的な伝統を全面的に否定することなく、これをキリスト教を準備するものとして再解釈する道を示している。新渡戸の思想は、クエーカーの「内なる光」という考えから影響されたものであるが、それは、キリストによって与えられた神の恩寵は、遡及的にキリスト以前のキリストを知らぬ民族の間にも、それと自覚されることなく働いたという神学思想(retroactive grace)に立脚しているように見える。歴史的にあとからくるものが先立つものに影響を及ぼすという恩寵の働きとは、古き道徳が本来言わねばならなかったことが何であったかがキリスト教の福音に接して、はじめてよく了解されると言うキリスト者自身の経験に基づくものであろう。歴史をいまだ完成されざる絵画にたとえるならば、新しく付け加えられた色調が、画の図柄そのものを一変させてしまうことは十分に起こり得る。したがって、武士道という古き物語の描かれた画が、キリスト教の宣教に接することによって、その面目を一新するということを新渡戸が期待したことには決して不自然ではない。
しかしながら、武士道からキリスト教の福音への転換とは、単に古きものの価値を新しきものにおいて再発見すると言うだけではない。もともと旧約から新約への転換とは、民族ないし国家は個人の忠誠の捧げられるべき究極的な対象ではなく、それを乗り越えて、異邦人もユダヤ人も差別することなく神のまえに平等であるという立場に立脚するものであった。キリスト教とは、その意味では「普遍の信仰」なのであって、その「普遍」は、民族や国家という「種的な特殊性」を媒介とするものではあっても、それを越えて人類の立場に立つことを要求するものである。この世界宗教は、第一義的には「個人」と「普遍」との間に成立する。天皇に忠誠を誓う武士道という「古き契約」は、あくまでも「種的特殊」にほかならぬ立場を絶対視するものである以上、それに固執することは、キリスト教の見地からすれば偶像崇拝なのである。
宗教において、普遍と個を枢軸として考えるか(世界宗教)、あるいは、種的存在、すなわち民族や国家のような共同体を枢軸として考えるかという問題は、新渡戸稲造と同時代の哲学者であった西田幾多郎と田辺元との間の論争点の一つでもあった。新渡戸の場合には、これは哲学の思索の問題としてではなく、むしろ実践上の困難な課題であったと言えよう。
キリスト教信仰を通して米国人の女性を妻とし、外交官として、日本と米国の間に「太平洋の橋」を築かんとしたこと-これは新渡戸の生涯の中に、家族や民族という「種的特殊」を越える普遍的なるものの促しがあったことを示している。『武士道』は英語で書かれた書物であるが、日本の文化について英語で書くという作業もまた、そのような普遍的な視座を要求したものと思われる。しかしながら、次第に国家主義へと傾斜した日本の歴史自体が、そのような自由な立場から「太平洋の架け橋」となることを新渡戸に許さなかったし、新渡戸自身も又、日本の超国家主義を、キリスト教の普遍的立場から批判することは出来なかった。日本という「旧約」のもつ限界が露呈されるためには、近代日本の挫折に他ならぬ敗戦という事態を待たなければならなかったのである。