歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

松本馨さんの論説を読む

2005-09-14 |  文学 Literature
1986年「多磨」4月ー7月 に4回に分けて連載された「いのちの重み」という論説を紹介しよう。この時期、松本馨さんは、薬害(サリドマイドの後遺症)で病床にあり、おそらくは遺書のつもりで、この文を(口述筆記で)纏められたと思う。「ラザロ・恩田原」というペンネームは、「この病は死に至らず」という松本さんの著書を暗示しているようだ。

この文書は、「自治会会長」としての肩書きをはずして、戦中・戦後を生き抜いてきた匿名の「一療養者」の立場から、未来の「21世紀の日本の読者」へむけて書かれた松本馨さんのメッセージである。

この文書を発表したときの全生園は、まだ光田健輔の縁者が園長を務めていた時代であったが、松本さんは、實に明快率直に、「光田イズム」の批判を書いている。

「いのちの重み」ラザロ恩田原(松本馨)「多磨」誌1986年4-7月号から抜粋 

戦後四十年を経過して、国際的にも悪名高いらい予防法が今もなお存在していることに、今さらながら驚きをおぼえるとともに、改正できない原因がどこにあるのか、改めて考えさせられた。全患協は、らい予防法改正の是非を会員に問おうとしているが、そのような方法は問題の本質をついているとは思えない。隔離とワゼクトミーによって、患者とその子孫の撲滅をはかった行為は、ある人種は有害であるからと、ヒットラーは、六〇〇万人のユダヤ人を殺戮したが、その思想とどこかでつながっているようである。
 私がこれから問題にしょうとしているのは、このような思想の生まれた背景と、改正の障害となっているのは、厚生省なのか、現場の所長なのか? 全患協なのか? それとも他に決定的な要因となるものがあるのか、ということである。」
という文によって、松本さんの「いのちの重み」は始まる。そして、日本の過去の癩医療政策を回顧し、所謂三園長証言や、国際らい学会での宮崎発言などを引用した後で、次のように問題点を整理している。
宮崎発言からさらに二十年近くが経過しているが、光田が敷いた隔離撲滅政策のレールをライ学会は基本的には忠実に守っている。これに対して、学会からの反論があろう。我国では既に解放政策をとり社会復帰や外出の自由を認めているではないか。政府も同じような考えをもっていると思うが、我国は法治国家であり、らい予防法の骨旨となっている医療差別も今日なお生きている。WHOが非難するのはこの点なのである。一度らいの宣告を受けた者は、永久にらいの刻印を押れ、公けには健康保険は使用できない。患者はらい療養所以外では医療を受けることはできないからである。社会復帰者が健康保険を使用できるのは、もとらい者であることを隠しているからであり、公けに利用している訳ではない。現行予防法の改正ができない原因はどこにあるか。厚生省の体質によるか、らい学会の保守性にあるか、国民の合意が得られないところにあるのか。私はこの問題の原因とらい行政の責任を追求しているうちに、日本人の国民性に目を開かれ、思いがけない結論に達し愕然とした。私が、「いのちの重み」で問題にしたのはこの一点である。(中略)
 独占企業化したらい学会の隔離撲滅政策を医学上の立場から批判できる機関を大学はになうべきものと思うが、それがないということほど患者にとって不幸なことはない。京都大学皮膚特研があるが、規模が小さく、らい学会を批判できる力はないように思える。国際的に批難を浴びながら戦後四十年経ってもらい予防法の改正ができないのはこれがためである。せめてマスコミが国際感覚をもって正しい報道をしてくれればと希うが、患者弾圧をした所長達に種々の功労賞を送り結果的に隔離撲滅政策を奨励している。市民の一人は<私たちが健康で暮らすことができるのは皆さんのおかげです>といった。国民を代表する声であろうが、なんのことはない。犠牲になった患者に感謝しているようで、実は隔離撲滅政策を推進した所長達に感謝しているのである。これは日本的発想なのであろう。私は、所長達が医学上の名の下に患者を弾圧した数々の事例を上げて機会あるごとに訴えてきたが、すべては徒労に終った。日本人は「人・全世界をもうけるとも、己が命を損すれば、なんの益かあらん」という聖書のことば、「人の命は地球よりも重い」ということがわからないのではなかろうか。日本人の思想の土壌となっているものは汎神論で八百万の神々とみ仏につかえることからきている。多数の神々とみ仏につかえることから自己否定的な生き方が生まれ、己が欠落してしまうのである。日本人と対照的に欧米人が個人の基本的人権を重視するのは、キリスト教の唯一神教からきている。唯一の神とひとりの人間が義をめぐって対決し、それによって神は神となり、人は人となって自己を確立するのである。
松本さんがこの論文を書いていた頃、中曽根総理の靖国神社参拝に対して中国の学生達が猛烈な抗議デモをした。現在とよく似た状況にあったわけだが、この問題に関して松本さんは次のようにコメントしている。
中国に対して侵略戦争を起こした指導者たちが一般兵士とともに祭られている靖国神社に中曽根首相が参拝することは、侵略者たちの行為を肯定することになるが、抗議を行った中国学生の感情が日本人には理解できないのである。侵略戦争を起こした個人的責任が日本人にはほとんど理解できないからである。それは養蜂的滅私奉公の構造からきている。第二次世界大戦に敗れたとき、一億総懺悔ということがいわれた。これは一億総国民一人一人が罪を悔い改め懺悔しているということの意味であるが、実際はそれとはまったく逆に一億総懺悔のことばによって個人の懺悔は問題にされず、結局は誰も懺悔していないということなのである。 これが日本的思考であり、養蜂的なのである。
松本さんは、当時の社会状況、教育の荒廃や、弱者への容赦のないイジメの構造などについても言及している。
GNPが戦後世界第二位となった現代に生きる日本人は、養蜂化社会でますます自己を喪失しつつあるように思える。自殺者までだしている子供たちのイジメの問題もこの養蜂的社会において起こっている現象なのである。子供の働きバチ集団のなかで、なにかの原因で行動を共にすることのできない子供がイジメの対象となっているのである。このようなイジメは欧米の子供たちの間にはないという。日本独特の現象なのである。このイジメの問題は養蜂社会がわからないと理解しにくい。子供たちのイジメの問題が社会問題となるまえに横浜で中学生による浮浪者のイジメがあった。中学生たちがなにかおもしろい遊びはないかと捜していたところ、浮浪者が目についた。おもしろいから殴って遊ぼうと中学生たちは棒切れで浮浪者を襲った。浮浪者は悲鳴をあげながら悶え、苦しむ様をおもしろがり、公園に寝ている浮浪者を捜しだして次から次へと襲い、それによって死に至る者もあった。この衝撃的な事件は社会に深刻な波もんを投げかけた。学校・父兄・文化人・マスコミ等様々な立場からこうした暴力を生みだす背景と環境が問題となり、隣人愛や道徳を教えることの是非が論じられた。しかし、浮浪者を放っておくことの大人の責任については全々ふれられなかった。働く気力のないこの浮浪者は、やがては飢えと冬の到来によって死んでゆき、野犬や野良猫の死体と同じように市の係りによって片づけられてゆく身なのである。この人達を救済することは、大人の責任ではないのか。放っておくことは子供のイジメよりも残酷なイジメに思える。
松本さんは、次に、再び、光田イズムの問題点に立ち返り、次のようなメッセージを書いている。松本さんの現在の我々対する遺言として、傾聴したい。
光田・林などの隔離撲滅政策はこうした歴史的背景を考えるとき、一概に非難できない面もあるが、私が光田等を糾弾するのは個人の基本的人権を保障した民主憲法下にあっても、彼等は以前として隔離撲滅の姿勢を崩さなかっただけでなく、世界は我国の隔離撲滅政策を見習うべきであると公言していることである。また、光田の撲滅政策を支持している医師の多いのも養蜂的構造からくるものであろう。我々の組織である全国ハンセン病患者協議会は、予防法の是非を会員に問うているが、七五〇〇人のうちその大半はすでに七十歳を超えて予防法改正には批判的である。その理由は、予防法が改正されれば養療所にはいられないと思いつめているのである。横浜の中学生達によって石ころや棒切れで打ち殺された浮浪者と自分を重ねてみているのである。老人たちは、戦前の浮浪時代を実際に経験し、あるいは見聞きし、我国の養蜂的構造の何であるかを体で知っているのである。
 また、全医労傘下の職組は、危険手当改正の動きを察知して反対の署名運動をすすめている。自己の利益の為には患者として永久に予防法によって拘束しておけということなのである。私は「いのちの重み」が現代人に理解されるとは思っていない。らい患者の書いたものとして問題にされないだけでなく、気違いか被害妄想患者の書いたものとして無視されるであろう。それを承知の上で書いた。現代人に向かってではなく、二十一世紀以後の人間に向かって書いたのである。おそらく、この養蜂的構造は二十一世紀には崩壊し、各自が自己意識に目ざめるであろう。そのことが起こらなければ養蜂民族は国際社会の一員として二十一世紀には生き残ることはできないからである。自己意識とは、人の命は地球よりも重いという個としての自己を確立することである。(中略)私はこの小論文を二十一世紀の遺言として送ることにした。おそらく想像に絶した最後をとげていった収容所の先輩たちは、私のこの考えに同感してくれるものと信ずる。
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神谷美恵子について

2005-09-14 |  宗教 Religion
神谷美恵子の戦中日記(「遍歴」 神谷美恵子著作集9 169頁)によると、当時の長島愛生園では、療養所内部でも、「有毒地帯」と「無毒地帯」が截然と分かれており、その境界を越える場合には、次のような厳格な消毒作業が義務づけられていた。
ここ(昭和18年の愛生園)では、健康者の活動する区域と患者のいる区域が判然と分けられており、両者の間には厳重な消毒網が設けられている。その順を示すと
はいるとき--
(1)本館から風呂場の脱衣所に行って衣服を脱ぎ、次室でモンペをはく
(2)次室で上衣、帽子、マスクを付ける(3)試験室を出て診察棟および患者の住居区域に至る
出るとき――
(1)消毒液に浸された靴拭きマットで靴を拭く(2)準備室で手を洗って消毒(3)次室で上衣、帽子をとる(4)次室でマスクを籠の中に投げ入れる(5)次室で足袋、靴を脱ぐ(6)次室で足を消毒液に浸す(7)次室で顔を昇汞ガーゼで拭く(8)次室でモンペを脱ぎ、足をリゾール液につける(9)風呂に入って衣類を全部取り替える(10)消毒液でうがい
医師も、看護婦も、この「出入り」を日に二回繰り返す。
つまり、患者達の生活空間と医師や職員達の生活空間とは完全に隔離されており、一方から他方へ移動するときには、(1)から(10)のような煩雑な手続きーそれが果たして充分な医学的根拠に基づいていたかは別途に考察したい-が要求されていたことが判る。

  戦前の国立療養所の管理方式の特徴の一つは、絶対隔離・終生隔離の原則であるが、隔離は、療養所の内と外にとどまらず、療養所の内部においても、「有毒地帯」を「無毒地帯」から差別隔離したうえで、その二つの地域を往還するさいの消毒の実施である。消毒を徹底的に行うことによって、職員や医者・看護婦への感染を防止するという思想がそこにあるが、このようなペストやコレラにも比すべき消毒と隔離が、はたして、医学的に必要であったのかという事に対する批判的な視点、また、強制隔離が患者の人権をいかに抑圧するものであるかという視点は、神谷の手記には全く見られない。

 我々は「小笠原登の医療思想」において、1930年代において既に小笠原が、「らいは強烈な伝染病である」という思想を医学的な根拠のない迷信として斥けたことを知っているし、夫婦間でらいが伝染した統計的事例がいかに少なかったという事も知っている。そういう視点から見ると、国立のらい療養所で、このような極端な消毒と差別的な隔離が徹底されていたことの当否は、当然、問題とされるべき事であった。

 医学生として戦時中の愛生園を見学に行った神谷は、病院の医師達による患者の遺体解剖にも立ち会う。当時、(そして敗戦後、かなりしばらくの間もそうであったが)国立のらい療養所に入所する患者は、すべて、入所時に、死後、遺体解剖されることに同意することが義務づけられていた。そして、神谷は、当時の療養所では、結婚の条件として、断種手術が義務づけられていたことにも言及している。つまり、戦前の日本の公立のらい療養所においては
(1)「健康地区」と「汚染地区」との療養所内に於ける分離と両地区を出入りするときの消毒の徹底
(2)入所者全員に、死後遺体解剖に付されることを承諾させる
(3)結婚を認める条件として断種手術を行う
という顕著な特徴があり、諸外国のそれとは截然と異なっていたのである。そして、らい予防法に依れば、隔離は強制的であり、入所規定のみがあって退所規定がなく、軽快退所は例外的であって、原則として死ぬまで療養所に隔離することがめざされていた。療養所に宗教地区があり、納骨堂が設置されたのはその間の事情を物語るものである。

この戦中日記を、60年という歳月を経た上で読み直すと、未だ充分に論議されているとは言い難い様々な問題が伏在していることに気づく。

そのひとつは、前に述べたように、「健常者」と「患者」との間の極端な院内隔離と、強制収容・断種という当時の「救癩」政策の根本原則に対して、神谷が全く批判的な視点を持っていないと云うこと、そして、毎日、患者の遺体が次々と荼毘に付されるという異常なまでの患者死亡率の高さについても、それを強制収容のもとでの患者作業の過酷さと結びつける視点を全く欠いていると云うことである。それに対して、神谷の「戦中日記」を貫く基本的なトーンは、所長の光田健輔にたいする彼女のほとんど絶対的と言っても良いほどの信頼・帰依の感情である。日記の中には、遺体解剖に立ち会ったときの記述のような、医療の客体としての患者に対する記述ばかりがめだち、主体として語るのは療養所の医師達ばかりである。そして光田やその門下生がいかに賞賛すべき医師達であったかという記述に満ちあふれている。

ところで、この戦中日記が公開されたのは昭和18年当時ではなく、それから20年も経過した後である。このように、わざわざ20年後に昔の記録を出版することになった事情については、神谷自身が理由を述べているが、要するに、戦争中の愛生園の状況、とくにそこで勤務していた医師達がいかに献身的で素晴らしい人物であったかと言うことを伝えたいという意図があったということであろう。

20年の歳月、そのあいだには、患者自身による「らい予防法」に抗する闘いがあり、戦前と戦後人権無視の政策に対する抗議と共に、光田健輔とその門下の医師達の「救癩」政策に対する批判が行われるようになったが、そういう人権の問題に対する神谷自身の考え方は怖ろしく冷ややかである。たとえば彼女は次のように云う。
過去に於いて強制的に隔離されたという意識は、患者の多くのもののなかに、社会及び政府当局に対する深い恨みの一念を植えつけたようにみえる。これに対する代償として終生、医療と生活保護を受ける権利があるとの主張がここから生まれている。この特権意識は、時折強い個人攻撃性や特定の要求を主張するための手段的デモの形であらわれた」(神谷の論文「日本に於けるらい患者の精神症状」)
この文にあらわれている認識は、神谷のみならず、療養所の医師の多くに共有されていたものであり、戦前戦後のみならず敗戦後になっても持ち越された「光田イズム」の信奉者達には特に顕著なものであった。強制的な終生隔離の推進者であり、戦後になってもその態度を改めようとしなかった光田は「日本のシュバイツアー」として文化勲章を受章したが、戦後のらい予防法の改正を求める患者自身の人権闘争の挫折の後という時点で、神谷が、このような文章を公表したことに対する社会的責任は免れないであろう。

 こういう私の意見に対して、「それは現在の価値観をもって過去を断罪することだ」という批判が寄せられるかも知れない。なによりも神谷自身がそういう意見の持ち主であった。彼女は次のように云う。
戦後、サルフォン剤でらいが治るようになってみると、患者さんを強制的に隔離収容するという政策がにわかに非人道的なものに見えてきた。光田先生が主張された方針が、園内からも外国からも非難されるようになった。いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景から来る制約を免れ得るであろうか。何をするにあたっても、それは初めから覚悟しておくべきなのであろう。私はむしろ、歴史的制約の中で、あれだけの仕事をされ、あれだけのすぐれた弟子達を育てた光田先生という巨大な存在に驚く。研究と診療と行政と。あらゆる面に超人的な努力を傾けた先生は、知恵と慈悲とを一身に結晶させたような人物であった。先生との出会いは、生涯消えることのない刻印を、多くの人の心に刻みつけたのだと思う」(神谷美恵子著作集2 「人間を見つめて」より「光田健輔の横顔」)
神谷自身の個人的な感慨は別として、光田イズムの信奉者達が定年で療養所の所長を辞めた後で、入所者の人権回復が軌道に乗ったというのが歴史的事実である。

全国ハンセン病患者協議会元事務局長の鈴木禎一さんの近著「ハンセン病ー人間回復へのたたかいー神谷美恵子氏の認識について」(岩波出版サービスセンター 2003)は、このような神谷美恵子の考え方を含めて、光田イズムを、強制収容された入所者の視点から批判したものであるが、それは、基本的には、松本馨さんの「らい予防法に抗する闘い」と同じく、安直な歴史的な相対主義にたつことなく、戦前戦後の日本の「救癩」政策の主流を形成してきた「光田イズム」に対する根源的な批判である。私は鈴木さんの本から、多くのことを教えられた。強制収容された当事者自身から為された、このような批判を踏まえて、今一度、神谷美恵子の思想と実践を、再検討することが必要であろう。たんにハンセン病の問題だけでなく、神谷自身の精神医療に対する考え方、さらに一般的にはごく最近まで日本の精神医療に存在していた人権抑圧の問題点に対しても、同時に検討しなければなるまい。
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