歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

レオポルド一世の建立したウイーンのペスト終熄記念塔(三位一体像柱)に寄せて

2020-03-13 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 
 
1670年代に10万人を越える死者を出した恐るべき伝染病(ペスト)の終熄を宣言する記念塔が今もウイーンにありますが、これはレオポルド一世が1679年に建立したもの。往時に制作された銅版画もアップしておきます。
 父・子・聖霊の三位一体の神に捧げられたこのバロック様式の像柱(votive column)には、死者を追悼し懺悔の祈りを捧げるレオポルド一世自身、十字架を担う女性、擬人化された黒死病を退治する天使像などの彫像が刻まれています。
神聖ローマ帝国の皇帝としてのレオポルド一世の課題は
(1)オスマントルコのキリスト教国への侵攻と首都ウイーンの防衛
(2)プロテスタントを奉ずる北方の諸侯との政治的対立
(3)長年のライバル関係にあったフランスのブルボン王家との対立
(4)スペインのハプスブルグ家との連帯と両家の存続
(5)伝染病や地震災害などの天変地異による人心の動揺
など、なかなか困難なものでした。
 聖職者志望の音楽青年で、長兄の死去によって思いもよらず皇帝とならねばならなかった彼にとって幸いしたのは、優秀な元老に恵まれたことで、なんとかこれらの課題を乗り切り、オーストリア・ハプスブルグ家の黄金時代を迎えることができたようです。
 ところで、この記念柱の下段に造形された十字架を担う女性像を観て、私は、バロックオペラ「勇敢ある婦人」のプロローグの演出のヒントが得られたように思いました。プロローグに登場する「像柱」の擁護者としてのガラシャというイメージが台本作者にあったことはほぼ間違いないでしょう。
 「勇敢なる聖女ガラシャ」を主人公としたこのオペラでは、像柱は三位一体の神のシンボルであって、プロローグでは「コンスタンチア」という婦人が、像柱を護ろうとする「不変の信仰」を表現しています。これに対して像柱を倒そうとする「クルデリタス」と「フロール」は、それぞれ「残虐」と「憤怒」を象徴する人物です。像柱が大きく傾いて倒壊する直前に、「インクイエス(良心の不安)」と「ポエニチュード(悔悛)」がやってきて、クルデリタスとフロールを誡め、像柱の倒壊を防ぎます。そしてコンスタンチアは、自ら十字架を担って退場するーこれがプロローグの構成であって、バロック・オペラ「勇敢な婦人」の根本的なモチーフを表現しています。
プロローグでコンスタンチアの声部を担当するのが、この音楽劇の主人公の「ガラシャ」ですから、このオペラの台本作者がガラシャに与えた役割がよくわかります。
  ルネッサンスおよびバロックの時代のオーストリアの音楽劇に内包された舞台のイコノロジーの解釈は、日本の観客にとってはなじみの薄いものですので、その演出にはなかなか難しい問題が潜みます。大事なことは、宗教的的な観念が先行する寓意劇に終わらせないこと。
  幸いなことに、優れた音楽は、観念先行型のイデオロギーを越える普遍性を表現する可能性をもっています。バッハやモーツアルトの音楽がイデオロギーや様々な宗派的プロパガンダを、軽々と越えて、あらゆる人の心の内にある宗教性の目覚めを喚起できるのも、音楽が人間の文化と自己形成の核心に触れることができるからでしょう。
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Fortem Virili Pectore(勇敢なる聖女)を聴く

2020-03-13 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
バロックオペラ「勇敢な婦人」(mulier fortis) のタイトルがカトリック典礼に由来することを前回説明しましたが、「理想の妻」を頌えた旧約聖書「箴言」に続けて歌われる賛「Fortem Virili Pectore(勇敢なる聖女)」の作者についての情報を聖グレゴリオの家の西脇純先生にご教示いただいたので、YouTubeでこの讃歌を聴きながら、作者について説明します。
賛歌Fortem Virili Pectoreの作者 Silvio Antoniano (1540-1603)は、細川ガラシャ(1563-1600)とほぼ同時代のイタリア人司祭です。貧しい毛織物業者の息子として生まれた彼は、幼少の時から詩と音楽に著しい才能を示し、竪琴の優れた弾き手でした。メディチ家出身の枢機卿の経済的援助を受け、司祭への道を選んだ彼は、北イタリアのフェラ―ラ大学で学位を取得後、ローマ大学で人文学の教授、同大学の学長を務め、1599年に枢機卿に叙階されたことからも分かるように、イタリアルネッサンスのプラトン主義的な人文主義とキリスト教を統合する学藝の道を典礼音楽の刷新に求めた人でもありました。彼の没年である1603年に、このFortem Virili Pectoreというグレゴリオ聖歌が、晩課および聖女共通祝日の讃歌に採用され、それ以後、現在に至るまでカトリックの聖務日課の中で連綿と歌い継がれています。
作曲者に関する詳しい情報については以下のサイトを参照。
http://www.araldicavaticana.com/parrinoantoniano_silvio.htm
http://cardinals.fiu.edu/bios1599.htm#Antoniano
https://hymnary.org/text/fortem_virili_pectore
youtubeのアドレスは
https://www.youtube.com/watch?v=LKComplkJR0

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「細川ガラシャの時代の典礼音楽」ー聖グレゴリオの家での講演から

2020-03-11 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
ーその1ー
「バロック・オペラ Mulier Fortis (勇敢なる婦人)のタイトルの由来について」
 
  このバロックオペラの表題の出典が、妻の理想について書かれた旧約聖書の箴言31:10-11に基づくカトリック典礼に由来することは前回の講演でお話ししました。この典礼文とそれに付随するラテン語の賛歌が、320年後の現在でも、ラテン語の聖務日課としてグレゴリオ聖歌とともに朗詠されてきたことがわかりましたので、それについてお話しします。
現行の旧約聖書の日本語訳および注解ではこの箇所がローマ典礼の聖務日課で引用されていることを指摘しているものが稀であることは誠に残念です。
 私の調べた範囲では、僅かに講談社版「聖書」(バルバロ神父訳)だけが、
   「彼女は真珠よりも遙かに値打ちがある」
という邦訳の脚注(1085頁)でカトリック典礼との関連を指摘していました。「新共同訳」や「フランシスコ会訳」にもそういう注釈がありませんでしたし、まして、プロテスタント系の聖書翻訳や注解書では、カトリックの伝承への配慮は少ないので、使徒継承のカトリックの聖伝のなかで旧約聖書詩編や賛歌がどのように引用され解釈されていったかという説明にであうことは稀です。Keil-Delitzch のCommentary on the Old Testament の第六巻(326頁)によると、箴言の該当箇所の70人ギリシャ語訳に由来する解釈の伝承では、ここは箴言全体の「結び」という大切な意味を持っている点が、ユダヤ教徒が聖典としたテキストとは異なるということを指摘していました。Keil-Delitzchによると、ここは、
  A virtuous woman, who findeth her!
  She stands far above pearls in worth.
と訳すのが妥当であり、「mulier fortis」を、単に「勇気ある婦人」「気丈な婦人」という意味にではなく、「宗教的な美徳をもつ婦人」という意味に取るのが適切であるとのことです。つまり真珠のような、どれほど高価であっても、金で買えるような商品とは全く異なる宝物、真珠よりも遙かに貴重な心を持つ女性ーまことの信仰を持った女性ーこそ妻とするに相応しいという意味に解釈しています。カトリック教会の旧約聖書の解釈は、70人ギリシャ語訳の大きな影響を受けていますから、このような内面化された「理想の妻」のイメージが、箴言を「賛歌」として典礼文に摂取する際に影響したと云うことは十分に考えられます。そこで、世俗的な意味で「理想の妻」がいかなるものであるかを述べているという印象の強い箴言のもともとのヘブライ語テキストを、カトリック教会がどのように内面化して、それをキリスト教的美徳の一つとしての「勇気」をもつ女性として頌え、その「賛歌」を朗唱するようになったかを見るために、典礼の中で朗唱されたMurier Fortis のイメージに立ち返ってみましょう。
 
「Mulíerem fortem quis invéniet? Procul et de últimis fínibus prétium eius. Confídit in ea cor viri sui, et spóliis non indigébit.
勇敢な貴婦人を誰が発見するであろうか? その価値は、(遠方より来る)真珠よりも遙かに貴い。夫は彼女を頼みとし、その事業に窮することがない。」
この旧約聖書箴言31:10-11の引用文の後で、次のような賛歌が典礼で朗唱されます。それは、まさに、キリスト教的美徳をもってその信仰の証をした女性(殉教者)をたたえ、その女性のとりなしのいのりを神に祈る詩となっています。
 
     (「勇敢な婦人」の賛歌)
「我らすべてが声を挙げて勇敢なる貴婦人を頌えましょう。
 聖なる栄光とともにその御名をほめ歌いましょう。
彼女は純一なる天上の輝きに満たされ星空の光に輝いています。
彼女は下界の事物への愛を拒否し、この地上に留まることを気遣いませんでした。
諸々の天に向かって苦難の道を行き
その身体をしっかりと従わせ、
その霊魂を祈りの甘美なる糧で満たしました。
彼方の世界で、この世の喜びを捨てた彼女は至福を味わうでしょう。
王なるキリストよ、全てのものを勇敢ならしめる御方よ、我らの至聖なる行いはあなたのものです。
高きところに居る彼女のとりなしの祈りによって、あなたの民の叫びを憐れみをもって聞き入れてください。」
 
   バロック・オペラMulier Fortisがウイーンで上演されたときは、高山右近とならんで、キリスト教的美徳と信仰を証した人として、細川ガラシャを主人公とするオペラ Mulier Foritis が上演されたことが、これでわかります。
   賛歌原文のラテン語は以下の通りです。
 
「Fortem viríli péctore / Laudémus omnes féminam,/ Quæ sanctitátis glória / Ubíque fulget ínclita.
Hæc sancto amóre sáucia,/Dum mundi amórem nóxium/
Horréscit, ad cæléstia/ Iter perégit árduum.
Carnem domans ieiúniis,/ Dulcíque mentem pábulo/
Oratiónis nútriens,/Cæli potítur gáudiis.
Rex Christe, virtus fórtium,/Qui magna solus éfficis,
Huius precátu, quǽsumus,/ Audi benígnus súpplices.」
 
さて、上記の典礼文は、聖グレゴリオの家の「聖務日課(晩課)では、グレゴリオ聖歌で朗唱できるようにネウマ譜が付けられています。現在のカトリック教会の典礼様式はピオ十世の典礼改革以後のものですから、レオポルド一世の時代のウイーンのイエズス会修道院や附属の学校の聖務日課で、ここがどのように朗唱されたかどうかは、さらに調べる必要があります。
   そこで次に細川ガラシャの時代のウイーンの典礼音楽がどのようなものであったかを、レオポルド一世自身が作曲した三つの宗教音楽、「レクイエム」、「聖母マリア讃歌」、「ダビデ王の悔悛詩編miserere 」の三曲を聴くことにします。
 このうちレクイエムは、彼の最初の妻マルガレ―タ(ベラスケスの名画やラベルのパヴァーヌで有名な王女)の死を悼んで作曲したもので、後世の劇場音楽と化したレクイエムとは異なり、「怒りの日」を含まない静かな祈りのこもった鎮魂曲です。また、詩編50編(プロテスタントの聖書では51編)は、悔悛するダビデ王の心情を歌ったものですが、自分自身が神聖ローマ皇帝でもあったレオポルド一世自身の王としての懺悔の気持ちのこもった名曲として聴くことができました。
 レオポルド一世の宗教音楽は日本ではあまり聴く機会がないだろうと思います。次回はCDで彼の音楽を聴きながら、音楽の街ウイーンの礎を気づいた人物の一人でもあったレオポルド一世を取り上げることとします。(続く)
 
 
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「水のいのち」(髙野喜久雄 詩、高田三郎 作曲)を聴く

2020-02-10 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
「水のいのち」(髙野喜久雄 詩、高田三郎 作曲)を東京オペラシティで聴きました。高田三郎没後二〇周年記念コンサートに相応しい実に見事な合唱でした。会場で配布されたプログラムに高田三郎自身のペン書きの歌詞
「昇れ昇りゆけ/そなた水のこがれ/そなた水のいのちよ」
が掲載されていました。高田三郎の自伝的回想「来し方」によれば、「水の一生」を歌った髙野喜久雄の詩の言葉に、「(天を憧憬する)魂の音楽」を聴いて、それを合唱曲としたとのこと。
 
髙野喜久雄の詩は「雨ー水たまりー川ー海ー海よ」という五楽章からなります。四楽章のテーマ「海」が、五楽章で「海よ」と人格化して反復されて終わるのが印象的です。循環する宇宙の営為を原初の混沌たる「海」から立ち現れてまた「海」に帰って行く「水」の一生に託して歌いながら、その海に向かって、
「みえない つばさ/一途な つばさ あるかぎり」、大空の彼方へと昇れと呼びかけているーこれがこの「水のいのち」の合唱の素晴らしい点だと思いました。
 
不思議なことに、この第五楽章を聴いたあとで、第一楽章の歌詞を再び読み直してみると、そこで歌われた「雨」は、万物を活かす水として「恵みの雨」でもあったことに気づかされます。
 
Raimon Panikkar が Cosmotheandric Experience (宇宙と神と人を統合する経験)と呼び、西田幾多郎が「内在的超越」と概念的に表現したことが、髙野喜久雄と高田三郎によるこの歌曲では、詩の言葉と音楽によって実に具体的に象徴されていると思いました。
 
 このコンサートの女声合唱組曲「マリアの歌ー村上博子 詩。高田三郎 作曲」では、壮大な叙事詩ともいうべき「水のいのち」とは対照的な叙情詩の世界が歌われますが、そこでも詩のことばと音楽のハーモニーを聴くことができました。村上博子の詩のマリアは、街角のなかですれちがうマリア、カットグラスの玻璃のかおりに感じるマリア、病に苦しむ冬の日に到来を予感させるマリア、そしてこの詩の最終連、
「すべての定義を風のようにのがれて/あなたのお答えだけが/不思議な星となってまたたいている」
は、様々な神学者のマリア論を逃れるマリア、「お望みならばそうなるように」というその「答」の不思議をさりげなく歌っています
合唱のあとで、ピアノがまさに星の瞬きのようなピアニシモを後奏したのが印象的でした。
 
このコンサートの第一部「グレゴリオ聖歌と典礼聖歌」の指揮をされた西脇純さんは、細川ガラシャのラテン語によるバロックオペラの再演企画の実行委員もお願いしています。
リヒトクラウス会員の懇親会で伺ったところでは、西脇さんがドイツで書かれた神学博士論文はアンブロシウスとミラノ学派の典礼聖歌についてのものであったとのこと。東方キリスト教の伝統、とくにその神秘主義、典礼と音楽の伝統、アウグスチヌスの回心にも多大の影響を与えたアンブロシウスは、東西の対立を越えた典礼音楽の源流の一つです。
 
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Christmas Card from St. Gregory’s House in Tokyo, Japan

2019-12-25 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

Christmas Card with my linked poem from St. Gregory's House in Tokyo, Japan (25/12/2019)

Sleeping with animals,
A newborn baby lies in the manger.
Reflecting the light in the darkness
Heavenly Stars shine in the water.

牛は知り驢馬も知りたる飼葉桶
      十字姿に眠る嬰児
聖母汲む井戸に降りたる空の星
      今も輝く深き水底

(Literal translation of the above Japanese linked poem of Haiku)

Ox recognizes a newborn baby and Donkey also knows
The way from the manger to the cross.
Having descended unto the well our lady once drew
Heavenly stars shine in the depth of the water now.

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日本の典礼聖歌の中の詩篇

2005-03-16 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
  典礼聖歌 386   「風がどこから」    菅野淳作詞  高田三郎作曲             

 

【バーチャル合唱】典礼聖歌"風がどこから" (高田三郎) by Japan Chamber Choir

典礼聖歌より一般讃歌 "風がどこから" 作詩:菅野淳 作曲:高田三郎 指揮:松原 千振 合唱:Japan Chamber Choir リ...

youtube#video

 

 

日本の典礼聖歌のなかで、あなたはどの曲が最も好きですか、と問われたなら、私は躊躇することなくこの曲をあげることにしている。なぜ好きなのか、と聞かれても、とどのつまりは、好きだから好きだ、ということに尽きるのかも知れないが、あえて理由を言えば、詩(詞というより詩といいたい)の内容に惹かれると共に、曲がその内容にじつにマッチしているからだ、とでも答えようか。

私は、どういうわけか、「ハレルヤ」とか「グロリア」のような派手な曲にこころから感銘を受けたことがない。たとえば、ヘンデルのメサイアの「ハレルヤ」で、国王が起立したから、聴衆もそうするのだなどという話を聞くと、もうそれだけで「何と低俗なことか」と思ってしまう。これは、音楽鑑賞としては偏見に満ちているのかも知れない。歌詞など気にしないで音楽だけ聴けば名曲であるとは思うのだから。どんな曲に感動するかと言えば、もっと控えめな曲、口ごもる様な、沈黙の声が響き渡る様なものが好きなのだ。カトリック聖歌では、たとえば、受難週間で歌われる「茨の冠」。これは、バッハのマタイ受難曲でも歌われる旧い曲であるが、こういう曲には無条件で惹かれるものがある。なによりも、言葉の響きと、その意味内容と、曲とが調和していなければならないのだ。


「風がどこから」は、ヨハネ福音書3-8を典拠としている。いまそれを引用すれば、
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
霊とかspiritとかいうと抽象的に感じるだろうが、風といえば、それは、自然の息吹であり、まざまざとしたレアリティをもっている。實はギリシャ語の原文では、「風」と「霊」はまさに同じ言葉(πνευμα プネウマ)である。しかし、それが同じ言葉ではない日本語や英語であっても、この一節は不思議に心を捉える。そして、菅野淳の詩は、このヨハネ伝の一節を私達が普段使っている言葉で敷衍し、高田三郎が、それを私達の歌にしてくれたのだ。
1.風がどこから吹いてくるのか
人は誰も知らない
愛を呼び覚まし心を潤し
いつの間にかわたしの中を吹き抜けてゆく
それは気高いキリストの想い
どこへ風は吹いてゆくのか誰も知らない

2.炎がどうして燃え上がるのか
人は誰も尋ねない
闇をなめ尽くし腐敗を貫き
深く高く全てのものを清め続ける
それはみなぎるキリストの力
なぜか炎は燃えているのに誰も尋ねない

3.時が今しも過ぎてゆくのに
人は誰も気づかない
道を先駆けて恵みを携え
遠く遥か一人一人を守り導く
それは密かなキリストの祈り
なおも時は過ぎてゆくのに誰も気づかない
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