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歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

詩編148とアッシジのフランシスの祈りーラウダート・シに寄せて

2020-11-08 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 
 フランシス教皇の回覧書簡「ラウダート・シ(御身は頌えられよ)ー共に暮らす家を大切に」の冒頭で引用されたアッシジのフランシスの賛歌は、宗教と宗派の区別を越えて人々の宗教心に訴えかけてきた歌である。小鳥にむかってキリストの教えを説くフランシスの画像はインドでも日本でも人気があった。 彼が、囀る小鳥達に向かって「小さい姉妹達よ、もしあなたたちがおしゃべりしたいことが終わりましたら、今度は私の方が話を聞いて頂く時なのです」と話しかけると、小鳥たちは静かに説教に耳を傾けた、というエピソードも伝承されている。そこには、共に大地に住む生きとしいけるもののすべてを祝福する福音伝道者フランシスの精神が良く現れている。このような精神が、自然環境破壊の危機に直面した現代の我々にとっても必要であることは、ヨハネ・パウロ二世が、アッシジのフランシスを「環境保護の聖人」と頌えたことにも良く現れている。 
 しかし、この「太陽賛歌」は、フランシスが晩年、重い病に苦しみ、ほとんど盲目の状態にあって、肉体の死の予感のなかで口述した歌であったことを知る人は少ないのではないだろうか。
 まず、この「賛歌」をまず原語(イタリア語ウンブリア方言)で、次にイタリア文学者の黒田正利(1890-1973)の日本語訳で聴いてみよう。
 

Original text in Umbrian dialect:               邦訳(黒田正利による)            

Altissimu, omnipotente bon Signore,       いとも高く、万能にして、恵み深き主よ
Tue so le laude, la gloria e l'honore et onne benedictione. 

                   賛美、栄光、ほまれ、すべての恵みは主のものなれ       
Ad Te solo, Altissimo, se konfano,  いと高き主よ、こはみな主のものにして、

et nullu homo ène dignu te mentouare.     人はそのみ名を呼ぶにも足らず

Laudato si, mi Signore cum tucte le Tue creature,

                   ほむべきかな、主よ、主のつくりませる物みなと、
spetialmente messor lo frate Sole,     ことに昼を与へわれらを照り輝かす
lo qual è iorno, et allumini noi per lui.  はらから太陽と。
Et ellu è bellu e radiante cum grande splendore: 日は美しく眩しきまでに照り渡る、
de Te, Altissimo, porta significatione.  かれこそは主の御姿、ああ高きにいます主よ

Laudato si, mi Signore, per sora Luna e le stelle: 

                 ほむべきかな、わが主よ、わがはらから月は星は、
in celu l'ài formate clarite et pretiose et belle.主はこれをみ空に作りたまひ、すみて貴く美はし

Laudato si, mi Signore, per frate Uento. ほむべきかな、わが主よ、風は、
et per aere et nubilo et sereno et onne tempo,   

                  大気は、雲は、曇りてはまた晴るる日和(ひより)は
per lo quale, a le Tue creature dài sustentamento. 

                   これによりて主はその造りまししものを育みたまふ

Laudato si, mi Signore, per sor'Acqua, ほむべきかな、わが主よ、やさしきはらから水は
la quale è multo utile et humile et pretiosa et casta. いと役立ちて、低きにつき貴く清らなり

Laudato si, mi Signore, per frate Focu, ほむべきかな、わが主よ、はらから火は
per lo quale ennallumini la nocte:     夜のくらきを照らし   
ed ello è bello et iucundo et robustoso et forte. 美はし、たのし、たけくつよし 

Laudato si, mi Signore, per sora nostra matre Terra,

                    ほむべきかな、わが主よ、はらから母なる大地は       
la quale ne sustenta et gouerna,    われらを育みわれらを治め、
et produce diuersi fructi con coloriti fior et herba. 木の実を結び、花を装ひ、草をはぐくむ 

Laudato si, mi Signore, per quelli ke perdonano per lo Tuo amore  

                   ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し
et sostengono infirmitate et tribulatione.  病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは

Beati quelli ke 'l sosterranno in pace,   めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに
ka da Te, Altissimo, sirano incoronati.   いと高き主よ、主の冠はかれにあらん

Laudato si mi Signore, per sora nostra Morte corporale,  

                     ああほむべきかな わが主よ、はらから死は、

da la quale nullu homo uiuente pò skappare:  誰か死をのがれん いけるもの皆は。
guai a quelli ke morrano ne le peccata mortali; いたはしきかな罪の死に滅ぶ者は      
beati quelli ke trouarà ne le Tue sanctissime uoluntati, 

                            されどほむべきかな 主の聖意にすむ者は
ka la morte secunda no 'l farrà male.    第二の死の害ふことはあらじ

Laudate et benedicete mi Signore et rengratiate  主を頌めたたへ、主に感謝せよ
e seruiteli cum grande humilitate.         いとへりくだりて主に仕えよ  

 

 私は12世紀のイタリアの方言で書かれたこの「歌」の原語を正しく読めるという自信はないが、それでもアッシジの太陽の光のような清澄な音調を感じ取ることはできる。黒田氏の邦訳は、やや古めかしいが、もとの歌の醸し出す雰囲気を、可能な限り典雅な大和言葉で簡潔に再現しているような気がするのである。

 しかし、この明るい響きで歌われる歌詞の終わりの四連の内容は、作者のフランシスがまさに重病で床につき、目もほとんど見えなくなった時期のものであることを如実に示している。

 この詩の前半部分が、旧約聖書詩編148を踏まえていることは良く指摘されている。天と地、太陽と月と星など、創造されたすべてのものを通して主を賛美する「ハレルヤ」の歌は、旧訳の民の典礼の祈りであり、フランシスコの時代にも、とくに、夜明けの頃の祈りとして歌われていたであろう。現代の新共同訳聖書では、次のように訳されている詩編である。

ハレルヤ。天において主を賛美せよ。
高い天で主を賛美せよ。
御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。
主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
天の天よ 天の上にある水よ主を賛美せよ。 主の御名を賛美せよ。
主は命じられ、すべてのものは創造された。
主はそれらを世々限りなく立て越ええない掟を与えられた。
地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ 地上の王よ、諸国の民よ
君主よ、地上の支配者よ 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。

主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。 
主は御自分の民の角を高く上げてくださる。
それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。
主に近くある民、イスラエルの子らよ。

ハレルヤ。 

 詩編148は中世以来良く歌われていた賛歌であったが、アッシジのフランシスのLaudato Si には、全被造物に創造主の賛歌を呼びかけているに留まらない。
 まず彼は、被造されたものたちを、すべて人格化して「兄弟姉妹」と呼びかけている。そして、「ほむべきかな、主よ、主の愛によりて人を許し、病にたへて憂き艱(くるしみ)忍ぶものは」「めぐみあれ 主によって静かに耐ふるものに、いと高き主よ、主の冠はかれにあらん」というキリスト者の受難と忍耐の歌を付け加えていることであろう。

 伝承に拠れば、眼病で目の見えなくなったフランシスに手術のために灼熱した鉄の棒をあてる必要が生じたときに、彼は、十字を切って、「兄弟なる火よ、自分は汝を神の最も美しい被造物としてこよなく愛した。どうかあまり自分を痛めつけないで欲しい」と云ったという。そして、最後には最もおそるべき肉体の「死」にむかっても「はらから」と呼びかけている。 

グレゴリオ聖歌で歌われる詩編のラテン語訳も併記しておこう。幸い、中世の頃を偲ばせる歌唱がYoutubeに掲載されている。

 

Laudate dominum de caelis (Psalm 148) - Medieval chant

"North of the Alps and even on the Iberian Peninsula, a curious ceremo...

youtube#video

 
 

Alleluja.                                                                      
1 Laudate Dominum de cælis;  laudate eum in excelsis.  
2 Laudate eum, omnes angeli ejus;  laudate eum, omnes virtutes ejus.   

Laudate eum, sol et luna;    laudate eum, omnes stellæ et lumen.   
4  Laudate eum, cæli cælorum; et aquæ omnes quæ super cælos sunt, 

5  lauudent nomen Domini.   Quia ipse dixit, et facta sunt;    ipse mandavit, et creata sunt.
6  Statuit ea in æternum, et in sæculum sæculi;

   præceptum posuit, et non præteribit. 
7  Laudate Dominum de terra,  dracones et omnes abyssi;
8  ignis, grando, nix, glacies, spiritus procellarum,    quæ faciunt verbum ejus;
9  montes, et omnes colles;   ligna fructifera, et omnes cedri;
10 bestiæ, et universa pecora;  serpentes, et volucres pennatæ;
11 reges terræ et omnes populi;    principes et omnes judices terræ;
12 juvenes et virgines; senes cum junioribus,   laudent nomen Domini:
13 quia exaltatum est nomen ejus solius.
14 Confessio ejus super cælum et terram;    et exaltavit cornu populi sui.
    Hymnus omnibus sanctis ejus;    filiis Israël, populo appropinquanti sibi.   Alleluja.

 

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詩編に聴くー「聖書と典礼」の研究

2020-11-07 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
けふよりは詩編百五十 日に一篇読みつつゆけば 平和来なむか (南原繁ー『形相』所収)
 
 75年前に南原繁の読んだこの短歌は、敗戦後の日本が、いかなる国をめざすべきか、その「理想(イデア=形相)」を聖書の詩編にもとめたものである。彼のひそみに倣って、これから、断続的にではあるが、『詩編に聴く』というテーマで「聖書と典礼」の研究を続けたい。
 これは内村鑑三の『聖書の研究』を一つの手本としつつも、内村やその門弟達があまり問題としなかった典礼(ユダヤ教・東方キリスト教・西方キリスト教)のなかの聖書という視点をあらたに付け加えたい。私は、カトリック教会の伝統から深く学んだものでもあるので、単なる無教会運動の立場は取らないが、「無」に徹底した信仰は、 既成教会を否定せずにこれを完成に導くこと、そのいみでの「普遍の教会」となると考えるからである。
  詩編がどのようなかたちで、ユダヤ教やキリスト教の典礼のなかで読み続けられてきたかを重視する。典礼聖歌、とくに原始キリスト教の典礼を直接に受け継いだ東方教会、その修道院の霊性と典礼に於いて詩編の詠唱が持っていた意味を知るためには、ヘブライ語で書かれたテキストだけでなく、70人訳ギリシャ語詩編にみられる詩編解釈も重要である。また、東方キリスト教の霊性を西方教会で受け継いだベネディクト修道会にはじまるミサの伝統の中で次第に発達したグレゴリオ聖歌と多声的な典礼音楽の統合の歴史をたどることも課題の一つである。
  過去に遡ってユダヤ教の伝統を刷新したキリスト教の典礼の歴史をたどるだけでなく、詩編の霊性を現代人の日常生活の中で生きるかという将来に向けた眼差しも必要である。世俗を離脱した隠遁者としてではなく、在俗者として詩編を読み、詩編に聴く修道をめざしたい。
 
内村鑑三は、嘗て、フィリピの信徒への手紙4:8 を引用した後で、諸宗教の伝統に敬意を表して次のように言っている。
  「キリスト教徒は、すべての人や物事のうちに真理を探り出さずにはいられないのだから。他の宗教に欠点を見いだして喜ぶキリスト教の代表者達は実に哀れな人たちである。キリスト教徒というものは、仏教であれ、儒教であれ、道教であれ、何であれ、そこに良いものを見いだしたなら喜ぶはずだ。彼の目は光を見いだすことには鋭敏であるが、闇を見ることには消極的なのだから。このようにキリスト教は、その真価を発揮するときには、世界のうちに最良のものを発見する力となる」
  私自身のキリスト教の見方もこれと基本的に同じである。そしてさらにつけくわえることがあるとすれば、これは諸宗教の良いとこ取りという意味での折衷主義ではなく、内村がそうであったように、既成の諸宗教や諸文化が陥りやすい偶像崇拝の批判という預言者の精神を忘れぬ事が肝要であろう。
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詩編に聴く-ヴィヴァルディのモテット『主がその愛するものに眠りを与へ給し時』について

2020-11-06 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
詩編に聴くー「主がその愛する者に眠りを与へ給ひし時に」(共同訳127・Vulgata典礼訳126) 
ヴィヴァルディ作曲 モテット Nisi Dominus (主いまさねば)から 
 
-----主がその愛する者に眠りを与へ給ひし時---
Cum dederit dilectis suis somnum,
主がその愛する者に眠りを与へ給ひしとき
ecce hæreditas Domini, filii;
見よ,子供らは主の嗣業(ゆづり)にして
merces, fructus ventris.
胎の實はその報(むくい)なり
-----------------------------------------------------
 
 ヴィヴァルディの『四季』は自然の移ろいゆく様を叙景した表題音楽であり、印象的な旋律と即興的なヴァイオリンの合奏のおかげで、バロック音楽の人気演目として名高い。欧米だけでなく、異文化の壁を超えて、日本でも最も好まれているバロック音楽の一つであろう。季節の移り変わりに美を見出す独特の感性を持っている日本文化の伝統もまた、この曲を親しみやすくさせた理由の一つだろう。
このような「自然」をテーマとした曲と比べて、「超自然」をテーマとしたヴィバルディの「宗教曲」は日本では聴く機会が少ないが、彼の作曲したモテット、Nisi Dominus (主いまさねば)の中の Cum dederit dilectis suis somnum (主がその愛するものに眠りを与へ給ひし時)は、ミサ曲「グロリア」と並んで、ヴィヴァルディの代表的な宗教音楽として欧米ではよく上演される。
これは、旧約聖書の時代に「都上りの歌ーソロモンの詩」としてヘブライ語で朗詠された詩篇に由来するが、ギリシャ語訳聖書を通じてヘレニズムの文化の中に受容された。このギリシャ語訳詩編に従うラテン語訳が、Vulgata聖書に踏襲され,カトリック教会の典礼に採用された。ビバルディの音楽はそれを歌詞としている。
 もともとヘブライ語で書かれたこの詩篇が、成立当時にどのような意味で朗詠されていたか、またその前半部分と後半部分は一つの詩なのか、元来二つの詩であったものを後世の編集者が一つにまとめたものなのか、そういうことには専門の聖書学者の間で様々な意見があるが(関根 正雄 『詩篇注解』下巻51頁参照)、ヴィヴァルディ自身がここをどのように解釈したのかを知る手がかりとしては、彼が、この歌詞を後半部分の始まりにおいていることが重要な意味を持つように思われる。
 この詩は「ソロモンの詩」であるから、「神に愛された人」はソロモンと取るのが自然であり、サムエル記下12:24-25や列王記上3:5−14のが背景にある。おそらく、神に最も愛された人であるソロモン王が夢の中で、神に祝福されたという伝承に基づくものであろう。
 しかしながら、ヴィヴァルディのこのモテットの冒頭の調べは、悲痛に満ち満ちた嘆きで始まる。それは、子宝に恵まれた家の繁栄というような意味での世俗的な幸福の約束とはとても思われない。
 何度も繰り返されるCum dederit dilectis somnum の調べも、伴奏のヴァイオリン合奏も、死によって全てが失われる世界の空虚さをも響かせているようにも感じる。
「もし主いまさねば、すべての労苦は虚しい」という通奏低音の只中に登場する「fructus ventris」の言葉は、ニヒリスムの極点からの大いなる転換ー悲哀の極点からの祝福への転換ーを先取りしているかのようにも聞こえる。「胎の實はその報(むくい)なり」という一節に注目したい。これはアヴェ・マリアの言葉の予示でもある。つまり、70人ギリシャ語聖書からカトリック典礼へと受け継がれた詩編解釈の伝承の中では、この詩編は、主の受肉と受難および復活という超自然の出来事をソロモンの夢の中で予言する詩として、歌われているのである。
 アウグスチヌスも、その「詩篇釈義」の中で、この詩篇126をキリストに関係づける霊的な意味に解釈している。
 ヘブライ人にあっては地上の家族と子孫の繁栄を主に祈る詩であったものが、そのような幸福を絶たれた人たちを救済するために自然を超えた神が夢の中に登場するのである。
物質的な自然の只中に受胎し、一人の人となって、すべての人を救済するために自ら受難を引き受けたこと、そのような主なるキリストによってこそ、ソロモンの知恵が、世俗の知恵ではなく神の知恵となったことを示す詩として解釈できるだろう。そうしてみるとヴィバルディという「自然」を歌うことにかけては天才的な作曲者は、同時に「超自然の自然」を賛美する作曲家でもあったと言えるのではないだろうか。

Vivaldi, Nisi Dominus - Cum dederit - Sara Mingardo, Giovanni Paganelli

Esecuzione dal vivo su strumenti originali a Busseto (PR). Sara Minga...

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ーダビデ王の懺悔ー「聖書と典礼」の詩編から

2020-10-13 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 黒死病の終熄を記念してウイーンに建立された像柱に描かれたレオポルド一世の肖像は、彼自身の懺悔と感謝の祈りを現している。
作曲家としてのレオポルド一世の典礼音楽の代表作の一つが、旧約聖書詩編(Miserere mei, Deus : 共同訳第51編)の「ダビデ王の懺悔の祈り」である。この典礼詩編は、深い「懺悔の言葉」に始まり、「感謝」で終わっている。
 第3節「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります」の懺悔文は、他者の罪を告発するのではなく、まず最初に自己自身の罪と咎を告白するところに正しい懺悔の意味があることを示している。
第15節「主よ、わたしのくちびるを開いてください わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう」は『教会の祈り(聖務日課)」の朝課の冒頭の言葉である。
 レオポルド一世がオーストリア大公であり、神聖ローマ帝国の皇帝であったが、かれもまた現代を生きるわれわれとおなじく、悩みと苦しみに呻吟する一人の人間であった。最初の后妃マルガリータも二番目の后妃クラウディアもともに夭折したため、彼は二人の鎮魂のためのレクイエムを捧げている。(マルガリータに捧げたレクイエムは「細川ガラシャの時代の典礼音楽1-2」で聴きました)
 詩編51のmeserere mei, deus は、様々な作曲家によって取り上げられたが、レオポルド一世のものは、「王の懺悔」を自分自身の事柄として受けとめた彼の心情が良く表れていると思う。
 

音楽付細川ガラシアの時代の典礼音楽1-3

ーダビデ王の懺悔ー「聖書と典礼」の詩編から 黒死病の終熄を記念してウイーンに建立された像柱に描かれたレオポルド一世の肖像は、彼自身の懺...

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(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-2

2020-09-29 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-2

レオポルド一世作曲の典礼音楽(レクイエム)を聴く

(音楽付)細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1- 2

細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1-1の続きです。 レオポルド一世が、その最初の后、マルガリータを追悼して作曲した「死者のためのミサ曲」を...

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(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-1

2020-09-29 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

(音楽付)細川ガラシャの時代の典礼音楽ーその1-1

「聖グレゴリオの家」での講演(2020/2/20)より

(音楽付)細川ガラシアの時代の典礼音楽ーその1- 1

一七世紀末にウイーンで上演されたオペラ「勇敢な婦人」の主人公は細川ガラシャでしたが、そのラテン語タイトルの表題が意味するものは、カトリック教...

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バロックオペラMulier fortis(勇敢な婦人・細川ガラシャ)のチラシ

2020-09-17 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

2021年3月6日(土)東京文化会館小ホールで開演予定のバロックオペラMulier fortis(勇敢な婦人・細川ガラシャ)のチラシです。

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復活徹夜祭と「新たなる時」の始まり

2020-04-12 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
拙宅の近くにある「聖グレゴリオの家」で例年おこなわれる復活徹夜祭では、夜明前の闇の中で、屋外で熾された焚火から司祭の採取した「火の祝福」があり、その「火」を大きな蠟燭に点し「蠟燭の祝福」をおこなった後で、大勢の参列者に次々と灯火を伝えて、御堂に入場します。私は、復活祭の「火の祝福」に最初に参列したときに、若き日のシラーが「歓喜の歌」の詩の最初に「Freude, schöner Götterfunken」と呼びかけた時、「Götterfunken(神の火花)」という言葉に託した宇宙的な情熱に思いを馳せないわけにはいきませんでした。
この祝福された「火の情熱」が宇宙に内在する純一なる「光」を目覚めさせ、蠟燭に点された灯を、一人から一人へと、次々と伝える「伝燈」の儀式となります。それが「夜明けの太陽」が昇る直前におこなわれる「荘厳ミサ」の始まりを告げているのでしょう。
ベートーベンの第九交響曲が日本では歳末におこなわれるのが慣例となっていますが、もともと復活祭は、暗黒から光明への劇的転換によって「新たな時の開始」を喜ぶ祝祭だったことを思えば、第九を大晦日に聴いてから新年を迎えることにも「隠れたる」キリスト教的な意味があったといえるかもしれません。 
今年は、新型コロナ肺炎の予防のために復活祭はどの国でも直接に信徒が集まって挙行できませんでしたが、Youtube にバチカンでおこなわれた復活徹夜祭の中継が録画されていましたので、冒頭の「火の祝福」と「蠟燭の祝福」のラテン語典礼を視聴できます。
 
 
「蠟燭の祝福」では、グレゴリオ聖歌で
Christus heri et hódie,(キリストは昨日にして今日)
Princípium et Finis, (始原にして終極)
Αlpha et Omega, (アルファにしてオメガ)
Ipsíus sunt témpora et sǽcula(時も永遠もキリストにあり)
と朗詠されます。
 
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「モーツアルトの最初のオペラを聴く」

2020-03-24 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
アマデウス・モーツアルトが11歳の時に、彼の名前を冠して、1767年にザルツブルグで上演されたオペラがふたつある。ひとつは、k.35 の「第一の律法の責務」、もうひとつはk.38の「アポロとヒアキントス」である。2006年のモーツアルト生誕250周年を記念してザルツブルグ大学の講堂で、John Dew 演出、Joseph Wallnig 指揮、モーツアルテウム大学の交響楽団とその卒業生の歌手達によって蘇演された。それを記録したDVDは現在も入手可能である。
 私は、バロック・オペラ「勇敢な貴婦人」の演出のヒントを得るためにこのDVDを取り寄せたのであるが、視聴しているうちに、2006年のこの記念祝典が挙行される一ヶ月前に私自身が学会出張でザルツブルグに滞在していたことを思い出し、何か不思議な縁を感じた、オペラの上演会場であるザルツブルグ大学神学部講堂は、The 6th International Whitehead Conferenceの会場でもあり、もう一ヶ月余分に滞在していれば、私もこのモーツアルトの最初期のオペラを直接聴くことができたからである。
 11歳のモーツアルトのこの最初の作品の中に、いわば萌芽のようなかたちで、晩年のオペラの豊穣な展開が内包されていることには驚かざるを得ない。たとえば、「アポロとヒアキントス」でヒアキントスの死を哀悼する父と妹の二重唱など、優美な旋律に載せながらも万感胸に迫る悲しみを表現する、あのモーツアルトの音楽の特徴が、すでに現れていると思った。 
 ザルツブルグ大学での蘇演、音楽的には素晴らしいものであり、歌手も伴奏音楽も申し分なかったが、この二つのオペラの演出のいかに難しいかということを感じざるを得なかった。
 「第一の律法の責務」というものものしい表題のついたオペラのほうは、ドイツ語の歌詞と台詞で語られるジングシュピ―ルで、登場人物が、「正義」「慈悲」「世俗精神(Weltgeist)」「キリスト教精神(Christgeist)」「キリスト教徒」「狩人」「ライオン」「悪魔達」という寓意劇であり、バロック時代のイエズス会の宗教劇の伝統を受け継いでいる点で興味深いものであった。ただし、もともとの音楽劇が三部作で、モーツアルトが担当したのが第一部だけなので、第二部と第三部の台本や楽譜が散逸してしまったために、全体としてこの音楽劇がどういうように上演されたかはよくわかっていない。2006年のザルツブルグ蘇演では、陽気で動きの活発なドイツ語の「笑劇」として演出されていたが、この演出には、「世俗精神」の役者の奇抜な衣装や演出の可否について、賛否両論があったようである。
 「アポロとヒアキントス」では、バロックオペラの豪華絢爛たる衣装をつけ、白塗りの化粧をした歌手達が、きわめて様式化された静的な振り付けで歌っていた。John Dewによれば、バロック時代の歌手の衣装と所作を参考にはしたが、現代の観客にもわかるように、それをより自然な形に改めたとのことであった。
 日本の演劇の伝統にこれに似たものを挙げるとすれば、能楽の振り付けが最も近いであろう。実際、「アポロとヒアキントス」は、同一の台本作者による「クロイソスの慈悲」という別のオペラの三幕の幕間劇(intermedium) として上演されている。
 非常に私が興味をそそられる点は、この台本作者Rufinus Widl が、「勇敢なる貴婦人」の作者(イエズス会のギムナジウムの校長)と同じく、ザルツブルグ大学の人文学の教師でもあり、ギリシャ・ラテンの人文的な伝統とキリスト教の統合をテーマにして演劇の台本を書いていることであった。
 「アポロとヒアキントス」の素材はいうまでもなくオヴィデウスの変身譚であり、ギリシャ的なエロスを主題としているが、Widl はそれをキリスト教的な「喜劇(コメディア)」に変換しているからである。ここで「喜劇」というのは、「笑劇」という意味ではなく、主人公の死で終わる「悲劇」に対して、主人公の死からの復活、婚姻という「生の喜び」を主題とするという意味である。
 初演の時の歌手達は、父親役を除けばみな十代前半の少年であったという記録が残されている。そして作曲を担当したのが、パリやロンドンへの大旅行から帰国したばかりのモーツアルト少年であったから、未来を背負う少年達がこのオペラを上演したということだろう。もっとも、このオペラの歌手への要求度は極めて高く、少年達が歌ったと云うことが信じられない程難しいコロラツーラを含んでいる。
 父親のレオポルド・モーツアルトは、オペラ作曲の経験に乏しく、ラテン語の歌詞に曲をつける息子の天賦の才能に驚いて、これ以後、オペラの本場イタリアに息子を連れて再び大旅行をするようになるのである。
 
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レオポルド一世の典礼音楽を聴くーその1-

2020-03-16 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
僅か21歳で逝去したマルガリータ后妃の死を悼んでレオポルド一世は1673年に Missa pro defunctis (死者のためのミサ曲) を作曲しています。このミサ曲は、後世の劇場音楽と化した requiem とは違って「怒りの日」を含まない純粋な鎮魂曲となっています。構成は、
1 Introitus: Sonata-Requiem aeternam    
2  Kyrie-Christe-Kyrie eleison
3 Sanctus: Sonata-Sanctus-Hosanna       
4  Benedictus: Hosanna   
5 Agnus Dei:                                                 
6  Communio: Sonata-Lux aeterna-Requiem aeternam
 
 1899年にフランスの作曲家ラヴェルは、ベラスケスの絵画に触発されてピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を作曲した。パヴァーヌとは、スペインの舞曲で、嘗てはヨーロッパの王家の結婚式で、新郎と新婦が並んで行列するときにも奏されましたから、華やかな国民的祝典であったマルガリータの婚姻の追憶と哀悼に相応しい曲でした。
 上智大学の100周年記念で上演された「勇敢な貴婦人」では、終幕がガラシャの葬儀ミサの場面でした。これは史実に即したもので、そのときは典礼音楽なしの日本語の台詞だけの上演でした。
 
カトリックでは特定の故人のためのミサではなく、「死者達のためのミサ」を行うのが通例ですから、レオポルド一世のミサ曲をマルガリータ后妃だけでなく丹後の王妃ガラシャに捧げることも不自然ではありません。
 
「マルガリータ」とはラテン語で「真珠」を意味する言葉でもあって、マタイによる福音書13-45では、「神の国」が、真珠(bona margarita)に譬えられています。 偶然の一致ですが、細川忠興夫人の名前も「たま(珠)」でした。
 
グレゴリオの家での私の講演では下記のCDで聴きましたが、Youtubeに篤志家がアップしているので、そのリンクも張っておきます。
 
CD: Leopold 1 - Sacred Works: Waschinski-Cordier-Voss-Kleinlein-FinkWIENER AKADEMIE Martin Haselboeck
MUSICA IMPERIALIS
 
https://www.youtube.com/watch?v=xIHIKjbORXA&t=7s
 
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レオポルド一世の建立したウイーンのペスト終熄記念塔(三位一体像柱)に寄せて

2020-03-13 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
 
 
1670年代に10万人を越える死者を出した恐るべき伝染病(ペスト)の終熄を宣言する記念塔が今もウイーンにありますが、これはレオポルド一世が1679年に建立したもの。往時に制作された銅版画もアップしておきます。
 父・子・聖霊の三位一体の神に捧げられたこのバロック様式の像柱(votive column)には、死者を追悼し懺悔の祈りを捧げるレオポルド一世自身、十字架を担う女性、擬人化された黒死病を退治する天使像などの彫像が刻まれています。
神聖ローマ帝国の皇帝としてのレオポルド一世の課題は
(1)オスマントルコのキリスト教国への侵攻と首都ウイーンの防衛
(2)プロテスタントを奉ずる北方の諸侯との政治的対立
(3)長年のライバル関係にあったフランスのブルボン王家との対立
(4)スペインのハプスブルグ家との連帯と両家の存続
(5)伝染病や地震災害などの天変地異による人心の動揺
など、なかなか困難なものでした。
 聖職者志望の音楽青年で、長兄の死去によって思いもよらず皇帝とならねばならなかった彼にとって幸いしたのは、優秀な元老に恵まれたことで、なんとかこれらの課題を乗り切り、オーストリア・ハプスブルグ家の黄金時代を迎えることができたようです。
 ところで、この記念柱の下段に造形された十字架を担う女性像を観て、私は、バロックオペラ「勇敢ある婦人」のプロローグの演出のヒントが得られたように思いました。プロローグに登場する「像柱」の擁護者としてのガラシャというイメージが台本作者にあったことはほぼ間違いないでしょう。
 「勇敢なる聖女ガラシャ」を主人公としたこのオペラでは、像柱は三位一体の神のシンボルであって、プロローグでは「コンスタンチア」という婦人が、像柱を護ろうとする「不変の信仰」を表現しています。これに対して像柱を倒そうとする「クルデリタス」と「フロール」は、それぞれ「残虐」と「憤怒」を象徴する人物です。像柱が大きく傾いて倒壊する直前に、「インクイエス(良心の不安)」と「ポエニチュード(悔悛)」がやってきて、クルデリタスとフロールを誡め、像柱の倒壊を防ぎます。そしてコンスタンチアは、自ら十字架を担って退場するーこれがプロローグの構成であって、バロック・オペラ「勇敢な婦人」の根本的なモチーフを表現しています。
プロローグでコンスタンチアの声部を担当するのが、この音楽劇の主人公の「ガラシャ」ですから、このオペラの台本作者がガラシャに与えた役割がよくわかります。
  ルネッサンスおよびバロックの時代のオーストリアの音楽劇に内包された舞台のイコノロジーの解釈は、日本の観客にとってはなじみの薄いものですので、その演出にはなかなか難しい問題が潜みます。大事なことは、宗教的的な観念が先行する寓意劇に終わらせないこと。
  幸いなことに、優れた音楽は、観念先行型のイデオロギーを越える普遍性を表現する可能性をもっています。バッハやモーツアルトの音楽がイデオロギーや様々な宗派的プロパガンダを、軽々と越えて、あらゆる人の心の内にある宗教性の目覚めを喚起できるのも、音楽が人間の文化と自己形成の核心に触れることができるからでしょう。
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Fortem Virili Pectore(勇敢なる聖女)を聴く

2020-03-13 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
バロックオペラ「勇敢な婦人」(mulier fortis) のタイトルがカトリック典礼に由来することを前回説明しましたが、「理想の妻」を頌えた旧約聖書「箴言」に続けて歌われる賛「Fortem Virili Pectore(勇敢なる聖女)」の作者についての情報を聖グレゴリオの家の西脇純先生にご教示いただいたので、YouTubeでこの讃歌を聴きながら、作者について説明します。
賛歌Fortem Virili Pectoreの作者 Silvio Antoniano (1540-1603)は、細川ガラシャ(1563-1600)とほぼ同時代のイタリア人司祭です。貧しい毛織物業者の息子として生まれた彼は、幼少の時から詩と音楽に著しい才能を示し、竪琴の優れた弾き手でした。メディチ家出身の枢機卿の経済的援助を受け、司祭への道を選んだ彼は、北イタリアのフェラ―ラ大学で学位を取得後、ローマ大学で人文学の教授、同大学の学長を務め、1599年に枢機卿に叙階されたことからも分かるように、イタリアルネッサンスのプラトン主義的な人文主義とキリスト教を統合する学藝の道を典礼音楽の刷新に求めた人でもありました。彼の没年である1603年に、このFortem Virili Pectoreというグレゴリオ聖歌が、晩課および聖女共通祝日の讃歌に採用され、それ以後、現在に至るまでカトリックの聖務日課の中で連綿と歌い継がれています。
作曲者に関する詳しい情報については以下のサイトを参照。
http://www.araldicavaticana.com/parrinoantoniano_silvio.htm
http://cardinals.fiu.edu/bios1599.htm#Antoniano
https://hymnary.org/text/fortem_virili_pectore
youtubeのアドレスは
https://www.youtube.com/watch?v=LKComplkJR0

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「細川ガラシャの時代の典礼音楽」ー聖グレゴリオの家での講演から

2020-03-11 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
ーその1ー
「バロック・オペラ Mulier Fortis (勇敢なる婦人)のタイトルの由来について」
 
  このバロックオペラの表題の出典が、妻の理想について書かれた旧約聖書の箴言31:10-11に基づくカトリック典礼に由来することは前回の講演でお話ししました。この典礼文とそれに付随するラテン語の賛歌が、320年後の現在でも、ラテン語の聖務日課としてグレゴリオ聖歌とともに朗詠されてきたことがわかりましたので、それについてお話しします。
現行の旧約聖書の日本語訳および注解ではこの箇所がローマ典礼の聖務日課で引用されていることを指摘しているものが稀であることは誠に残念です。
 私の調べた範囲では、僅かに講談社版「聖書」(バルバロ神父訳)だけが、
   「彼女は真珠よりも遙かに値打ちがある」
という邦訳の脚注(1085頁)でカトリック典礼との関連を指摘していました。「新共同訳」や「フランシスコ会訳」にもそういう注釈がありませんでしたし、まして、プロテスタント系の聖書翻訳や注解書では、カトリックの伝承への配慮は少ないので、使徒継承のカトリックの聖伝のなかで旧約聖書詩編や賛歌がどのように引用され解釈されていったかという説明にであうことは稀です。Keil-Delitzch のCommentary on the Old Testament の第六巻(326頁)によると、箴言の該当箇所の70人ギリシャ語訳に由来する解釈の伝承では、ここは箴言全体の「結び」という大切な意味を持っている点が、ユダヤ教徒が聖典としたテキストとは異なるということを指摘していました。Keil-Delitzchによると、ここは、
  A virtuous woman, who findeth her!
  She stands far above pearls in worth.
と訳すのが妥当であり、「mulier fortis」を、単に「勇気ある婦人」「気丈な婦人」という意味にではなく、「宗教的な美徳をもつ婦人」という意味に取るのが適切であるとのことです。つまり真珠のような、どれほど高価であっても、金で買えるような商品とは全く異なる宝物、真珠よりも遙かに貴重な心を持つ女性ーまことの信仰を持った女性ーこそ妻とするに相応しいという意味に解釈しています。カトリック教会の旧約聖書の解釈は、70人ギリシャ語訳の大きな影響を受けていますから、このような内面化された「理想の妻」のイメージが、箴言を「賛歌」として典礼文に摂取する際に影響したと云うことは十分に考えられます。そこで、世俗的な意味で「理想の妻」がいかなるものであるかを述べているという印象の強い箴言のもともとのヘブライ語テキストを、カトリック教会がどのように内面化して、それをキリスト教的美徳の一つとしての「勇気」をもつ女性として頌え、その「賛歌」を朗唱するようになったかを見るために、典礼の中で朗唱されたMurier Fortis のイメージに立ち返ってみましょう。
 
「Mulíerem fortem quis invéniet? Procul et de últimis fínibus prétium eius. Confídit in ea cor viri sui, et spóliis non indigébit.
勇敢な貴婦人を誰が発見するであろうか? その価値は、(遠方より来る)真珠よりも遙かに貴い。夫は彼女を頼みとし、その事業に窮することがない。」
この旧約聖書箴言31:10-11の引用文の後で、次のような賛歌が典礼で朗唱されます。それは、まさに、キリスト教的美徳をもってその信仰の証をした女性(殉教者)をたたえ、その女性のとりなしのいのりを神に祈る詩となっています。
 
     (「勇敢な婦人」の賛歌)
「我らすべてが声を挙げて勇敢なる貴婦人を頌えましょう。
 聖なる栄光とともにその御名をほめ歌いましょう。
彼女は純一なる天上の輝きに満たされ星空の光に輝いています。
彼女は下界の事物への愛を拒否し、この地上に留まることを気遣いませんでした。
諸々の天に向かって苦難の道を行き
その身体をしっかりと従わせ、
その霊魂を祈りの甘美なる糧で満たしました。
彼方の世界で、この世の喜びを捨てた彼女は至福を味わうでしょう。
王なるキリストよ、全てのものを勇敢ならしめる御方よ、我らの至聖なる行いはあなたのものです。
高きところに居る彼女のとりなしの祈りによって、あなたの民の叫びを憐れみをもって聞き入れてください。」
 
   バロック・オペラMulier Fortisがウイーンで上演されたときは、高山右近とならんで、キリスト教的美徳と信仰を証した人として、細川ガラシャを主人公とするオペラ Mulier Foritis が上演されたことが、これでわかります。
   賛歌原文のラテン語は以下の通りです。
 
「Fortem viríli péctore / Laudémus omnes féminam,/ Quæ sanctitátis glória / Ubíque fulget ínclita.
Hæc sancto amóre sáucia,/Dum mundi amórem nóxium/
Horréscit, ad cæléstia/ Iter perégit árduum.
Carnem domans ieiúniis,/ Dulcíque mentem pábulo/
Oratiónis nútriens,/Cæli potítur gáudiis.
Rex Christe, virtus fórtium,/Qui magna solus éfficis,
Huius precátu, quǽsumus,/ Audi benígnus súpplices.」
 
さて、上記の典礼文は、聖グレゴリオの家の「聖務日課(晩課)では、グレゴリオ聖歌で朗唱できるようにネウマ譜が付けられています。現在のカトリック教会の典礼様式はピオ十世の典礼改革以後のものですから、レオポルド一世の時代のウイーンのイエズス会修道院や附属の学校の聖務日課で、ここがどのように朗唱されたかどうかは、さらに調べる必要があります。
   そこで次に細川ガラシャの時代のウイーンの典礼音楽がどのようなものであったかを、レオポルド一世自身が作曲した三つの宗教音楽、「レクイエム」、「聖母マリア讃歌」、「ダビデ王の悔悛詩編miserere 」の三曲を聴くことにします。
 このうちレクイエムは、彼の最初の妻マルガレ―タ(ベラスケスの名画やラベルのパヴァーヌで有名な王女)の死を悼んで作曲したもので、後世の劇場音楽と化したレクイエムとは異なり、「怒りの日」を含まない静かな祈りのこもった鎮魂曲です。また、詩編50編(プロテスタントの聖書では51編)は、悔悛するダビデ王の心情を歌ったものですが、自分自身が神聖ローマ皇帝でもあったレオポルド一世自身の王としての懺悔の気持ちのこもった名曲として聴くことができました。
 レオポルド一世の宗教音楽は日本ではあまり聴く機会がないだろうと思います。次回はCDで彼の音楽を聴きながら、音楽の街ウイーンの礎を気づいた人物の一人でもあったレオポルド一世を取り上げることとします。(続く)
 
 
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「水のいのち」(髙野喜久雄 詩、高田三郎 作曲)を聴く

2020-02-10 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
「水のいのち」(髙野喜久雄 詩、高田三郎 作曲)を東京オペラシティで聴きました。高田三郎没後二〇周年記念コンサートに相応しい実に見事な合唱でした。会場で配布されたプログラムに高田三郎自身のペン書きの歌詞
「昇れ昇りゆけ/そなた水のこがれ/そなた水のいのちよ」
が掲載されていました。高田三郎の自伝的回想「来し方」によれば、「水の一生」を歌った髙野喜久雄の詩の言葉に、「(天を憧憬する)魂の音楽」を聴いて、それを合唱曲としたとのこと。
 
髙野喜久雄の詩は「雨ー水たまりー川ー海ー海よ」という五楽章からなります。四楽章のテーマ「海」が、五楽章で「海よ」と人格化して反復されて終わるのが印象的です。循環する宇宙の営為を原初の混沌たる「海」から立ち現れてまた「海」に帰って行く「水」の一生に託して歌いながら、その海に向かって、
「みえない つばさ/一途な つばさ あるかぎり」、大空の彼方へと昇れと呼びかけているーこれがこの「水のいのち」の合唱の素晴らしい点だと思いました。
 
不思議なことに、この第五楽章を聴いたあとで、第一楽章の歌詞を再び読み直してみると、そこで歌われた「雨」は、万物を活かす水として「恵みの雨」でもあったことに気づかされます。
 
Raimon Panikkar が Cosmotheandric Experience (宇宙と神と人を統合する経験)と呼び、西田幾多郎が「内在的超越」と概念的に表現したことが、髙野喜久雄と高田三郎によるこの歌曲では、詩の言葉と音楽によって実に具体的に象徴されていると思いました。
 
 このコンサートの女声合唱組曲「マリアの歌ー村上博子 詩。高田三郎 作曲」では、壮大な叙事詩ともいうべき「水のいのち」とは対照的な叙情詩の世界が歌われますが、そこでも詩のことばと音楽のハーモニーを聴くことができました。村上博子の詩のマリアは、街角のなかですれちがうマリア、カットグラスの玻璃のかおりに感じるマリア、病に苦しむ冬の日に到来を予感させるマリア、そしてこの詩の最終連、
「すべての定義を風のようにのがれて/あなたのお答えだけが/不思議な星となってまたたいている」
は、様々な神学者のマリア論を逃れるマリア、「お望みならばそうなるように」というその「答」の不思議をさりげなく歌っています
合唱のあとで、ピアノがまさに星の瞬きのようなピアニシモを後奏したのが印象的でした。
 
このコンサートの第一部「グレゴリオ聖歌と典礼聖歌」の指揮をされた西脇純さんは、細川ガラシャのラテン語によるバロックオペラの再演企画の実行委員もお願いしています。
リヒトクラウス会員の懇親会で伺ったところでは、西脇さんがドイツで書かれた神学博士論文はアンブロシウスとミラノ学派の典礼聖歌についてのものであったとのこと。東方キリスト教の伝統、とくにその神秘主義、典礼と音楽の伝統、アウグスチヌスの回心にも多大の影響を与えたアンブロシウスは、東西の対立を越えた典礼音楽の源流の一つです。
 
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Christmas Card from St. Gregory’s House in Tokyo, Japan

2019-12-25 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

Christmas Card with my linked poem from St. Gregory's House in Tokyo, Japan (25/12/2019)

Sleeping with animals,
A newborn baby lies in the manger.
Reflecting the light in the darkness
Heavenly Stars shine in the water.

牛は知り驢馬も知りたる飼葉桶
      十字姿に眠る嬰児
聖母汲む井戸に降りたる空の星
      今も輝く深き水底

(Literal translation of the above Japanese linked poem of Haiku)

Ox recognizes a newborn baby and Donkey also knows
The way from the manger to the cross.
Having descended unto the well our lady once drew
Heavenly stars shine in the depth of the water now.

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