重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。





12月20日(火)、押上にある
東京大空襲原告団事務所にて交流会を行いました



重慶爆撃の被害や裁判について原告簡全碧さんが
東京大空襲裁判原告団と意見交換をしました。


簡全碧さんは1939年5月4日の爆撃で自宅が全壊し全財産を失い、
1940年8月19日には一家が移り住んでいた父方の実家も
爆弾の直撃を受けて父方の祖母が壊れた家の下敷きになって死亡、
祖母に抱かれていた簡さんは奇跡的に助かりましたが、
簡さんも右上腹部に大怪我をしました。


東京大空襲の写真を見ながら当時の様子を話していただきました。



最後に重慶爆撃訴訟原告へメッセージを書いていただきました。




握手をする星野原告団長さんと原告簡全碧さん




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午後5時、弁護士会館5階502EFにて
裁判報告集会を行いました



※簡全碧意見陳述書・日本文(PDF)
※簡全碧意見陳述書・中国文(PDF)


第20回裁判の法廷で陳述した重慶の原告簡全碧さん(中央)


弁護団長である田代弁護士より、本日の法廷の説明


東京空襲原告団副団長の城森満さん


連帯する会で広島の支援者藤岡安馬さん


医師の松井英介さん


平和フォーラム代表福山真劫さん


大阪空襲訴訟原告団代表・安野輝子さん(左)、原告簡全碧さん(中)、東京空襲原告団副団長・城森満さん(右)



記念写真



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午後2時半、霞ヶ関デモ!!

重慶大爆撃訴訟原告団と支援者らは日比谷公園を出発し、
霞ヶ関から虎ノ門までをデモ行進しました。


原告と支援者らは日本政府に謝罪と賠償を求めてデモ行進をしました。



重慶の原告簡全碧さんを先頭にデモ行進(虎ノ門交差点付近)



簡さんは「世界平和万歳」と書かれた紙を掲げてデモをしました

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12月19日(月)、第20回重慶大爆撃裁判が開かれました


※簡全碧意見陳述書・日本文(PDF)
※簡全碧意見陳述書・中国文(PDF)


午後1時半、東京地裁の司法記者クラブにて記者会見を行いました。


記者会見の様子
壇上右から西川重則さん(連帯する会・東京事務局長)、簡全碧さん(原告)




重慶の原告簡全碧(ジェンチュアンビ)さん

簡全碧さんは1938年5月18日重慶市生まれで現在73歳です。
1939年5月4日の爆撃で、渝中区羅漢寺自平巷にあった簡さんの自宅は全壊し
家財のすべてを失い、1940年8月19日には一家が移り住んでいた父方の実家も
爆弾の直撃を受けて父方の祖母が壊れた家の下敷きになって死亡しました。





祖母に抱かれていた簡さんは奇跡的に助かりましたが、右上腹部に大怪我をして
傷口がふさがった後も長い間傷痕が痛み苦しみ、今も大きな傷痕が残っています。
簡さんの母親は、爆撃後の生活苦と病気のために間もなく亡くなり、
簡さん自身も父親と離ればなれになって孤児同然の生活を送るようになりました。



記者会見の様子

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