重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。





2012年8月重慶大爆撃の被害者2名が広島を訪問しました

2012/08/04 平和記念公園


原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前にて
重慶市の被害者李渝順さん(中央)と倪世珍さん(右)
重慶大爆撃の被害者と連帯する会の由木さん(左)


2012/08/05「広島-重慶を結ぶ集い」



重慶市から来日した倪世珍さん(左)、李渝順さん(右)




母董徳芳さんの写真を持ちながら涙ながらに話す倪世珍さん
倪世珍さんの母董徳芳さんは、1940年8月9日の重慶大爆撃で右足に重傷を負いました。


李渝順さん


2012/08/06「被爆67周年8・6ヒロシマのつどい」





重慶大爆撃の被害について語り、
裁判への支援を呼び掛ける倪世珍さん

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