重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。





2012年12月30日から2013年1月4日まで、
中国の成都、楽山、松潘へ訪中調査をしました。




12月31日  成都市

成都市の原告団、支援団、研究者らとの合同会議・交流会


発言する重慶大爆撃訴訟弁護団団長 田代博之弁護士(左)
  

会議後の記念写真
(1列目一番左は成都爆撃の研究者・劉世龍先生)


1月1日  楽山市 

楽山市の原告団、支援団、研究者、弁護士らとの合同会議・交流会



楽山市の原告楊銘佳さん(中央)と研究者の楊追奔さん(右)


楽山市の原告の羅保清さん







 

1月2日-3日  松潘 

都江堰にて、松潘爆撃の研究者・支援者らとの会議


1月2日の会議での記念撮影


1月3日 松潘爆撃の研究者・張翔里さん(右奥)と

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