重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。






2012年10月4日付「中文導報」にて第23回裁判が報道されました
※画像をクリックすると「中文導報」の記事が表示されます




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




成都の原告達朋芳さんの証言をYoutubeにアップしました!


【証言】成都の原告 達朋芳さん(2012/10/03撮影)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




10月3日午後2時、押上の原告団事務所にて
東京大空襲訴訟原告団との交流会を行いました。




東京大空襲訴訟原告団の皆さんと成都の原告達朋芳さん(右)



成都爆撃の被害を話す原告達朋芳さん(左)
1941年7月27日の成都爆撃で家族親族を殺され、自身も
左腕脱臼による後遺症で困難な生活を強いられました



交流会の後、達さんへの寄せ書きを書いていただきました



寄せ書き



東京大空襲の本を原告団の皆さんから受け取る達朋芳さん



記念写真

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




10月3日、原告達朋芳さんが内閣府を訪問しました。




内閣府へ陳情書を提出する原告達朋芳さん(左)



成都爆撃の被害を訴える原告達朋芳さん(中央)



左腕脱臼のために体が左下下がりに傾いていることを説明する原告達朋芳さん



内閣府前にて

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




10月1日(月)、第23回重慶大爆撃裁判が開かれました
 

①午後13時半、記者会見(東京地裁の司法記者クラブ)


壇上向かって左から萱野 一樹弁護士、原告達朋芳(ダ ポン ファン)さん

達朋芳さんは1938年12月26日生まれ(現在73歳)、回族です。
 1941年7月27日、日本軍による成都爆撃で、祖母馬馬氏、従兄馬道元、
父方の叔母達鳳英が殺され、達さん自身も左腕に重傷を負いました。



裁判の説明をする萱野弁護士

②午後2時半、霞が関デモ



重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京の代表前田哲男さん(左)と原告達朋芳さん


③午後5時、裁判報告集会(弁護士会館10階1006AB)



原告達朋芳さん(左)、田代博之弁護団長(右)



本日の裁判と裁判の今後の予定について報告する田代博之弁護団長



大阪空襲の生き残りである松井英介医師



東京大空襲訴訟の原告団副団長の城森満さん



重慶大爆撃の被害者と連帯する会の藤本安馬さん

 

【関連日程】

国会議員訪問


10月2日、原告達朋芳さんが国会議員を訪問しました。



首藤信彦衆議院議員(右)

旧日本軍による成都爆撃で家族を失い、 自らも左腕に障害が残ったことに対し、
日本政府へ謝罪と賠償を求める裁判の支援をお願いする原告達朋芳さん(左)



首藤信彦衆議院議員(右)と握手する原告達朋芳さん(左)



旧日本軍による成都爆撃の被害を訴えた原告達朋芳さん(左)
服部良一衆院議員(右)



服部良一衆院議員(左)と握手する原告達朋芳さん(左)
(後の掛け軸は楽山市の原告声援団によるもの。「反戦和平和解」と書かれている)




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )