重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。





中国重慶訪問団団長
作家   王 群生


 私は「被爆57周年再び戦争をくり返すな!8.6ヒロシマ大行動」実行委員会共同代表の栗原君子元国会議員、一瀬敬一郎弁護士及び吉田義久教授のお招きに応えて、広島に参りました。この度、平和を呼びかけ戦争に反対している多くの日本人民とともに「被爆57周年再び戦争をくり返すな!8.6ヒロシマ大行動」に参加する機会を与えてくださり、本当にありがとうございます。この厳粛な演壇において、重慶市民の「平和宣言」を発表することは平和を愛し、戦争に反対する市民の長年の願いでした。今日はようやくそれが実現しました。
 我々重慶市訪問団のメンバーは次の通りです。私は訪問団の団長で、作家、重慶大空爆の被害者、研究者です。訪問団の顧問の王孝詢氏は西南師範大学教授、重慶大空爆研究者です。訪問団の団員の高鍵文氏は重慶大空爆の被害者、六・五大隧道虐殺事件(較場口トンネル虐殺事件)の生存者です。訪問団の秘書は劉宗平氏です。我々は重慶市市民から侵略戦争への怒りと批判を、又重慶市市民から世界平和への熱望と期待を、さらに重慶市市民から日本人民、広島市民への友好希望と平和祝福を、一身に受けて、この地広島にやって参りました。
 さて、以下にご紹介致しますのは、栗原先生が「重慶市民へのメッセージ」の中で述べられた文章です。「私たちは、戦争への道をくり返してはならないと闘っています。広島市民は、57年前、原子爆弾によって多くの親、兄弟、友人を無くしました。幸いにして生き残った者たちは放射能にむしばまれ苦しい闘病生活を送っています。しかし、広島への原爆投下の前に、中国や朝鮮半島の人々をはじめアジアの民衆に対する加害の歴史があったことを反省せずにはいられません。アジア民衆2000万人もの人々を犠牲にする侵略戦争を止めることが出来なかった結果として、私たち日本人自身も300万人の兵士が殺され、原爆投下の犠牲を被ったのだと捉え返しております。日本国民は、この侵略戦争の反省に立って、二度と過ちはくり返さないと誓います。」
 我々も栗原先生の考えに心から同意します。日清戦争からの100年の歴史の間にに、軍国主義下の日本は、中国に何度も侵略し、中国の領土を蚕食しました。日本は、1931年の9・18事件から中国に侵略しはじめ、1937年の7・7事件に至って、ついに中国に全面戦争を開始しました。これに対抗するため、中国人民は総動員され、抗日戦争に参加しました。我々の都市の重慶市を例にあげますと、1938年の初めに国民政府が重慶に遷都した後、1938年2月から1943年8月までの6年間に、日本軍は、合計9000機あまりの戦闘機を出撃させ、空爆を行ったことによって、死傷者数は3万人余りにも上りました。1941年6月5日の六・五大隧道虐殺事件を例とすると、わずか一回で、死亡者人数は3千人近くになります。日本軍が重慶に行った空爆の目的は、我々民衆の抗日の意志を破壊し、国民政府を降伏させることにありました。この長期的な空爆はきわめて残虐なものでした。昼夜兼行で空爆したり、不意をついた襲撃をしたりしました。爆発弾、焼夷弾、毒ガス弾、細菌弾なども使用され、その規模、状況、もたらされた被害から見ると、重慶大爆撃は世界の空爆史において前例のないことです。これは、中国人民、重慶市民に対して、日本軍国主義が負った血の債務です。
 この度、私は「8.6ヒロシマ大行動」に参加するために、当時重慶大空爆の現場記録映画、写真集と歴史資料を持ってきました。同時に、今回来日した人の中でも私と高鍵文さんは、重慶大空爆を身をもって体験しています。私達は、この大災難の被害者、生存者であり、また日本軍国主義の侵略戦争の歴史証人でもあります。
 今年は中日国交回復30周年にあたります。そして「7・7事件」、日本軍国主義が行った全面侵略戦争65周年にもあたる年です。ここで、日本軍国主義が、当時中国、重慶に対して行った戦争加害行為を訴えるだけではなく、8月6日に、広島で、原子爆弾によって尊い命を奪われた無辜の魂の前に、深甚なる哀悼の意を申し上げます。
 加えて、我々は、日本人民、アジア人民、世界平和を愛する各国人民とともに、小泉首相の靖国神社の参拝に対し反対いたします。そして軍国主義の魂を呼び戻すために、教科書を改ざんし、侵略歴史を歪曲することに反対いたします。また、「有事法案」、「戦争法」の立法に反対いたします。日本人民を再び戦争の道に導こうとする陰謀を、決して達成させてはいけません。今日、私は「8.6ヒロシマ大行動」の厳粛な演壇において、日本人民及び世界人民に対し、重慶大空爆の歴史事実を訴え、また重慶市民、中国人民が世界平和を愛し、世界平和を熱望しているということを、宣言いたします。
「前事を忘れざるは後事の師なり」という諺があります。我々は、日本人民と共に闘い、宣言いたします。二度と戦争を行わず、中日人民の間に子々孫々に渡って友好関係を築いていきましょう。常に軍国主義の復活に対して警戒し、再び戦争の惨禍をくり返しては行けません。
 我々の美しい世界において、人民の友愛がどこにでもあふれ、友情の花が至る所に咲きみだれることを、心より願っております。



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ある生存者の心からの声
侵華日本軍による重慶大空爆六・五大隧道虐殺事件の生存者

高鍵文


 1945年8月6日は広島の原爆記念日です。今日、平和を求める多くの人々がここに集まり、厳かに広島平和活動を行い、戦争に反対し、平和を呼びかけます。
 この活動には重大な意義があります。今年は中日国交回復30周年にあたる年であります。私は、この度「8.6ヒロシマ大行動」実行委員会共同代表の栗原君子元国会議員、一瀬敬一郎弁護士及び吉田義久教授のお招きにお応えし、王群生団長の下、第二次世界大戦日本侵略軍による重慶大爆撃の生存者として、この集会に参加できたことを、大変感謝し、嬉しく思います。
「8.6ヒロシマ大行動」は、日本人民にとって、戦争についての認識を深める好機になると共に、中日両人民の友情を深め、世界平和を促進し、維持するという点において、重大な歴史的意義をもつ集会であると思います。
 これから、私は日本の友人の皆様方に、重慶大空爆及び六・五大隧道虐殺事件の自らの経験を、沈痛な気持ちで述べさせていただきます。
 私は「重慶大空爆」という歴史的事実を思い出す度に、心が痛み、悲しい気持ちでいっぱいになります。1937年抗日戦争初期、わが国の上海、南京、武漢は、日本侵略軍に相次いで占領され、1938年には、国民政府は長江に沿って次々と敗走し、やむなく重慶に遷都しました。その後、重慶という都市は、日本政府にとって「中国の抗日戦争意志をぶち壊す」「空爆によって降伏させる」という戦略計画を実行する為の、最も主要な空爆目標となりました。
統計によると、日本軍は重慶に対し、218回の空爆を実施し、9,513機の飛行機を出撃させ、21,593発の爆弾を投下しました。この空爆によって、重慶市区はほどんど廃墟となり、死傷者は2.5万人余りの数に上り、財産と家屋の損失においては数え切れないほどの甚大な被害を受けました。
この被害の数値は、第二次世界大戦期間中、及び全ての人類史において、記録的数値です。日本軍事評論家前田哲男氏も「一つの都市に対して、こんなに長期的に強く攻撃し続けたことは、航空史初めてのことである」と認めました。
 そして、1941年の六・五大隧道虐殺事件は日本軍の「重慶空爆」の中でも最も悲惨な事件です。私は、この事件の生存者であります。
 あれは6月5日の夕方のことでした。暫く前まで小雨が降っておりましたが、止んで、だんだんと暗くなってきておりました。突然、空爆警報が鳴りひびき、市民達は急いで防空洞に入りました。
当時私は16歳で、瓷器街にある雑貨店を手伝う傍ら、重慶空襲服務隊のボランティアをしていました。私は空爆警報を聞いて、急いで市民達と一緒に衣服洞口から防空洞に入りました。この夜、日本軍は重慶を空爆するために、24機の飛行機を出撃させ、3回に分けて空爆し、空中から旋回しながら掃射し、少量の爆弾を市中区と南岸地区に投下しました。約1時間後帰航し、また8機の飛行機が飛んできて、繰り返し爆撃しました。このように、3回連続で爆撃が行われたため、夜11時になっても警報は解除されませんでした。
 このような連続爆撃によって、較場口中興路口の警報信号台の赤い灯籠が壊れました。そこで、ある人が、空爆警報の代わりに赤い布で包んだガスランプを使用したらどうかと提案しました。しかし、そのことが逆に、大隧道の中に避難している市民に、日本軍の飛行機が毒ガス弾を使うのではないかと誤解させるきっかけとなり、市民等はパニック状態に陥りました。避難人数が多く、大隧道の中にいる時間が長かったため、空気が足りなくなり、防空洞に避難した市民は窒息する恐れがありました。
しかしその一方で、さらに中へ避難しようとする人達が、防空洞口にいました。中の人達は新鮮な空気を求めて外に出ようとしました。そのため防空洞の中は、混乱状態に陥りました。何回かの騒ぎの後、ある人が突然倒れ、後ろの人達がこの人の体の上にさらに折り重なるように倒れ、出口が塞がれました。防空洞の中にいる、まだ窒息していない人たちは、石灰口、衣服口の方に向かいました。しかし石灰口、衣服口方面の人たちも十八梯口方面に押し寄せてきたので、道はついに塞がれてしまいました。
 そのとき私は、ほかの人の上に手を置いて、力を入れて外に辿り、なんとか防空洞の石椅子の上に登ることができました。しかし、上半身は押し合っている人たちの頭の上に抜け出すことが出来たのですが、腰は混乱状態の人に噛まれ、下半身は死体に埋もれたままでした。その後、やっとの思いで死体から抜け出しましたが、左足は死体にしっかりと掴まれてしまいました。掴まれた時間が長かったため、私の左足にはそのあと障害が残りました。
 6月6日午後3時ごろ、私はやっと救出されました。私は幸いにも助かりましたが、不幸にも亡くなった人たちの状況を見た時は、非常に恐ろしくなりました。その光景はあまりに悲惨でした。家族全員が亡くなったり、子供は孤児になったり、生まれたばかりの子供を抱いたまま死んだり、夫婦の片方が亡くなって残った人はショックで病気になったり、妊娠している女性は踏まれて亡くなったりしていました。
死んだ人は棺、蓆で包まれ、埋葬されましたが、死者の数があまりに多すぎて、棺、蓆はすぐに足りなくなりました。残った死体はトラック20台で朝天門に運ばれ、50台の木船を使って、対岸の江北黒石子でそのまま埋葬されました。
 虐殺事件の翌日、国民政府は被災状況について詳しく調査しました。較場口周辺地区の市民は、大隧道に入った人はほとんどの人が亡くなり、生き残った人は稀でした。家族全員が亡くなったケースもあります。当時、私と一緒に仕事をしていた五人は、全員防空洞に入りましたが、幸いにも死を免れたのは私一人でした。
 この事件の死亡者数については、いくつかの説があります。一万人が亡くなったという人もいれば、何千人が亡くなったという人もいます。当時政府の新聞で公表されたものによれば、死者は992人で、負傷した人は115人だそうです。(あくまで聞いた話に過ぎませんが、もし1,000人以上が亡くなったら、政府の役人たちは殺される恐れがあったそうです。)したがって、新聞の公表数は確実ではありません。その後の資料によれば、死亡した人は3,000人以上ということでした。
 この60年前の事件は、非常に悲惨で、国内外を驚かせました。今でさえ非常に恐ろしく感じます。この事件を思い出す度に心が痛みます。
日本軍による侵略戦争は、中国人民に甚大な被害をもたらしました。日本軍の重慶への空爆は、重慶人民に対し、日本軍が負った血の債務であり、犯罪行為が行われたことは明白な事実です。
残念ながら、近年、日本国内において、この侵略の歴史を否定する言動が目立ちます。たとえば、公式に「プライド」という映画を上映したり、教科書を改ざんしたり、靖国神社を参拝したりする行動は、完全に戦犯の魂を呼び戻し、中国人民及びアジア人民を傷つけ、挑戦するものです。これは、日本国内において、相当強固な軍国主義勢力が存在していることを示しています。
 したがって、我々中日両国人民はそのような動きを絶対に無視することはできません。常に警戒心を高め、日本における軍国主義勢力の動きに注意を払わなければなりません。一旦戦争が始まれば、人民に多大な犠牲をもたらすことになります。当時日本軍が行った侵略戦争において、中国は最大の被害国で、この戦争によって3,500万の中国人民が亡くなり、日本人民も300万人が亡くなったのです。
 そして、今ここに、我たちは重慶大空爆の生存者を代表し、広島の原子爆弾で亡くなった日本人民に対して、心から哀悼の意を申し上げ、その遺族に対して慰問いたします。中国には、こういう諺があります。「3,000人を殺すと、こちらも800人は死亡するだろう」。我々両国人民は戦争によって苦しめられたのであり、歴史的事実を絶対に忘れてはいけません。そして、この歴史的悲劇を再現させてはいけません。
わが国の江沢民国家主席は、「ひとつの民族はもし自分の歴史を忘れたら、現在を深く理解し、未来に向かうことができません」と言っています。この度、中日国交回復30周年を迎えて、我々は「歴史を鏡とし、未来に向かう」という理念の下、中日両国人民(特に青少年)の友情を、子々孫々にわたって永遠に継続し、両国人民が相互に交流を続けていくことを再確認すべきです。そして、我々の国をより繁栄・発展させ、人民にとって幸福な生活を保障しなければなりません。我々両国人民は協力し、この共通の願いを実現し、世界平和を守るために努力しましょう。
 最後に、「8・6ヒロシマ大行動」のご成功を、心からお慶びいたします。



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日本の8.6「広島大行動」に出席する際


中国・重慶訪問団 団長
作家 王群生

 今日、私はこうして「8・6広島大行動」の厳粛な演壇に立ち、私の心からの主張を述べさせて頂きます。その前に、今大会の重慶訪問団団長として、日本の友人達に我々訪問団の構成員を紹介させて頂きます。
 重慶訪問団は以下の者で構成しております。私は王群生と申します。訪問団団長、国家一級作家、重慶市作家協会の副主席、重慶市文史館副館長、「重慶大爆撃」の被害者であり、研究者でもあります。訪問団の顧問である王孝詢さんは、西南師範大学教授、修士院生の指導教官、「重慶大爆撃」研究センター主任の研究者です。高鍵文さんは、「重慶大爆撃」の被害者、六・五大隧道虐殺事件(較場口トンネル虐殺事件)の生存者です。劉宗平さんは訪問団の団員(重慶市文史館の館員)です。
 我々は重慶市民及び中国人民の侵略戦争に対する怒りと批判を、また重慶市民及び中国人民の世界平和に対する渇望と期待を、さらに重慶市民及び中国人民の広島市民並びに日本人民への平和の祝福を、一身に受けてこの地広島にやって参りました。
そして我々は、「戦争を二度と繰り返すことは許されない 8・6広島大行動」実行委員会代表の元国会議員栗原君子さんに感謝いたします。同時に一瀬敬一郎弁護士、吉田義久教授に感謝いたします。先生方の強い招請があったからこそ、我々重慶訪問団は日本に来て、戦争に反対する広島の市民たちと共に「戦争を二度と繰り返すことは許されない 8・6広島大行動」に参加し、平和を呼びかけることができます。この厳粛な演壇において、重慶市民の「平和宣言」を発表することは、我々平和を愛し、戦争に反対する重慶市民の長年の願いでした。皆さんのたゆまない努力の下で、今日、この願望がついに実現できました。
 栗原君子さんが「中国、重慶の市民友人達へ」の招請状の中で次のようにおっしゃっていました:
 「戦争を二度と繰り返すことは許されない。広島市民は57年前に、原子爆弾のために自分の親族、兄弟及び友達を失いました。幸い逃れた人たちでさえも放射能の影響で苦しんで生きています。しかし我々が反省しなければならないのは、広島に原子爆弾を投下される前に我々が中国、朝鮮半島のアジア人民に被害をあたえた史実です。我々はアジア人民を2000万、3000万人も殺害した後、我々日本人自身も原子爆弾投下による被害を受けました。軍人、軍人の家族、一般の市民を含めて310万人が死を余儀なくされたのです。日本人民はこの戦争を反省し、同じような過ちを決して二度と犯さないと誓います。」
 我々は栗原君子さんの意見に心から賛成いたします。日本軍国主義は「日清戦争」以来100年に渡って、何度も中国を侵略してきました。1931年に「9・18事変」を引き起こし、1937年に「7・7事変」を引き起こし、ついに中国に対する全面的な侵略戦争を引き起こしました。中国人民は総動員で、我々の血と肉で新しい長城を作り、全中国人民は敵愾心を抱いて抗日戦争を戦いました。
 我々の都市重慶を例としてあげます。1938年の初め、国民政府は重慶を抗戦時期の首都と定めました。その後、1938年2月から1943年8月までの6年間に、日本軍は一万機余りの爆撃機、戦闘機を出撃させて重慶を爆撃し、3万人近くの人を死傷させました。六・五大隧道虐殺事件を例にとると、わずか一回の爆撃で3000人近くの人が死亡しました。日本軍が戦略的な「重慶大爆撃」を行う目的は、中国人民の抗日意志を打ち砕いて、国民政府に降伏を強制することにありました。重慶に対し長期にわたって激しい爆撃が繰り返され、その攻撃は野蛮且つ血生臭いものでした。それにより重慶市民は疲労困憊しました。また、昼夜兼行で爆撃を行い、不意打ちの襲撃をしたり、爆弾、焼夷弾、毒ガス弾、細菌爆弾を使用したり、あらゆる卑劣な手段をとりました。その規模の大きさ、残酷さ、それによって生じる損失の大きさは、世界空襲史にも前例がありません。これは日本軍国主義が中国人民、重慶市民に対して血の債務を負ったことになります。
 私の父、王錫欽の日本での姓名は高橋景龍といい、中国系です。父は幼い頃に、独身主義を堅持している日本の高名な歯医者・高橋茂次の養子となり、養父と一緒に東京に来て生活し、就学しました。その後父は、東京歯科専門学校を卒業し、ある華僑の娘(私の母)と結婚しました。私は1935年9月に日本の東京で生まれ、私の日本での姓名は高橋子和といいます。1937年7月7日、抗日戦争が起こった後、両親は民族感情、そして愛国への思慕の情から、養父に別れを告げ、何年間も住んでいた日本を離れて、船で帰国しました。その後1938年に、重慶に定住しました。
 そのため、日本から帰ったばかりの幼い子供である私も、日本軍が首都重慶に対して行った爆撃の際には、例外なく爆撃、掃射の目標になりました。
 1939年の5月3日と5月4日は、重慶の歴史上最も血生臭い、痛ましい日です。日本空軍は建物が密集し、市民がたくさんいる重慶の中心部の市街地に対して、規模の大きい、絶え間ない爆撃を行いました。二つの川が合流するところの朝天門から、市の中心部までの2キロメートルにわたって、平素市民で賑わう地域は、恐ろしい火の海となりました。死亡した同胞や焼きつくされた都市は、幼い私の記憶に恐ろしい光景として焼き付きました。60年後の今でも、私は爆撃の光景をはっきりと覚えています。私達家族のあとを追うように、日本から重慶に飛んで来た侵略者たちは、罪のない重慶市民たちが血と涙を流している光景を、幼い私の目に焼き付けました。この時から私は、「戦争とは何か、侵略とは何か、正義とは何か、平和とは何か」を考え始めたのでした。菜園?にある私の重慶での最初の家は、この大きな爆撃で焼き払われてしまいました。
 日本侵略軍が重慶に対して6年間にも及ぶ爆撃を行ったため、私はいつも家族と一緒に重慶の繁華街あるいは南の岸の近郊で、日本軍機が投下する各種の爆弾に追い回されていました。この6年間、日本軍の爆撃のため、私の家と父の診療所は3回も火の海の中で廃墟になりました。最もはっきり覚えているのは医者である父と一緒に、1941年6月5日の六・五大隧道虐殺事件の現場に行った時に、自分の目で何千人もの遭難した同胞の死体の処理を見たことです。また、1943年、1944年の春と夏、日本軍が細菌爆弾を投下したため、重慶の市区と近郊に2回のコレラが流行し、数多くの市民の命が奪われました。両親の養女、つまり私の姉は、この人為的な疫病が流行する中で死んでいきました。
 この日本軍の連続爆撃が6年もの間続くうちに、私も幼い子供から小学生になりました。私たち小学生は、犬のように首に小さな掛け札をかけさせられました。その掛け札には姓名、学校、住所などが書いてありました。これは、もし私たちが行方不明になったとしても、身元を確認できるようにするためです。数年間の小学生生活は、教室で授業を受けるよりも、両親あるいは先生にしたがって、トンネルに入ったり、広い火の海と廃墟を通り抜けたりすることの方が多かったと言えます。それは、天真爛漫な子供が見るべきではない、血生臭い悪夢でした。しかし、それが日本の侵略者によってもたらされた少年時代の現実でした。それを今、平和な環境で暮らしている中国と日本の子供たちに教えることが、私の責務だと思っています。
 どんな悪夢でも目覚めれば朝をむかえます。あの悪夢からもう60年経ちました。その血生臭い往事は、確かに昔のこととなっています。しかし軍国主義の亡霊はいつまでもつきまとい、日本に軍国主義の魂を呼び戻そうとする右翼分子はいまだに存在します。だからこそ「重慶大爆撃」の被害者、生存者である私たちは、自らの記憶を思い起こし、広島市民並びに平和を愛し、戦争を反対する日本人民と共に歴史を考え、互いに励まし合っていきたいと望むのです。
 今日、「重慶大爆撃」の被害者、生存者、特に自ら「重慶大爆撃」を経験し、日本軍国主義の犯罪行為の目撃者である高鍵文さんと私は、今こうして「8・6広島大行動」に参加しております。私たちは当時の「重慶大爆撃」現場の記録映画、写真画集と歴史の資料を持ってきました。
 今年は中日が外交関係を結んでから30周年にあたる年であります。また、「7・7事変」という、日本軍国主義が全面的に中国に対する侵略戦争を引き起こす契機となった事件からは、65周年にあたる年でもあります。ここに我々は、日本軍国主義が中国、重慶に対して犯した犯罪を告発すると同時に、我々も侵略戦争で投下された原子爆弾によって、尊い命を奪われた何十万広島市民の魂に、深甚なる哀悼の意を表します。そして被害者、生存者及び親族、後代の人びとに、心から慰問の意を表します。
 また、我々は日本人民、アジア人民、世界の平和を愛する各国の人民とともに、小泉首相が靖国神社を参拝することについて、反対いたします。教科書を改ざんしたり、歴史を歪曲したり、軍国主義の魂を呼び戻すことに反対いたします。「有事法制」を制定して「戦争法」を実施することに反対いたします。日本人民を侵略戦争に参戦させることは許されません。
今日、我々はここ日本において、「8・6広島大行動」の演壇より、日本人民、世界人民に「重慶大爆撃」の血生臭い歴史の事実を伝え、同時に重慶市民及び中国人民が、世界平和を呼びかけ、平和を心から希求していることを発表します。 「前事を忘れざるは後事の師なり」という諺があります。我々は日本人民とともに行動して、平和を呼びかけていきたいと思います。中日人民は永遠に友好関係を築き、世界の平和を守り、軍国主義の復活に警戒をして、二度と戦争を引き起こすことは絶対に許しません。
 我々の美しい世界に、どこにでも愛があふれるようになり、平和の花が至るところに咲かんことを、私たちは心から祈っております。



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日本軍の爆撃機が重慶を爆撃することに関するいくつかの問題

王孝詢

一 日本軍による重慶爆撃の情況

 1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、日本侵略軍は9000機余りの爆撃機を出撃させ、重慶に対して5年間にわたり爆撃を続けた。歴史上これは「重慶大爆撃」と呼ばれている。
当時の中国国民政府の記録によると、日本軍の爆撃により、11,889人の重慶市民が殺され、14,100人の重慶市民が負傷し、壊された家屋は3万軒余りである。他の財産の損失は数えきれない。
 「重慶大爆撃」の中でも、1939年5月3日、5月4日の爆撃及び1941年の六・五隧道虐殺事件は全世界を驚かせた。
 1939年5月3日の昼、日本海軍航空隊の第一空襲部隊に属する36機の中型の爆撃機は、重慶中心部の人家が密集した商業地域に対し、冷酷な無差別爆撃を加えた。爆弾98発と焼夷弾68発を投下し、下半城の19街路の町並みは廃墟になり、主城の41街路の町並みは火の海となってしまった。爆撃は1時間かけて行われ、673人が死亡し、350人が負傷し、爆撃や火事で壊された家屋は1,068軒である。
 1939年5月4日の午後6時、日本海軍航空隊の爆撃機27機は再度重慶市の中心部を1時間以上かけて爆撃した。爆弾78発と焼夷弾48発を投下し、上半城の38街路の町並みが爆撃され、最もにぎやかな10街路の町並みが全壊され、3,318人が殺され、1,973人が負傷し、3,803軒の家屋が壊された。この爆撃による死傷者数は、一回の爆撃による死傷者数という点においては、第二次世界大戦中最高記録である。
 1941年6月5日夜の6時18分から11時27分にかけて、日本軍の爆撃機は3陣に分かれて順番に重慶を爆撃した。5時間もかけて行われたこの爆撃によって、重慶市中心部のトンネルに難を逃れようとした市民1,000人が窒息して死亡するという、非常に凄惨な結果がもたらされた。

二 日本が重慶を爆撃した目的及び戦術の変化

 1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事件をきっかけに、全面的に中国を侵略する戦争を発動した。盧溝橋事件から広州を占領した1938年10月25日までの15か月間、日本軍は中国に100万の兵力を投入し、中国の13省の340都市及び100万平方キロメートルの土地を侵略して占拠した。
ところが1938年の末、日本侵略軍は44.7万人が死傷し、軍事力は大いに弱められた。軍事費の支出が大幅に増えたため、日本人民の生活は日増しに悪化して、日本国内では戦争に反対する声も高まった。
一方、中国の抗日勢力は叩き潰されてなかった。100万余りの中国の正規軍は、武漢の周りの戦区に駐屯し、直接に華北、華中の日本侵略軍に脅威を与えた。国民政府が支配した西南と西北地域には、日本軍と対抗する実力があった。中国共産党が率いる八路軍と新四軍は、抗日根拠地に遊撃戦を行い、正面戦場と合わせて、日本軍を挟撃する状態になった。日本軍は広州を占領した後は、大規模な戦略進攻は困難になり、抗日戦争は対峙する段階に入った。
 1937年11月、国民政府は最後まで抗日戦争をするため、重慶に遷都することを決め、公に発表した。その後、重慶は抗日戦争時期の中国の政治、経済、軍事及び文化の中心となった。中国人民の抗日意欲をたたきつぶし、国民政府を投降に追い込み、中国を滅亡させて「大東亜共栄圏」を打ち立てるため、日本侵略軍は重慶を最も重要な攻撃目標として、1938年から重慶に対して戦略爆撃を開始した。
 1938年に日本軍が重慶に対して行った爆撃は、長距離で試験的な攻撃であったが、1939年に入ると爆撃は頻繁に行われるようになり、かつ野蛮な大量虐殺の段階に入った。その特徴は以下の通りである。第一に、日本軍は賑やかな市区を爆撃するだけではなく、近郊ひいては遠い郊外も爆撃の目標にした。第二に、無差別爆撃を実施した。人民の住宅、学校、工場、医院、外国の駐在機関及び大使館も爆撃された。第三に、昼の爆撃に加えてさらに、夜間においても不定時に爆撃する戦術をとって、かき乱す時間と爆撃する時間を伸ばし、重慶を常に不安定な状態においた。
 1940年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦争が勃発した。日本は、南に進攻して、東南アジアと太平洋にあるイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの国の植民地を奪う好機が来たと考え、中国に対する侵略戦争を、出来るだけ早く終わらせようと考えた。南へ進攻する兵力をつくるため、日本は「101号作戦」計画を立て、重慶に対して1939年より更に激しい、広範囲にわたる爆撃を開始した。
数で比較してみると、前年の1939年には日本軍は59陣で809機の爆撃機を出撃させ30回の爆撃、2,213発の爆弾投下であったのに対し、1940年には日本軍は191陣で4727機の爆撃機を出撃させ80回の爆撃、投下された爆弾は9553発のもの数になった。重慶の市区だけではなく、遠い郊外地域も大規模な爆撃を受けた。1939年の爆撃は日本軍の攻撃が無差別に行われていることを露呈したが、日本は外部に対して「重慶の軍事、政治拠点しか爆撃しない」と揚言していた。
1940年には、日本がイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの国の駐在機関と大使館のため確定した「安全区」以外、日本軍の爆撃機は重慶のすべての地区と施設に対してさらに残虐、野蛮な無差別爆撃をおこなった。しかも破壊力がとても強く、新しい凝固ガソリン弾と数多くの焼夷弾を使った。その爆弾は極めて大きい被害をもたらし、爆撃によって、1939年に4,437人が死亡し、4,979人が重傷し、4,827軒の家屋が壊された。1940年、4,232人が死亡し、5,411人が重傷し、6,955軒の家屋が壊された。この2年間の死傷の人数及び壊された建物の数の差がそれほど大きくないのは、1940年に重慶市区の防空意識と防空施設が極めて改善されたことに起因する。
 1941年、日本は南に進攻する政策を推進し、太平洋戦争開始の準備をするため、対中国の戦争をなるべく早く終わらせることが日本の当面の急務になった。そのため、1940年の「101号作戦」計画の後には、日本軍はさらに1941年7月の中旬に、「102号作戦」計画を立てた。
この計画によると、5月から7月にかけて、日本海軍の第22航空隊は、重慶に対して20回余りの爆撃を行った。7月中旬に日本海軍の第11航空隊、8月の初めに日本陸軍の航空隊第60戦闘隊は相次いで重慶に対する攻撃に参入した。
この1年間の爆撃には、一つのあからさまな特徴がある。日本軍は疲労爆撃戦術を採用したという点である。大量の兵力で、一回限りの爆撃ではなく、少量の爆撃機を使って一日中連続して何度も空襲、あるいは何日間も持続して空襲した。そのため、重慶の市民は連続の空襲警報の下奔走し、疲れ果ててしまった。正常な生活や仕事ができなくなって、精神的に常に緊迫した状況に置かれた。
6月14日から16日にかけて、28日から30日にかけて、7月4日から8日にかけて、27日から30日にかけて、4回にわたって連続して爆撃があった。
8月8日から14日にかけて、連続して7昼夜の爆撃があり、毎回の爆撃の間に6時間の間隔をとった。
8月10日から13日にかけて、重慶市区では13回にわたり空襲警告が鳴り響き、警告の時間は96時間に達した。
また、日本軍は無差別爆撃の範囲を拡大し、日本軍が確定した「安全区」内のイギリス、アメリカ、フランスなどの国の大使館も何回も爆撃を受けた。全世界を驚かした六・五大隧道虐殺事件は、まさに疲労爆撃という形で引き起こされた。
 1941年12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入した。日本は太平洋戦争に参加したこと、中国の空軍と防空力が強められたこと、米国の志願航空隊すなわち陳納徳将軍が率いた「飛虎隊」が対日作戦に投入されたなどの結果、日本は中国戦場の制空権を失った。そのため、1942年、1943年に入ると、日本軍は偵察機を派遣し、重慶及び周辺地区の上空に入って、偵察しかできなくなった。この2年の間には、1943年8月23日に一回の重慶に対する空襲があった。151発の爆弾が投下され、21人が死亡し、18人が重傷し、99軒の建物が壊された。

 三 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪

 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪は三つある。
 1、平和を破壊する罪、すなわち他国を侵略する罪である。
 2、戦争法規と慣例に違反した罪、すなわち重慶を爆撃した時に国際法に反する手段をとった罪、及び平民の生命と財産を害する罪である。
1907年のハーグ陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約付属書陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則の第27条は以下のように定めている:

「包囲攻撃する時に、宗教、技芸、学校及び慈善事業に関する建物、医院及び収容所などは目標にしてはいけない」

日本が加入した1929年の「海軍条約」も同様に定めている。

「平民に恐怖を感じさせ、非軍事的性質の個人財産を害し、あるいは非戦闘員を傷害するなどを目的とする空襲を禁止する」

言うまでもなく、日本軍が重慶で行った無差別爆撃は、国際法と国際慣例に反したものである。ここで指摘しなければならないのは、日本が重慶で行った無差別爆撃は、「過失」ではなく、故意に国際法と国際慣例を踏みにじった爆撃だということである。   1937年11月に制定した日本の「航空部隊使用法」103条はこのように強調する

「……もっとも重要なのは直接に住民を空襲し、敵に極めて大きい恐怖をもたらし、敵の意志を打ち砕くことである」。

   1939年1月21日に平沼首相は議会でこのように演説した

「中国人が日本の意向を理解してもらいたい。そうでなければ、彼らを消滅する以外ほかの方法はない」。

1939年7月24日、中国侵略派遣軍の参謀長が軍事態勢についてこのように陸相坂垣将軍に提案した。

「恐怖心をつくって敵の軍隊と人民を混乱させるために、空軍は後方の戦略拠点を空襲するべきである」。

3、人道違反罪日本軍が重慶を爆撃した際に、細菌爆弾を使用した事実については、当時の新聞にも掲載された。

2001年4月、日本軍による細菌戦によって被害を受けた中国人が日本政府に賠償請求をした。これを支援するため、日本弁護団の構成員である一瀬敬一郎氏、731部隊資料編纂会の奈須重雄氏等が重慶を訪れ、調査を行った。彼らは重慶の梁平県で当時の目撃者と罹災者の遺族を訪ねて調査した。その結果、日本が重慶に細菌爆弾を投下したことが明らかになった。



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