重慶大爆撃
重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い
 

はじめに 〜「重慶大爆撃とは?」  

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。





田母神論文「日本は侵略国家であったのか」を駁す(前半)

                       「連帯する会・東京」事務局長西川重則


                             


「日本は侵略国家であったのか」(田母神俊雄、2008)という驚くべき論文が公開された。一民間人の論文ではなく、田母神俊雄防衛省航空幕僚長 空将の肩書きであり、「真の近現代史観」論文顕彰制度最優秀・藤誠志賞として公表された。
 事柄は重大であり、防衛省をめぐる諸問題が山積する現状を無視できない麻生内閣が田母神俊雄氏を更迭し、退職を求めたのは当然のことだった。
 一方、国会では直ちに、参院外交防衛委員会で、参考人招致をし、日本国憲法第66条第2項にかかわる文民続制の重要性を再確認するに至った(2008年11月11日)。
 参考人及び委員各位に対し、北澤俊美委員長(民主党)が、歴史的・今日的意義を表明すべく、次のような異例の発言をしたことは特筆に値する出来事であった。次の通りである。
 「今回の前航空幕僚長の論文事案は、制服組のトップが自衛隊の最高指揮監督権を有する内閣総理大臣の方針に反したことを公表するという驚愕の事案であり、政府・防衛省において文民統制が機能していないあかしであります。このような中で、国民が文民統制の最後の砦として期待するのは国会であります。
 昭和の時代に文民統制が機能しなかった結果、三百数十万の尊い人命が失われ、また、国家が存亡のふちに立たされたことは、忘れてはならない過去の過ちであります。
 国家が存亡のふちに立った最初の一歩は、政府の方針に従わない軍人の出現と、その軍人を統制できなかった政府・議会の弱体化でありました。
 こうした歴史を振り返りつつ、現在の成熟した民主主義社会の下において、国民の負託を受けた国会が、その使命を自覚し、もって後世の歴史の検証に堪え得る質疑をお願いする次第であります」。

 それでは、田母神論文の何が問題なのか、以下、歴史の事実に基づく歴史認識の共有を求める立場から、論文の問題点を指摘したい。
 まず、中国と日本との歴史上の諸問題を年表史から報告すれば、1915年における対華21ヶ条について、「中国も一度は完全に承諾し批准した」旨述べているが、甚だしく歴史の事実から逸脱した見解である(田母神、前掲論文42頁第1段、参照)。
 「対華21ヶ条」をめぐる問題は、日本国憲法第9条第1項に見られる「武力による威嚇」と深い関係があることを知らねばならない。第9条は「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」を明示した歴史的条文であり、「武力による威嚇」は「武力の行使」と共に、「永久にこれを放棄する」と書かれてあることから考えても、重要な歴史の事実に基づく歴史の教訓として例示されている意味を学ぶべきことを、改めて強調しておきたい。
 「武力による威嚇とは、現実には武力を行使しないが自国の主張を容れなければ武力を行使する(すなわち戦争に訴える)という態度をとつて相手国を威嚇することをいう,わが国におけるその例として大正4年[1915年]のいわゆる対支21ヶ条要求問題等が挙げられる,」(佐藤功『憲法』有斐閣、1955、72-73頁)。
 「対華21ヶ条」の要求については、日本では、ほとんど知られていないと思われるが、義務教育の教材として用いられる中学生の社会科の学習として勧められている。次のように書かれている。
 「第1次世界大戦[1914-1918]のため、西欧列国がアジアに力を注ぐ余裕のないのに乗じて、日本は中国へいっそうの進出をはかった。1915(大正4)年、日本は袁世凱の政府に対し、21ヶ条の要求をつきつけた。中国は日本の要求に屈し、やむをえずその大部分を認めた。しかし、このことは中国人の日本に対する反感を高め、1919年、北京の学生が中心となっておこした五・四運動などの排日運動がはげしくおこってくるきっかけとなり、また西欧諸国と、日本への不信感を高めた」(竹内理三 鈴木成高『中学社会科 歴史 最新版』帝国書院、249-250頁)。
 なお『新しい歴史教科書』(扶桑社、2001)の説明の結びのところに、「21ヶ条要求は・・・・中国を半植民地扱いするもので、中国のナショナリズムを軽視した行動であった」と記されている(245頁参照)。
 しかし、田母神氏によれば、「対華21ヶ条の要求」を「日本の中国侵略の始まり」という人に対して否定の立場から、「当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない」と述べている。


 日中15年戦争の始まりと言われる「満州事変」(9・18事変)についてはどうか。関東軍参謀らによって、旧満州(中国の東北地区)の柳条湖の満鉄線路が爆破され、「満州事変」が始まったのだが、敗戦後初めて歴史の事実が明らかにされた。
 たとえば、関東軍が周到な準備によって満鉄の線路を爆破したことは、次の通り、教科書に明記されている。
①「昭和6年(1931)9月、関東軍の一部は独断で柳条溝[柳条湖]付近の鉄道線路の爆破事件をおこし(柳条溝事件)、これを導火線として、関東軍はただちに軍事行動に移り、半年で満州全土を制圧した(満州事変)(『新編 日本史』、1987、218頁)。
②「仕組まれた柳条湖事件 1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天(現在の瀋陽[シェンヤン]郊外の柳条湖(リウティアオワー)で、満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側のしわざだとして、ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍が自ら爆破したものだった(柳条湖事件)(『新しい歴史教科書』扶桑社、2001、266頁)。

しかし、田母神氏は、「満州事変」そのものに一切触れることなく、「満州事変」の翌年、「満州国」建国(1932年3月1日)によって、「五族協和」が実現したかのように「各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである」と述べている(田母神、前掲論文41頁、第3段)。
 五族協和たるべき前提そのものが成り立たない歴史の事実を学び、考えようとしない論文、他民族との共生・共存の要件が欠如している「満州事変」について触れることをしない姿勢こそ問われるべきであろう。
 『朝日新聞』(2007年8月14日)が、「満州事変」を起こした関東軍の報道を前提に発表した1931年9月20日の「社説」を掲載し、深い反省と自戒の思いを述べている。関東軍が自衛権を発動させたとの主張をそのまま掲載したことに対する責任課題を「新聞と戦争」と題し、掲載するに至った良心的な報道の「社説」は次の通りである。
 「すでに報道にあるが如く、事件は極めて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶつ壊しをやつたから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたといふまでである」。
 
 『検証 戦争責任 Ⅱ』(読売新聞戦争責任検証委員会、中央公論新社、2006)に、次の報告が記されている。
 「国際連盟の現地調査委員会(リットン調査団)は、日本軍の行動は自衛行為とは認められず、満州国も純粋かつ自発的な独立運動によって出現したものではない――とする報告書をまとめ、1932年10月1日、日本に通達した。日本はその直前の9月15日、既成事実化をねらって満州国の承認に踏み切っていた」(21頁参照)。

 大著として、『中国側からみた「満州事変」9・18事変史』(易顕石著他 早川正訳、新時代社、1986)を挙げたい。紙数の都合上、「第9章 9・18事変の歴史的教訓」から、一部を採録しよう。
  「1931年の9・18事変から、1945年9月3日の日本投降の日まで、ちょうど14年間にわたって、日本帝国主義は猖獗をきわめた。この14年間において、中国人民とその他多くのアジアの国家や地域の人民(日本人民を含めて)が受けた災害は、実に空前のもので、その損失は統計にとる方法がないほど、ひどいものであった。日本帝国主義について言えば、この9・18事変は、彼らが、アジアに覇を称えようとして起した大規模な侵略戦争の起点をなすものであると同時に、それはまた、彼ら自身が滅亡へ向って歩み始めたその第一歩でもあった」(480頁参照)。


 次に、盧溝橋事件(1937年7月7日)についても、田母神氏はその原因について次のように述べている。「盧溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた」。「盧溝橋の仕掛人は中国共産党」だったと吹聴している。更に「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と釈明している。また「盧溝橋事件の時でさえ」、「北京の日本軍は5600名」しかいなかったと言っている(田母神、前掲論文40-42頁)。

  以上の歴史的背景について、まず指摘したいのは、1900年の義和団事件によって、日本軍を含む連合軍の駐留問題があることは事実である。しかし中国がいつまでも駐留を望んだわけではない。にもかかわらず、日本軍は盧溝橋事件の時に、日本軍が駐留していたことを当然視し、5600名しか駐留していなかったと言うのは、独立国中国に対する蔑視の思想による。
盧溝橋事件が勃発した背景について、次のような歴史の事実を確認しておきたい。
 「日本は満州を武力で占領し、ここに傀儡国家『満州国』をつくりあげたのちも、中国にたいする侵略の歩みをとめなかった。1935(昭和10)年から36年にかけては、満州に隣接するチャハル省や河北省への進出をつづけ、華北5省(河北・山東・山西・チャハル・綏遠の中国北部の5省)を中国から切り離し、第二の「満州国」化しようとする華北分離工作を強行した。満州事変後、満州全域の日本軍を統轄することになった関東軍は、満州国内の抗日武力闘争の背後には、中国共産党があり、その浸透をふせぐためには、華北を日本の実質的支配下におき、反共親日の地域としなければならぬとして、この工作の推進者となった」(藤原彰『昭和の歴史 第5巻 日中全面戦争』小学館、1988、58頁)。
 義和団事件から36年も経っているのに、日本軍が盧溝橋の近くに、中国の反対にもかかわらず、5600名も駐留していたと言うべきであって、田母神氏の説明は根本的に間違っている。藤原彰氏が正確に述べているように、盧溝橋事件の要因は、関東軍が華北分離工作を推進していたこと自体が日中戦争の発端(前掲書、58頁)だった。

 ここで補足しておきたいことは、7月9日に、中国側、日本側は戦闘を中止し、7月11日になって、現地では協定が成立した。にもかかわらず、同日、日本政府(第一次近衛文麿内閣)は、華北の治安維持を大義名分に派兵を決定した。それこそが対中国全面侵略戦争に道を開くに至った要因であり、派兵決定を速断したのは、日本側の「一撃論」であった。中国弱し、一撃で解決可能といった侵略の思想が平和による解決ではなく戦争による解決に道を開いたと言うべきであろう。日清戦争(1894-1895)に勝利した日本の思い上がり、中国弱しと植えつけられた国民感情が長期にわたる侵略・加害の歴史となったことを沈思黙考すべきであろう。

 田母神氏が日米戦争に至る過程での出来事、いわゆるハル・ノートに触れているのはむしろ当然だが、ハル・ノートの背景について極めて無責任かつ非歴史的な説明をしているので、改めて歴史の事実について報告しておきたい。
 ハル・ノートはアメリカのハル国務長官のノートであるが、1941年における日米交渉にあって、日米両国はどちらも日米戦争を望んでいないと思われるような交渉振りだった。しかし、1941年11月26日、ハル長官が今までの交渉振りとは一変した厳しい内容、日米開戦を不可避と思わせたハル・ノートを野村吉三郎、来栖三郎両大使に提示した。「日本政府は、中国、仏印より一切の軍隊を撤退させること、三国同盟の否認などが盛り込まれていた」(前掲、『検証 戦争責任 Ⅱ』、87頁参照)。
 もちろん、東条英機は首相に就任(1941年10月18日)直前の10月12日、萩外荘会議で、「駐兵問題は陸軍としては一歩も譲れない」と主張していた。就任直後の11月5日の第七回御前会議は、「重大問題ハ駐兵撤退ノ問題ナリ。惟フニ撤兵ハ退却ナリ」と発言し、対米交渉が成立しない場合、12月初旬に武力を発動することを決意した重大な会議だった。

 一方、ハル・ノートの本質は日本側の反応とは異なり、日本軍の撤兵を強く求めるに至った要因は、連合国であった中国からの要請に応答せざるを得なくなったアメリカがハル・ノートにその姿勢を反映させたことにある。日本では、1940年以降、対米戦争必至と考え、第二次近衛内閣(1940年7月22日から)は矢継ぎ早に、大東亜新秩序・国防国家の建設方針を内容とする基本国策要綱決定(7月26日)、武力行使を含む南進政策決定(7月27日)、日本軍の北部仏印に進駐(9月23日)、1941年7月28日に至って、南部仏印進駐を開始し、ついに9月6日、「御前会議、10月下旬、対米英蘭戦の準備完成」という状態となり、10月18日の東条英機内閣成立直後の11月5日、「御前会議」では、先に述べた東条英機首相の中国撤兵絶対反対の意思表示に見られるように、ハル・ノートの撤兵要求よりも先に、対米交渉不成立の場合、12月初旬の武力発動を決意していた。ハル・ノートの提議(11月26日)に衝撃を受け、12月1日、「御前会議」において対米英蘭開戦を決定したと言うのは釈明に過ぎない。
 したがって、アメリカ側の対日戦争必至を思わせるハル・ノートの背景にあったものは、田母神氏の論文のように、一方的にアメリカ側を非難しても全然説得力はない。
 日本が対米戦争を前提に「南進」政策に踏み切ったのは、1940年7月22日、第2次近衛内閣が成立した直後の「基本国策要綱」(7月26日、閣議決定)と「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」(7月27日、大本営政府連絡会議決定)の二つが、「歴史の転換をもたらした画期的な決定」と言われていることを改めてここで強調しておきたい(矢野暢『「南進」の系譜』中央新書、155頁)。



【論文】田母神論文「日本は侵略国家であったのか」を駁す 一括PDFファイル (264KB)  

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重慶大爆撃裁判(第9回)
2009年4月13日(月)午後2時30分~
(右端の画像をクリックしていただくと、チラシがごらんになれます。→→→)

東京地裁103号法廷にて行われます。
☆1941年6・5大隧道惨案で兄を亡くした
原告蒋万錫さんが法廷で意見陳述します。


なお、裁判終了後の午後4時より、
弁護士会館にて報告集会を予定しています。

みなさまのご支援・傍聴をお願いします!


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皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、第13回学習講座開催のご案内です。
(右端の画像をクリックしていただくと、チラシがごらんになれます。→→→)

と き:2009年4月13日(金)午後6時半~
ところ:文京区民センター / 3-C会議室
   (都営三田線春日駅 A2番出口直上、地下鉄丸の内線「後楽園駅」徒歩3分)
資料代:500円



◆中国側からみた重慶爆撃
   -空襲警報・防空洞・爆撃下の市民の暮らし
 講師 石島紀之さん
(フェリス女学院大学教授、中国近現代史)
  著書に『中国抗日戦争史』『雲南と近代中国』(以上、青木書店)
  『重慶国民政府史の研究 』(共編著、東京大学出版会) ほか
  テキスト:石島紀之ほか著(高文研、09.1)    
  『重慶爆撃とは何だったのか-もうひとつの日中戦争』

◇コメンテーター 前田哲男さん(ジャーナリスト・沖縄大学客員教授)
  「重慶大爆撃被害者と連帯する会・東京」代表  
  『戦略爆撃の思想』 (凱風社) 著者 

 

皆様のご参加をお待ちしています。  



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